うちなびく、

07

 光源氏が須磨へ退去することになった『須磨』巻には、これまで交流のあった姫君たちとの交流が語られる。そんな中でも今日の授業で習ったのは、贈答歌と呼ばれるふたりの貴人たちが掛け合いをする和歌についてのセオリーである。

 

「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな――『る』は助動詞の存続『る』の連用形、『知ら』は四段活用『知る』の未然形、『ける』は助動詞の過去『けり』の連体型、『かな』は詠嘆の終助詞で……特に助動詞はテスト出ますからね」

 

 古文で読むと何にもわからない、リズムの良い和歌が、なんともシステマチックに分解されていくのは、理系だったらちょっとおもしろいのかな。横目でくるりと周囲を見渡すけれど、有意義なうたたねの時間になっているようだった。隠す気もなく突っ伏している運動部のクラスメイトもちらほらといる。胃が空っぽになっているお昼休みのこの時間に眠くなってしまうなんて、退屈な授業だ。

 

(あ……チャイム鳴った)

 

 お昼休みを知らせるチャイムの余韻が完全に消える頃になれば、四角い眼鏡をかけた教師は教室から颯爽と姿を消している。急な国語の代理として現れたあのひとは、頭はまだ黒々と茂っているけれど、からだは水風船のようにぷよぷよしている。そのくせに歩調はいつもせかせかとせわしなく回転していて、常に授業を終わらせようと急いでいる。授業は時間ぴったりに始まり、また時間ぴったりに終わる。おそらく時計を回して授業を終わらせる権利を同時に与えられても、先に回すのは教師のほうかもしれない。

 

「お昼、持ってきた?」

「うん」
「俺たち今日購買だから、買ってくる!」

 

 いつも昼飯を共にする友人が出入り口の方に去っていくのを目で追っていたら、その奥からおもむろに見知った顔が現れた。肩までの灰色のベストから出る長袖を、無造作に七分丈までたくし上げ、そこからは運動部らしい細く引き締まった腕が伸びている。目線を上にやると、ちょうど目が合った。

 

「宮田! ちょっといい?」

 

 春の象徴である桃色の桜が散りまがい消えつつ、残った葉っぱが緑に生い茂る涼しげな季節にぴったりの、さわやかな声が堂々と教室にこだまする。こんなふうに周囲の話し声を気にすることなくことばを轟かせることが出来るのは、松原みたいなキラキラ系しかなせないわざである。僕なら出入り口付近の目立たない知り合いにアイコンタクトしただろう。

 

 って、僕?

 

 なんで松原は僕を呼ぶのだろう。不思議に思って胸中では首をかしげたけれど、クラスの女子の視線が僕と松原とを訝しげに行き来したのを見て、開けかけていた弁当もそこそこに立ち上がった。目立つのは勘弁である。

 

 松原は同じクラスだったときから変わらず口元をゆるく上げて笑んでいるけれど、その目元は去年よりもやや困ったように僕に注がれていた。それは100%の笑顔しか見たことのない僕にとって、ちょっとした違和感である。

 

(松原、久しぶりだな)

 

 クラスがはなれてから数ヶ月経つのだから。

 

 ――久しぶり、だったっけ?

 

「えーっと、僕だよね。どうかした?」
「ここじゃちょっと……来て」

 

 首をかしげて愛想笑いしてみた僕に、なぜか松原の困惑はいっそう深くなる。それでも僕に向かって穏やかに笑いかけると、内緒話を助長するようにそういって僕を教室の外へ出す。

 

(お弁当……それに購買にいったあいつら。……まあ、いっか)

 

 きっとふたりなら、先に食べているだろう。譲る様子もなく歩きはじめる松原の背中を追った。

 

 松原は僕を廊下の外に出すだけでなく、それからすこし人気のないところまで歩いた。僕はおとなしくその背中についていきながら、なにか気の利きそうな話題を考えた(クラスどう?とか、最近発売されたあの漫画読んだ?とか)が、ついに切り出すことは出来なかった。たまに窓の外で繰り広げられる体育の授業で松原は必ず輪の中心にいたし、よく考えたら僕は松原がどんな漫画を読むのか知らない。

 

 昼休みの喧騒が遠くなってきた渡り廊下で、ようやく松原は足を止めて振り返った。

 

「久しぶり」
「うん? そうだね、クラス離れちゃったし、久しぶりだね」

 

 短い挨拶にそう答えると、松原が視線を外して黙り込んだ。僕を見て、僕がなんの意図もなくただ純粋に挨拶をしていることを知って、またへんな顔をする。いつも屈託ない笑顔を浮かべている松原は、なぜか神妙な面持ちで僕を見下ろしながら何かを考えていた。

 

「えっと……」

 

 もしかして、僕は何かをしただろうか。

 

「宮田、俺のこと覚えてる?」
「へ? いやだなあ、覚えてるよ」
「貸してもらった、本のことなんだけど。つい二週間前くらいに」

 

 歯切れの悪いそのせりふに、ぽっかりとした疑問が浮かぶ。

 

 ――貸してもらった?

 

 僕は何かを松原に貸しただろうか。

 

 ――本のことなんだけど。つい二週間前くらいに。

 

 本?

