うちなびく、

10

 問題は、どうやって先生のところへ行くか、である。おそらくこの閑静な住宅街のどこかが、密やかな先生のあの家と繋がっているはずだけれど、それは考え込んでしまうとどうしても頭がもやに包まれたようにはっきりとしない。まるで無意識のように歩みを進めていたみたいに、何度も行った先生の家までの道のりが定まらない。知っているはずなのに、見つけられないのだ。

 

 放課後学校を飛び出してから最寄りの駅までいつも通り電車で帰り、そこからはひたすら適当に歩き続けた。あっちだっけ、この景色は見たことない、よく曲がっていた気がする……といった具合に。

 

 あたりが夕焼けで赤く染まり、歩みを進める僕の影も濃く伸びはじめても、先生の家にはたどりつかない。疲れが溜まってきてため息が溢れるけれど、周囲を注視することをおろそかにしながらも歩き続ける。

 

 ――葉月、来たんだね。

 

 先生はいつも、僕が来ることを最初から知っていたみたいに、書斎から振り返って涼やかな笑みを浮かべていた。

 

 だからきっと、僕がこうして先生の家に向かって歩いていることに気づいている。

 

 道を通してくれないのは、いつまでも霞がかったようにあの古屋への家路が浮かばないのは、他ならぬ先生の仕業だ。

 

(諦めないぞ、通してくれるまで)

 

 細くちぎれかかった雲の浮かぶ夕日が、紫がかって、やがて周囲が暗がりに飲まれていく。もう何時間かは歩いている、いつもならとっくに先生の家へつくはずだ(普段先生の家までいったい何分くらいでついているのか、時間や距離の感覚もよくよく考えたら思い出せないのだけど)。

 

 先生に会いたい。

 

 怖くない、先生はずっと僕を見守ってくれただけだった。

 

 見上げると、春らしい雲ひとつないくっきりとした空に、さやかな月の光が差し込んでいる。夜だった、そろそろ仕事を終えたサラリーマンや少し遅れて買い物を終えた主婦さんとすれ違う頃だったけれど、あたりはさっきからしんと静まり返っていた。

 

 空から目をはなして周囲を見ると、どこか見覚えのある景色が浮かぶ。

 

 刹那、記憶を覆っていたなにかがパチンと弾けるように、思い出した。

 

 はやる気持ちを抑えて歩き出す。

 

 ああ、よかった、覚えている。
 こっちだ、この先に先生がいる。

 

 だれかがスイッチを入れ替えたみたいに。

 

 蛇行した細い坂道をすこし降りると、それだけ浮世離れしたような家の門が見えた。昭和のお屋敷のようにそびえるそれを確認してから、錆びついた黒いそれを通って、雑草を踏みながら玄関口へと急ぐ。月の光にやわらかく照らされたそれを、夜に見るのははじめてだった。風のせいで草と草が絡み合って、ざっとオトを立てる。

 

(そういえば、先生は夜に僕と会おうとしなかった)

 

 だからだろうか、夜のこの家は、別のものみたいだ。たしかに先生の家なのに。
 扉に手をかけて、ノックをする。いつもながら返事はない。

 

「先生、いるんだよね。入るよ?」

 

 扉の向こうは、死んだように静まっている。

 

 扉に手を掛けて、横に引こうと力を入れるけれど、――それは難く閉ざされていた。びくともしないそれに、前を見つめる。だって、先生の家には鍵なんて掛かっていない、それどころか壊れかかっていて使えない。

 

 扉の向こうは、だれもいないみたいにしんみりと静かだ。

 

「先生、いるんだよね。ドアを押さえているのは、先生?」

 

 でもずっと近くで、だれかが息を殺しているようにも感じた。先生の気配を、古い扉を一枚隔てた向こうに、かすかに感じるのだ。

 

「ここにまた通してくれて、ありがとう。あと、僕をいつも思いやってくれた先生のことを突き放して逃げて、ごめん」

 

 返事はなかった。

 

「先生に会いたい。お願い、開けて」
「葉月がずっと私を探しているから、あのままじゃ何時間でも何日でも探すって思ったからだよ。でもここは開かない、もう帰ってほしい」

 

 懐かしい声が、扉を隔てた向こう側ではなく、直接耳に吹き込まれるように届いた。

 

 それはいつもよりもピンと張っていて、どこかつめたい拒絶が含まれている。葉月とやわらかく呼ぶいつもの先生の声じゃない。

 

「帰りたくない、お願い。先生に伝えたいことがある」

 

 当然だ、あのとき僕は自分のことしか考えられずに、先生を傷つけていた。

 

「傷つけてごめん。先生はずっと僕を見ててくれたのに、やさしく大切にしてくれたのに」
「うそをつけておまえをたばかったのは、私のほうだよ」

 

 もう一度先生の顔がみたいんだ。

 

 気が遠くなるほど長い日々を送っていた先生の孤独を、一緒に共有したい。先生がなんだっていい、一緒にいれないのは、一緒にいて怖い想いをするよりもずっとつらい。

 

 無理矢理でもこじ開けようと、ありったけの力を込めて扉を横に引っ張る。ふいに聞いたことのある音がして、下を見るといつもスライドしたときのように滑らかに開かないときに扉が少し開いたときのように引っかかっていた。

