うちなびく、

12

 僕は透明人間だった。手のひらを透かしたら、目の前をチョロチョロと流れる小さな小川が、かざした手の下に見えたから、間違いない。茂った木の枝の隙間から漏れた月影が、流れる小川をキラキラと反射していた。

 

 紺色の闇に紛れて、僕の目の前を赤色の広い袖が通った気がする。視界の端で捕らえたそれを辿るようにして見据えた目の前に、ふたりはいた。

 

 ざざ、と、生暖かい風が木々を揺らすなか、ふたりの影は重なるか重ならないかの駆け引きを楽しむように揺れ、やがて大きな影が焦れたようにぴったりと小さなそれを覆う。

 

 霞のかかった朧月夜に照らされた先生の顔をしたそのひとと、僕の知らない女性とが、なにかをささやきあう。むつましいその影に胸がキリッといたんだけれど、絡まっていた糸のほどけたような表情の先生はひどくなつかしいような気がして、心が温かくなる。

 

 きれいだ。

 

 波紋ひとつ浮かばない水面のように静かで、穏やかな夜。

 

 きっと先生の記憶、最初で最後の逢瀬。へんなの、先生の記憶なのに、先生のコロコロと変わる表情ばかりが僕の視界に映る。

 

 大丈夫、――千年、気が遠くなるかもしれないけれど待っていて。僕が会いに行くよ。
 
 
 同じようなやわらかい風に頬を撫でられて、目を開く。薄いカーテンの外から見える血液のように赤くて丸い月が、窓の外にぽっかりと浮かんでいる。地肌に直接布地が当たるのを感じながら、ずるずると起き上がろうとして、腰の痛みに思わず顔を歪める。

 

「いたい?」

 

 横を向くと、ずっと近くでこちらを向いている先生が、夢のなかとすこしも変わらない柔和な笑みをたたえて、寝転がりながら僕を見ていた。月の光に照らされて、赤い瞳の奥が宝石のように輝いている。しどけない格好と相まって、この世のものとは思えないほど美しい。

 

「……いたい、というか、へんな感じ。なんで?」
「ん、泣いているから」

 

 先生が腕を伸ばして、濡れていた頬をやさしく拭う。そうされてはじめて、なぜだか涙がこぼれていたことに気づいた。

 

 ああ、夢っていうのはどうしてこんなに忘れっぽいのだろう。

 

 先生が現れる大切な夢を見ていた気がするというのに、今目の前にあるこの表情が浮かんでいたこと以外は、霧のように飛び散ってわからなくなってしまった。

 

「大事な夢を見た気がしたんだ……」

 

 そう、とつぶやいて、先生が僕のからだを抱き寄せる。そのまま、ぽんぽんと頭を叩いてなだめてくれた。

 

「先生は寝ないの?」
「うん、葉月が腕の中にいることがしあわせで、まだ眠れそうにない」
「……寝ている僕がしあわせを感じていないみたい」
「おまえはまだ小さいから。子どもは眠らないと、だからね」

 

 その子どもに、あんなことをしておいて、よくもまあぬけぬけとそんなことをいえたものだ。そんなふうに言い返そうと思ったが、いった瞬間さっきまでのことが頭をよぎって恥ずかしくなってしまうと、先生に形勢逆転されていじめられるからやめておく。うう、とかむう、とかそんなくぐもった声を出して、終わった。

 

「葉月」
「なに?」
「さっき、一緒にいるかどうか選択する日がくるとはいったけれど、……あれはすぐじゃない。まだ時間はあるから、ゆっくり決めれば良い。とりあえず日が昇ったら、今日のところは一度おまえの世界に、家に帰りなさい」

 

 頷いた。

 いい子、というように、先生が僕の髪の毛をかきまぜる。

 

「もうすこし眠ろうか」
「もう、寝れないよ。いっぱい寝た」
「それはどうかな」

 

 くすくすと笑われて、先生のおなかのあたりをつねってやる。ひとのからだをしたそこには、すこしうすいけれど肉の感触もある。それにひどく安心して、ごそごそと移動しながら、先生の胸のなかでちょうどよい位置を探した。

 

 しあわせだ。よろこびで目が冴えたままずっと先生のきれいな顔立ちを眺めていられる気すらするのに、いつの間にか僕はまた、泥のような眠りに落ちていく。

 

 素肌を重ねるようにしてくっついたからだから、徐々に力が抜けていった。

 

 目が冷めても、まだ、先生がいる日常がそこにある。
 僕たちはふたり、だからひとりじゃない。
 
 
 
     *
 
 
 
 エネルギー切れのからだが必死に充電をするように、あっという間に寝息を立てはじめた小さなそれが弛緩していく。見下ろすと、まだ少年っぽさを残したあどけない顔立ちで、葉月はうすく呼吸をしながら眠りについていた。

 

 ――僕は平凡だ。

 

