うちなびく、

08

 まるでだれかがきれいに穴をくり抜いて記憶を零したように、それだけが違和感なく抜け落ちている。そこだけ霞んだせいであっという間に見失って、見失ったことすら名残もなく頭から消えている。そんなふうに、僕は忘れていた。

 

 ――ああ……だれなんだ……だれに渡した……あれは僕が研究するはずだった。物語の真実を……僕が……。

 

 ドロドロと実態をなくして僕のからだへと染み込んでくる悲痛な声と、傘の効果もなく制服を濡らしていく小雨と、異様に僕の腕を強く掴むあの手の感触。不気味でおぞましくて、走って逃げている間はトラウマになって夢に出てきそうなほど恐ろしいあの記憶を、僕はどうして“ど忘れ”しているのだろう。

 

 昼休みの時間だけでは到底終わらず、放課後も松原と落ち合って話し込んでいたからか、いつもよりも先生の家へ上がる時間が遅くなった。

 

 そろそろ根が張って開け閉めも危うくなりそうなほど古い扉の前で何度か深呼吸をして、それから扉を二度ノックした。返事はない。扉を開ける手のひらが一瞬わなないたけれど、それには気づかないふりをして中へ入る。夕暮れのじんわりと赤みを帯びた空が山の端へ吸い込まれて消えようとしている頃――家のなかはほのかに暗く、人の気配はまるでない。もしかしたら、また先週何かの締め切りに追われているのかもしれない。

 

「先生? 入るよ」

 

 後手で扉を閉めて、そっと玄関を抜ける。まだ、先生の声は聞こえなかった。代わりに昼よりもずっと涼しくなった風が玄関口の扉をカタカタと遠慮がちに叩いている。

 

 僕がさわったままになっていた砂糖入れのあるキッチンを過ぎて、そっと半開きの書斎を覗き込むと、――そこに先生はいなかった。いつもそこにいるというのに、今日は持ち主を見失い所在なさげな机と、いつものごとく床に散らばった本があるだけだ。薄暗く埃っぽいそこは、まるで何年もだれもいないような風貌。

 

「……先生?」

 

 先生のいない机は、いくぶん年老いて見える。いつも先生の影に隠れているからだろうか。ボロボロの本たちを踏まないようにつま先立ちでそっと中に入って、あたりを覗く。入稿が終わって力尽きた作家は、本に埋まって床で寝ているかもしれない。そんなばかなことを考えて周囲を見下ろしてみるが、先生のいる気配はなかった。

 

 扉から最も遠いところには、窓に向かっている机と、丁寧に収められた座り心地の悪そうな椅子。小学生のときに兄や姉が使っていた小学生用のお勉強セットというよりは、ただ無造作にものを乗せるだけの、台のように殺風景なそれ。その上には、キチンとたたまれたノートパソコンと、平積みにされた本。

 

 中央には本が開かれていた。

 

 開かれたままのそれは授業の板書をするためのノートよりも薄くもろそうな、まぎれもない古紙だ。ただ、あの日先生の書斎から持ち出したあの本のような、大きく穴が空いた虫食いの跡や、さわった刹那散り散りになってしまいそうな日焼けの跡は見当たらない。

 

「……あ」

 

 小さく息を吐くように漏らした。開かれた本には、ページいっぱいにあの字が広がっていたから。流れる小川を辿るようにさらさらと書かれた、僕には読めないあのニョロニョロとした奇妙な文字だ。

 

 そっと近づいて見下ろす。縦書きのそれを、目線を上下に散らしながらたどっていった。しばらくして、松原の声がひとりでに脳内を反芻する。

 

 カーテン越しに、眩しさをうしなった薄暗い夕暮れに照らされたそれに、目を眇めた。

 

 ――こういうのくずし字っていうんだけど、このひとは癖のある書き方だ。ほら、このひらがなとか見てみて。“か”は普通はね……小さくちょんって曲げられる。小さい“り”みたいなイメージなんだけど、このひとの場合は違うくずし字を使ってるみたい。あんまり見かけない字だ。

 

 どうしてこの字の一部分だけを、僕は読めるんだろう。

 

 ――これ、間違えているのかな。繰り返しに使う字の逸れ方、反対だ。……僕が解読出来るのはこれくらいだけど、すごく癖がある分一回読めたら同じ癖は全部解決するから、たぶん兄は読めるよ。安心して。

 

 そうだ、この逸れ方はおかしいって。

 

 つい二週間前に聞いた、昼まですっかり忘れていたはずの松原のことばがこだまする。ほら、と開かれたページで、松原の指が筆の跡をたどるように“く”の逆方向へ曲がるのを、不思議そうに眺めていたんだった。