 

 わずかに開いた扉の隙間から片手を伸ばすと、屋敷の中は長く生き物が暮らしていないようなつめたさを帯びている。手のひらを動かすと、なにかにふれた。捕まえたと、それを――先生の手を掴んだ。

 

「お願い、……おねがいです。開けて、先生」

 

 刹那、差し出した手のひらを引っ張られて、からだがなかに一気に引きずり込まれる。反射的に後ろを振り向くと、視界の端にさっきも見上げた月の影がちらついた。それはなぜか、まるで知らない星のようにひどく赤く染まっている。暴力的な音を立てて、扉は僕と世界を遮断するように閉まる。

 

 からだがその力によって反転してすぐ、背中をひどく固いなにかに打ちつけた。それがいつも何気なく踏み進めていた玄関であることに気づいて、衝撃に瞑っていた目を開く。

 

「せ、んせい……?」

 

 この家を住処にしているのが先生だけだったから、それが先生であることがわかった、それだけだった。あのとき視界をちらついた赤い双眸が、僕を見下ろしている。でも、ひとの形をかたどっていたそれは、今はなんの形でもない。あたりを飲み込んでしまいそうなほどにつややかで黒々とした影。それに、真上から拘束した僕を見下ろすふたつの赤い瞳。大きな闇が僕を周りを塗りつぶすように、あたりの光が閉ざされて真っ暗になる。

 

 指一本動かせないのは、先生が僕のからだを捕まえているからだろうか。

 

「驚いたかい?」

 

 驚いているに、決まっている。

 

「これが、千年前から変わらない私の姿だよ。あやかしの一つ、昔は“鬼”と呼ばれていた僕たちには、蒔絵に出てくる角も長い爪もない。そのような姿にも人間の姿にもなることなら、自由に出来るけどね」

 

 まぎれもない先生の口調が、この黒い影のどこからともなく聞こえてきた。

 

「葉月、これでわかっただろう。私たちは種を異にする、生き方も生きる時間も違う。いずれ潮時になると思っていたから、今ならちょうどよい。ここにくるのはもうやめなさい」

 

 黒い影が、僕の頭をかすめる。

 

 そこにはやさしい手のひらも温かみを帯びた温度もなかったけれど、それがまぎれもなく先生であることを僕に教えてくれた。

 

「どうして、帰れなんて言うの。先生がひとを装ってついていたうそが、僕にバレたから?」
「それもあるね、でもそれだけじゃない。私たちは元々混じり合ってはいけない運命だ。これが私だ、実体を伴わない霧のような黒い影。こわいだろう」
「こわくない」
「でも、震えている」

 

 気づかれていた。

 

 当たり前じゃないか、怖いに決まっている。こんなものは本でも映画でも見たことないのだから、ビビるに決まっている。それでも、これは先生だ。

 

「ほんとうに、こわくない。……ただ、ちょっと慣れないだけだよ」

 

 なんだっていい、僕を一番近くでいつも見守ってくれた先生が、たとえひとじゃなくても。

 

「先生と一緒にいたい」

 

 拘束が解けるのと同時に、あちこちに霧散していた黒い靄が目の前に固まって、それから徐々にいつもの先生の姿が顕になる。目だけは赤く輝いたまま。うなだれたように目の前に座り込んで、僕を見下ろす先生の瞳には、怒りや悲しみだけでない――戸惑いが見えたような気がした。

 

 宝物を落とした子どものような表情と、いつも僕の前で余裕を見せるやわらかい笑みがうまく重ならなくて、確かめるように先生の顔に手を伸ばす。透き通るような白い肌が手にふれた。

 

「先生の日記、友達に読んでもらったんだ。勝手なことしてごめんなさい」

 

 なめらかな肌は、たしかにひとそのものなのに、先生はひとじゃない。

 

「先生があの女性をすごくすきだったのは、日記に書いてあったからわかった。それにあの女性も先生のことがすきだったんだってことも」

 

 なぜか、先生の表情は驚いたようなそれに変わった。

 

「六の君は先生のことが忘れられなかった、自分の孤独を癒やしてくれる唯一の先生と、一緒にいちゃいけないってわかっていたから、春の一夜を最後に別れたけれど、その後だれに愛されても先生が忘れられなくて、後悔していていたって」

「……そう、よく読んでくれたんだね」
「だから、先生は未だにそのひとが忘れられないんだよね。僕とどうして会ってくれたのかはわからないけれど、同じように孤独な僕を慰めてくれたってことは、わかるんだ」

 

 六の君が先生に惹かれたの、同じ先生に惹かれたからこそ、わかる気がする。

 

 だって、あの日から時々夢を見ていたんだ。先生と花のように美しいそのひとの背中が、お互いを求めるようにすこしだけふれあっていることを知っている。

 

 それに、同じひとをすきになった僕には、そのひとの気持ちがわかる。

 

「僕は、その女性みたいに後悔したくない、今日みたいに先生を見失って何時間も歩き続けるのも、会えないって思うのもいやだ。それは、会ってこわいって思うよりもいやなんだ」

 

 こんなにも近くにいるのに、先生の形が歪んでもやもやしていく。それは先生がかたちを変えたからじゃない。

 先生の手のひらが僕の頬を撫でた。

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