うちなびく、

09

 夢路を歩いていると、まるで最初から知っていたかのように、人間離れした先生の不自然さが、記憶の糸をたどるようにして僕のからだをさらさらと駆け抜けた。

 

 そもそも、やっぱりね。あんなにきれいなひとが世の中にいるわけがなかった。いくら人付き合いが皆無だからってあんなにも透き通るように青白い肌の色が普通なわけないし、顔立ちが陶磁器のように整っていることもないだろう。ふれる先生の温度は温度を持ってはいなかったように思う。

 

 それに、年齢よりもずっと長く生きた仙人のように、やさしくさびしい目をしていた。

 

 それでも今僕が夢のなかで見ている先生との記憶のように、あの日々が夢でないのならば、願わずにはいられないことがある。

 

 僕を撫でた先生は、僕をからめとるように先生との世界にいざないながらも、すこしでも僕をあわれと思ってくれただろうか。

 

 ――いい子だね、葉月。

 

 あのことばは本心だろうか。常世の慰めにでも、僕を大切にしてくれただろうか。

 

 僕と一緒にいる間、いつまでも忘れられないすきなひとを、すこしでも記憶の外へとはじき出すことが出来たのだろうか。

 
 
 考えないように、さとられないように、長年鎖にかけるみたいに蓋をしていた気持ちと向き合ってみてわかった。僕はいつの間にか、自覚したあの瞬間よりもずっと先生のことがすきで仕方なくなっている。

 

(先生は、やっぱり、すごい)

 

 すきなひとと会えない、すきなひとが振り向いてくれないことを知りながら、気が遠くなるほど遥かなときを過ごしてきたのだから。

 

(あいたい)

 

 でも、意識すればするほど、僕はどうやって先生の元へ行けばよいのかわからない。もう道は閉ざされているのかもしれなかった。 
 
 
「……た……みやた」

 

 泥のような眠りの世界から引き起こされると同時に、からだへの強いゆさぶりを感じる。あ、と目を覚ますと、そこは学校だった。あまりにも眠かったのだろうか――まるで夜中にベッドへ横たわっているときのような、ひどく深い眠りだった。

 

「授業、終わっているみたいだけど」

 

 寝覚めのぼんやりとした視界が、仕方なさそうにため息を吐く松原でいっぱいになる。ピントが合うにつれて、普段はさわやかな笑顔を添えている整った顔立ちが、神妙な面持ちになっていることに気づいた。

 

「え、と……おはよ」

「おはよう。今日は、忘れてなさそうだな」
「うん、そうみたい」

 

 先生は僕の記憶をいじらなかったのか、それともいじることが出来なかったのだろうか。

 

 ぼやけた視界がはっきりと寝覚めの世界に慣れるのを待つと、からっぽの教卓とすっかりきれいにされた黒板。どうやら授業が終わって結構時間が経っているらしい。なんだか寝ぎたなくなっている気がする。

 

 相変わらず周囲は「なんで学校一のイケメン男子と特に目立たない宮田が?」という遠慮がちながらもまったく隠せていない視線をビシビシ感じた。松原に諭されて、お弁当を持って席を立つ。

 

「松原って、昼はいつも何?」
「だいたい購買。弁当っていいよね、羨ましい」

 

 松原の昼食事情すらそれほど意識したことはなかったが、確かに一年の頃から、教室にはいなかったことを思い出した。

 購買に行くと、松原は荒波のような人の隙間をくぐり抜けて食事を調達してくる。それから階段口へと足を進めた。

 

「今回は宮田から約束取りつけてきたから、ちょっとびっくりした。おまえ、俺みたいなうるさいの苦手だと思ったし、この間のこともあって結構ショック受けてたし、もうしゃべる機会ないかなって。ほら、こないだ本も返したし」

「うん……ちょっと、ね」
「まあ、寝てて来ないとは思わなかったけど」
「ごめん、眠かったみたいで」

 

 すこしも怒っていないことを、責める口調で意地悪っぽくいう松原の様子を見ると、どうしてこのひとが学校中の女の子を虜にしているのかわかる。端正な顔立ちだけでは説明できない、会話の心地よさや機転の利く賢さみたいなものを兼ね備えている。

 