 あ、そうだ、本。

 

 そういえばさっきまで何ひとつ気にならなかったが、松原が持っているその袋は中身のボロボロな本ごと僕が渡したものだった。しかも、松原と久しぶりの挨拶を交わしたのも、本に対して何かをお願いして渡したのもつい最近だった。

 

 頭の中でそれとすらわからずぼんやりと霧散していたもやが空気に溶けてなくなるように、消えかかっていた線と線が結ばれていくように、ずるずると松原とのことを思い出していく。まるで引っこ抜いた根っこがいろんなものを一緒に手繰り寄せてしまうみたいに。

 

 えっと、何をお願いしていたかっていうと――そうだ、解読。先生の家で見つけた本が古典語で理解できなかったから、それを古典に詳しい松原にお願いしたんだった。

 

「思い出した?」
「あ……うん。ご、ごめん、今の今まですっかり忘れてて」
「そうかなって思った」

 

 松原がどこか安堵したような表情になった。さっきまで感じていた松原に対するよそよそしさが一気になくなり、じんわりと親しみが戻ってくる。そうだ、二年に上がってから松原に本を貸したことで、意外と話しやすくて本当にいいやつっていうのがわかったんだ。

 

 なんだか、動悸が激しいみたいだ。胸がドクドクとさざ波を打っているのは、急にど忘れしていたことを思い出したからだろうか。それにしても、どうして松原のこと、こんなにすっぽり頭から抜け落ちていたのだろう。

 

 まるで、記憶の一部分だけページをちぎられていたみたい。だけどページにセロハンテープを貼って元に戻せば、それは本の中の一部分としてするっと僕の記憶へ溶け込んでいく。

 

(ど忘れ?)

 

 霞んで消えかかってしまっていた記憶が蘇るまで、まるでそれは最初からなかったかのように自然だった。――なんだか頭の奥でまだ、何かが霞んでいる気がする。

 

「ごめん……」
「あのときはあんなに知りたそうだったのに、ちょっと経ったら宮田から訪ねて来たりとか、廊下ですれ違っても目を合わせたりとかしなくなったから。なんか、あのときのことが消えちゃったような気がして。……でも、話しかけて良かった」
「ありがとう。松原にいわれなかったら、もしかしたらまだ忘れてたかも」

 

 違和感を抑えて、へらっと笑う。松原も笑った。

 

「ところで、あの本のことなんだけど、宮田がしばらく僕のことをど忘れしてたおかげで、あらかた読めたよ」

 

 今度はいたずらっぽく。

 

「ただしくは――僕の家族がなんだけどね。本当に貴重な文献だったみたいだ、なかなか本を手放そうとしなくてさ、困ったよ。困るよね、研究者は」

「古典一家って、いってたもんね」
「そうそう。すっごい喋るんだ、この本について。他の文献と比べてどうとか、どの時代に書かれたものなんだとか、筆のくせはなんとかだからとか。僕の家族があんなにギラギラした目で見ていたんだから、きっと秋山はもっと血眼になって読みふけっていただろうね。なんか、急な異動で他の学校になったっていってたけど、この本を渡してたら不登校ならぬ不通勤だったかもなあ」

「そんなにすごかったんだ……貴重な文献かどうかはよく知らないけど、僕の知り合いが秘密の日記みたいに隠し持っていたものだから、読んでくれて助かる」

 

 だって、先生はあの本を大切に書斎の奥へ寝かせていた。先生にとって大切なものは、なんだか知りたくなってしまって、あの日は出来心で本を持ち出してしまったんだ。先生はいつだってどんな本でも持っていってくれて良いといってくれたけれど、実際に持ち出したのははじめてだったから、今もちょっとだけ罪悪感が残る。

 

 そんなふうに持ち出した本もろとも、僕はなぜか松原のことをすっぽりと頭から置き去りにしていたのだとしたら、ちょっと……いやけっこうへんだ(確かに僕は忘れっぽいけれど)。

 

「あ、そう。日記、日記ね。……それでね、宮田。この文献のことなんだけど、前にこの文献のことを僕は前に物語といったよね」
「うん、そうだね」
「秋山にもそういわれていたんだろう? 僕の家族も最初はそういっていた。つまり、研究者たちからしたらこの本は表紙のボロ字を見ると『雲隠六帖』だと思うはずなんだ。だけど内容は、そうじゃない」

 

 ああ、そうだ。たしかに僕はこの自分では全く読めなかった本を、相談するひともいないまま藁にも縋る想いで松原に見せたとき、おそらく『雲隠六帖』だといわれたのだ。忍者みたいな名前だったから、名前の響きには記憶がある。

 

「あ、えーっと。松原、ちょっといい?」
「うん、いいよ。ごめん、話、急ぎすぎた?」
「大丈夫。ただ、秋山先生ってなにか関係あったっけ? この間異動になってた先生だよな。秋山先生も松原に『雲隠六帖』のこと話していたの?」

 

 藁にも縋る想いで?

 

 そうだっただろうか――そもそも僕と松原は、なぜ今こんなに近くになって話すような間柄になっていたのだろう。クラスのカーストも違う、おまけにクラスメイトだったのは去年までで、顔を合わせて話すのは席が近くになったときの掃除の際くらいだったはずだ。

 

 松原が僕を見た。そこで僕は悟る。僕はまだ、何かを“ど忘れ”している。

 

 しばらく沈黙が続いた。その間に僕は、まるで正常に機能し続けているように見せかけた脳の中を、ぐるぐると探る。しかしその霞をひとりで見つけることは出来なかった、難しい顔をした松原がゆっくりと口を開くのを待って、語りかけられる二週間前の話を聞いた。

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