 

 あのときと全く同じ形をたしかめるように、人差し指を黒々としたそれに向かって差し伸ばす。

 

 ふれるとそれは、湿った。そして、視界のそれが一瞬――ツヤツヤと光沢を放った気がした。ふれていたのはほんの数秒だった。つめたく雨のように湿った温度を感じて、すぐに指を話すと、指のはらにうすく――黒々としたそれが残った。
 
 ・・・
 残った。
 
 
「葉月、何をしているの」

 

 視界が急に翳った。同時に、太陽の端が消えていき、あたりの薄暗さに紛れて視界の指についた黒が、闇に紛れてあっという間に消えていく。

 

 振り返ると、先生は最初からそこにいたみたいに、僕を見下ろした。そうして、暗闇でなにもかもまぎれているはずの僕の手とその本――日記とをそっと交互に見る。

 

 さっきからずっと落ち着かず、いやな響きを立てていた心臓が、いっそう激しく高鳴る。

 

「何を見ていたの? 葉月」

 

 いつものように僕をやわらかく映す先生の双眸が、一瞬だけルビーのような紅にゆらめいた気がした。
 
 
 
 『雲隠六帖』は『源氏物語』の続編としてあまりにも有名で、そのくせ謎が多いから、けっこう研究者は血眼になって研究しているんだ。だから俺の兄も秋山も、まずこの表紙を見たときにはそれだと信じて疑わなかった。でも中身を開いて驚いた――これは物語じゃなくて、日記なんだ。

 

 宮田は、『源氏物語』が1,000年前に本当に起きた真実だっていったら、信じる?

 

 ――信じる……っていうのはよくわからないけど、秋山が僕を追いかけてきたときそういっていたよ。

 

 そっか。これは研究史上でも真っ二つに意見が割れているらしいんだけどね、でも僕と兄は真実だと思っている。そしてこの本は、どうやら実際にあった『源氏物語』の出来事を綴っているみたいなんだ。書かれているのは、六の君――“朧月夜の君”と呼ばれた女のひととの話なんだ。

 

(今日授業でやった《最愛の妻紫の上と、須磨地方へ行ってしまう光源氏の、涙のお別れシーン》ったって、この原因は朧月夜の君っていうお姫様との浮気っていうしなあ)

 

 ――その名前、知ってる。前に秋山が、光源氏が須磨に左遷されちゃう原因を作ったひとだって。そのひと、光源氏とは別の派閥のお姫様だって。

 

 そうそう、やっぱり秋山の授業は面白かったよね。こう、現代っぽいことばで解説してくれるから、わかりやすいの。左遷されちゃうとか、派閥とかね、そんな感じで。光源氏はいろんなひとと恋愛してるけど、これは本当にスキャンダルだったみたい。

 

 ――ふうん。じゃあこの本は、その“朧月夜の君”っていうお方が書いたの?

 

 それが……。

 

 ――違うの? てことは、光源氏?

 

 いや、なんていうのかな。光源氏でも朧月夜の君でもなく、正史『源氏物語』には登場しない人物の日記なんだ。

 

 ――どういうこと?

 

 光源氏でない“なにか”によって手がけられた日記。ああ、そう。これはね日記なんだ。そして全く別の朧月夜の君との話が綴られている。
 
 
 宮田、本文を読み通して俺も兄もやっとわかったんだ。

 

 表紙にあるこの消えかかった雨冠は、『雲』じゃなくて、『霞』。霞は――春。そして春のの月夜が、朧月夜。

 

 だからこれは『雲隠六帖』とは全く異なる、――おそらく朧月夜の君と深い関係にあった語り手によって『霞隠』、かすみがくれ、とつけられた日記なんだ。
 
 
 これは全く新しい『源氏物語』の真実だ。……ねえ、宮田、――この持ち主はなに?

 

 日記に書かれた“なにか”と朧月夜の君との逢瀬を知らされたあとに、松原は小さく僕にそういった。“だれ”ではなく、“なに”と。

 

 暗闇に溶けるように佇むその影と、脳裏に浮かんだ“なにか”の姿が、全く知らない姿なのにどこかなつかしく、ゆらゆらと重なっていく。
 
 
「あなたは、だれですか?」

 

 松原との会話を思い起こしたのはほんの一瞬だったというのに、目を眇めるとそこはもう夜の闇の中だった。先生以外の周囲の景色がどこかへ吸い込まれてしまったように、消えている。まるで草の根が足に絡まったように窮屈になり、動けなくなった。目の前で僕を見下ろすのは小さなころから一緒にいた“先生”だ。先生はなんの感情も読み込めないような穏やかな表情で僕を見下ろしていたけれど、ふいに瞳の最奥がちりちりと紅く染まったような気がした。まるで宝石のように。