「松原のこと、今は苦手じゃないよ」
「前は苦手だったんだ」
「それは揚げ足」

 

 埃っぽい階段に腰を下ろして、お弁当を開く。一段後ろに腰掛けていた松原のほうからは、さっぱりとした容姿には似合わず、無骨にガサガサとビニールを開ける音がした。

 

「あの……なんとなく、松原に話してみようかなって、思って。ただ、ちょっとへんな話なんだけど、聞きたくなったら途中でストップしてくれていいよ」
「ストップなんてしない、宮田の話だからね」

 

 お箸を持ちながら松原の方にからだを向けると、はじめから斜め上の松原は僕にからだを傾けて真剣な面持ちで見下ろしている。ああ、本当に――かっこよさだけでない、松原の魅力に惹かれる女の子の気持ちがよくわかる。あんな冗談をいったあとに、恥ずかしげもなくこんなにも優しくて真剣な表情で話を聞くのだから。

 

 話をすることを、何度か躊躇した。どこから話すか、話してどうするのか――そもそも記憶の端々(それもまだ僕が自覚していないところまで)が曖昧な状態である可能性が高い自分は、一体どこまで冷静に話ができるのか。

 

 それでも、僕は知りたい。先生のことを。

 

 あんなふうに最悪な別れ方をして逃げてしまった。そもそも、もう道は開かれなくてあの姿を見ることは出来ないかもしれない。

 

「ありがとう」

「うん、まあ昼休みはまだあるし、最悪五時間目は潰そうよ。大切な話なんだから」
「松原って優等生なイメージだった」
「怒られない程度の優等生さあ」

 

 松原がおどけて見せる。

 

「それで、話なんだけど……どこから話したら良いかな、えっと……」

 

 僕はゆっくりと、自分の先生に寄せる不埒な想いだけを隠して、本にまつわるすべてを話した。本の主人は自分の昔からの知り合いで、引きこもりのへんな小説家で、家は蜘蛛の巣と雑草の支配する古い佇まいであること。その先生が、ひとではないということ。

 

「ほんとうに自分でことばにしてて支離滅裂だなとは、思う。ごめん」

 

 おとぎ話じゃないのだから、高校生にもなってこんなオカルト話を大真面目でするなんて、どうかしている。話し終わると、どこからともなく不安や後悔が押し寄せて下を向いたが、それまで僕の話を一言も遮らずに聞いてくれた松原は、小さく「信じるよ」といった。

 

「宮田も、あの本も、目に見えるものを信じるよ。それで、宮田はどうしたいの?」
「あ――……ぼくは、お願いがある。松原に、本の中身をもっと教えてほしい」

 

 裏切られ続けていたという憤りと、ひとでないものへの畏怖と、顔も知らないお姫様への嫉妬が満潮の日を過ぎた浜辺のように引いていくと、あとに残滓となって残ったのは、それでも変わらない先生への想いだった。

 

 もう一緒にいられないのなら、この想いがかなわないのなら、せめて僕は知りたい。

 

 先生の愛したひとと、先生の話を。

 

 胸がチクチクといたむ。もう会えないかもしれない寂しさは、怖さや怒りよりもずっと大きい。

 

 ねえ、宮田、――この持ち主はなに? 鬼といわれたあやかし、そう本文に書かれている。でもそれはひとではないものだ……なにがこの日記を書いたんだろう。

 

「あ、そうだね。たしかに本の中身は、作者と六の君である朧月夜の君との物語としか伝えていなかった。もちろん良いよ、宮田にはその権利があるから」

 

 これまでのすっとした真剣な表情がいくらかやわらぐ。同時に、さっきから僕の肩を上から押し続けていたみたいな重力がなくなった気がした。どっとからだから力が抜ける。

 

「どうしたの?」
「いや、……えっと、信じてくれるんだって思って。へんじゃないんだって」
「宮田のいっていることはおかしいことじゃないって、俺知ってるからね」
「ありがとう」

 

 もしも先生が鬼ならば、怪しく光り輝いた赤い瞳と、夜と交じりあったひとのかたちではないからだで、僕を殺すことが出来たかもしれない。そして、だれかから僕の記憶を消すことも出来ただろう。

 