 決まりきっている、とでもいうようにそう葉月はぶすくれて話すが、おおかたの周囲が葉月の素朴だが人好きする容姿を好ましく思っていることはなんとなく知っている。身長がないのと、からだが華奢なのが相まって、女の子にはあんまり頼られないかもしれないけれど、そこもまた可愛くて仕方がない。

 

 その葉月が、自分の下ではあんなに艶っぽくなるなんて、だれが想像するだろう。この先だれも知ることのない真実だ。さっきまでの濃密な時間を味わうように思い出すと、また感情が高ぶってくるが、これ以上無理をすると壊しそうなのでぐっと抑える。

 

 ほんとうによく寝る――よく寝るようにエネルギーを搾り取ったのはこの私だけれど。そう思いながら、幼く可愛いからだから慎重に自分のからだを放し、頭をひと撫でして寝室から出る。

 

 仮の住処としてそれっぽくつくった部屋を抜けて、玄関を開ける。靴を履くついでに、さきほどの乱れの残滓というように乱雑に放たれた革靴を揃えた。飽きづらい戸口を横にスライドをさせると、春の夜らしい穏やかで涼しげな風がそよいで、背の高い雑草たちを踊らせている。

 

「いつまでそこにいるつもりかな」
「あなたが出てくるまで。あなたが気づいていることは知っていたから」

 

 夜半を過ぎて、もうすぐあかつきがただというのに、その人間は制服のままそこに佇んでいた。見慣れた制服だ――あの子がいつも着ている。

 

「やっぱり何年経っても君だけには、私が見えるんだね。私の姿はあの子にしか認識させていないというのに」
「宮田の――あの子の魂は六の君そのものだ。だから、出来ればあの子をおまえの元に行かせたくはなかった」
「君は、今はあの子のなに?」
「元クラスメイト、ただ同じ学校というだけだ――今はね」
「だから君は、私と葉月の仲をわざわざ取り持ったのかな? それは、君が貴公子だった頃に犯した罪の、その懺悔のつもりかい?」

 

 目の前の端正な顔立ちが、苛立たしげに歪む。鏡のように、私の顔も歪んだのだろう。

 

 ――先生があの女性をすごくすきだったのは、日記に書いてあったからわかった。それにあの女性も先生のことがすきだったんだってことも。

 

 ――六の君は先生のことが忘れられなかった、自分の孤独を癒やしてくれる唯一の先生と、一緒にいちゃいけないってわかっていたから、春の一夜を最後に別れたけれど、その後だれに愛されても先生が忘れられなくて、後悔していていたって。

 

 読ませたのは、私と六の君の物語ではない。私が一方的にあの日の出来事と自分の感情とを吐露しただけのものだった。しかしあの子は、そこにあの子の当時の想いを乗せて持ってきた。だれかが真実を知っていて、そしてそのだれかが目の前の人間が持つ魂であることも想像に難くはなかった。

「ありがとう、実をいうと私は千年前と同じくとても迷っていた。孤独な私にはわからないが、あの子には背負った一族もあった、決められた将来もあった。それを私が壊してしまうことが怖くて千年前にはその手をはなしたが、それが間違いだったことをが君のことばではっきりと証明された」

 

 ――六の君は先生のことが忘れられなかった、自分の孤独を癒やしてくれる唯一の先生と、一緒にいちゃいけないってわかっていたから、春の一夜を最後に別れたけれど、その後だれに愛されても先生が忘れられなくて、後悔していていたって。

 

 それは私の知らない真実、あの子を手放した後の、あの子の物語。
 聞いた刹那――固く誓った。あの日のように一度契りを交わしたら、今度はもう二度とあの子を離しはしない、と。

 

「俺は、宮田がしあわせならそれで良いと思った。だから宮田に真実をやっただけだ、もう苦しい想いをしてほしくなかった。だが、――今でもおまえが宮田を自分の世界へ引きずり込むのが正解とは思わない」

 

 もう遅い。あの子は昔のように、深くからだを繋げることの喜びを私によって知らされた。

 

 そして私はもう二度と同じ過ちは犯さない。あの子を自分と違う世界へ戻したりしない。

 

「おまえたち人間はあの子をしあわせにしなかった。……――今度は二度と、はなさない」

 

 千年もの間同じ春が巡った。桜が散りしきるのを見ながら、たったひとつ――愛したあの子の色をした魂が再び宿ることを待ちわびていた。

 

「鬼め」

 

 男は憎々しげにいい放つ。

 

 たったひとり、おまえが私を孤独の深淵から救い上げた。私を慈しみ、理解し、そばにいたいと願ってくれた。一度目は手をはなしたが、二度目は間違えない。

うちなびく、 ――いいよ。身代わりでも、なんでもいい。 全部の真実など知らなくても、私がすべてからおまえの視界を覆って、今度はおまえをしあわせにする。
Fin.

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