 

 身じろぎをするように足を引くと、それはそっけなく古いテーブルにコツンと当たった。

 

 そうだ、先生とは小さな頃から一緒にいた。

 

 おかしなことはなにもない。

 

 でも、いつから僕は先生と一緒にいたのだろう。愛してくれない家族から逃れるように先生の腕に飛び込んでいた。

 

 そういえば先生の名前は、なんというのだろう。年齢はいくつだろう。

 

 ちょっと恥ずかしいけれど本屋で先生の官能小説を見つけることが出来れば、本名かどうかわからないけれど先生のことをひとつ知りうるかもしれない。

 

 あ、でも、その小説はどこで発表されているんだろう。

 

 そもそも僕は参考書を買いに本屋へ寄っても、どうして先生の本のことを思い出さないのだろう。

 

 僕にとって先生は僕をやさしくぬくもりのある胸の中へ包み込んでくれるひとで、すこしおとなになってからはつくりすぎた料理を運ぶ存在。

 

 家族はいなくて、官能小説家というへんな職業で――でもそのすべてはひどく曖昧だ。

 

「そうだよ、葉月」

 

 あ。

 僕は、いつも、どうやってこの家に来ているのだろう。どんな道をたどっているのだろう。

 

「気づいてしまったかな? 私のこと」

 

 くちびるの動きや問いかける口調はいつもと同じなのに、注がれる視線はどこか怜悧でつめたい。

 

 そうして、気づいた。蜘蛛に手繰られる小さな小鳥のように、僕は知りもせず“なにか”に捕らえられている。息を飲んでくちびるを開こうとして、気づく。さっきまでまばたきの残像みたいにチリチリとしか輝いていなかった先生の双眸が、血のような深い赤に染まっていた。

 

「……っ」

 

 視線が絡まったのは、ほんの一瞬。燃えるような熱さと刺すような冷たさがないまぜになった先生の双眸から視線を逸らす。

 

 ――先生とのたったひとつ約束、それは暗くなる前に帰ることだった。

 

 そうしてこの家が夕暮れに染まる間しか会えなかったのは、先生がひとではない“なにか”だから。

 

「はづき、私が、こわい?」

 

 ただ佇んでいた先生の手のひらが僕へ向かってゆっくりと伸びてきた。でもそれがいつものように頭に触れようとした瞬間、言いようのない恐怖と不安があっという間に全身を駆け抜けて、僕は――逃げた。さっきまで動けなかったのが嘘みたいな機敏さで先生の脇腹あたりを抜けて、書斎を飛び出し、他人のように冷たく見えたリビングを横切って、玄関口を背にする。走って、逃げた。

 

 何かを振り払うように、走って、走って、やがて疲れて息を切らした。ぎゅっと目を瞑ってたっぷり数分息を整える。そうして目を開いたら、そこはいつもの帰路になっている。
 
 

 先生は僕を追ってこなかった。そのことに安堵して、息を吐いていたら、じわじわと夢のような記憶がよみがえってくる。

 

 ――はづき、私が、こわい?

 

 所在なさげな子どもみたいにあどけないのに、幾重にも考えた末に差し出された深いことばのように、それはいつまでも耳の奥に残った。
 
 
 こわくて、かなしくて――心がゆくあてもなくさまよっているかのようにひどく散り散りになった。

 

「たぶんこの語り手は、朧月夜の君がすきだったんだと思う」

 

 はやる口調をおさえながらそういった松原の横で、僕は所在なさげに下を向いた。とんでもなく不気味で、それでいてひどくかなしい予感がしたからだった。

 

 茫洋とした記憶の片隅で、闇に溶けたひょろりと背の高いからだと、端正で浮世離れした顔立ちが浮かぶ。そしてその奥にある瞳だけが、紅くきらめいている。見ていたものはひとではない幻のような存在なのに、ずっと慕っていたそれで、こわいのとかなしいのでちぐはぐな感情が渦巻く。

 

 それでも、僕は先生がすきだった。

 

 でも先生は忘れられないだれかを追想しながら、永遠のようなときをあの屋敷で過ごして、癒えない傷を持ち続けているのかもしれない。

 

 まだ興奮が収まらずに震えているのに、心はどんどん色んな憶測を飛ばしはじめて、そのたびに傷ついた。先生には千年のときを過ごしても忘れられないひとがいたということに、胸が張り裂けそうになっていく。

 

 先生が何者なのかなんて、知らずに過ごしていたら少し前と同じようにおっとりと時が流れたはずだった。

 先生の慕っているひとなんて、知らなければ良かった。

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