「月日をたどると、六の君が鬼によって宮廷から姿を消したある一日は、光源氏と密会を行うはずだった日付になる。春の夜桜がきれいに散っていた、という鬼の日記も、伝わっている『源氏物語』の描写と酷似しているから、たしかだと思う。『源氏物語』ではその日、敵対関係であったお姫様と光源氏が恋に落ち、一夜のうちに結ばれているんだ」

 

「じゃあ、光源氏は六の君と一緒にはならなかったってこと? でも、須磨だっけ? そっちの田舎のほうに行ったのはそのひとのせいってことだから、その後の話と辻褄が合わない。……罪を被ったのかな」

 

「そうだな、でも、細かいところはそのときに生きていたひとたちしかわからないだろうね。何人ものひとが辻褄合わせに物語を書き足しているはずだから」

 

「六の君って、どんなひとだったの?」

 

「すごく大切に育てられたお姫様だよ。花と見紛うほどきれいだったって書いてた」

 

 あのひとは、花のように儚いそのひとに恋をしたんだ。

 

(そんな純愛なら、そういうものを書く小説家になれば良いのに、どうしてまた現代では官能小説を選んだんだろう)

 

 やっぱり先生はへんだ。
 なんでまた、生きていない外国の話を書いたりしているのだ。

 

 ……今となっては、その小説が幻か実在するのか、わからないけれど。

 

「一夜で鬼は六の君に魅入られてしまう、そのときのことは本当に事細やかに書いてあった。えーっと、それも全部説明する?」
「出来れば……」
「オーケー」

 

 松原は僕にもわかりやすいように、なるべく平易なことばで先生のことを話してくれた。それはまるで物語のように心地よく僕の耳へと入ってくる。僕は長い時間を掛けて、先生がかつて先生が愛したひとへ、抗いようのない力に引っ張られるようにして心を寄せていったことを知った。

 

「鬼の孤独が、一夜でだれかと混ざりあった喜びは図り知れないと思う。でもそれは、六の君も同じだ。えーっと、朧月夜の君のその後って知ってる?」

 

 首を横に振る。

 

「大きな権力を握る家で、とても大切に育てられた。そして、帝のお嫁さんになるっていう約束された将来もあったんだ。だけどその約束は、光源氏と密会したという不祥事によってうやむやになった。帝は六の君という女性をとても魅力的に思っていたから、結果としてはお付きの女性として仕えさせたんだけど。――でも、六の君の心は満たされなかった。何度季節を重ねて、異なる時間軸を過ごして老いていっても、鬼のことを忘れたことはなかった。そういう意味では、境遇や種は正反対だけど、ふたりとも同じように孤独だったんだろうね」

 

 ああ、僕にも覚えがあった。
 家は豊かなはずなのになぜか満たされない心は、先生が癒やしてくれた。

 

 先生はもしかしたら、僕とそのひとをすこしだけ重ねていたのかもしれない。

 

「同じ想いだったんだ。先生とそのひとは」

 

 本はとてもかなしいお話だった。でも千年前に、たしかに先生とそのひとは心をつなげていたんだ、だから先生はこの本を後生大事に持っていたのだ。

 

 先生には常に孤独の影が染みついていたから、なんとなくまだ見ぬその女性と先生とが重なって、それは一枚の絵のように僕の脳裏に焼きつく。

 

「ごめん、松原。ありがとう」

 

 はっきりとわかったことがある。
 そのひとをなくした今、先生はほんとうにひとりぼっちだったこと。そして、その先生とまた会いたいということ。そばにいたいということ。

 

 うそをつかれた憤りも、自分と種を異にするという恐怖も、まだなくなっていないのに、僕はまだこんなにも先生がすきだった。

 

「やっぱり、もう一度そのひとに会いたくなった」

「宮田にとっても、大切なんだね」
「うん。たいせつ」

 

 先生が悪い。

 

 自分の孤独をまぎらわせるみたいな道楽で、僕を絡め取って小さなときから甘やかした。そのせいで僕は、先生がなにであろうと、一緒でなきゃいやだと思ってしまった。たとえ恋が叶わなくても、先生に想い人がいても、それは変わらない。

 

 際限のない旅路を歩いていくように、どんどん先生に惹かれていく。

 

「そっか、俺もどこかでわかってたよ、宮田がこの本の主を大切にしていること」

 

 松原は静かにそういった。

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