うちなびく、

06

 放課後、最寄りの駅を降りて家まで向かう帰り道にいつも通り歩いている途中、妙な違和感が背中を覆った。それの正体に気づいたのは駅と家との距離を割った半分くらいであり、五分十分歩いてからだった。同じリズムで拍子を取るように聞こえるそれを思い返すと、駅を出てからずっと僕の後ろに、常に同じ音の大きさで聞こえてきた気がした。ただしそれは、地面を濡らす雨のもやもやとした音と一緒に。

 

 登下校の時間帯を狙ったように突然降り始めた花しぐれに、雨は久しぶりだと浮足立っていて、濡れる住宅街の景色を眺めながらぼうっと歩いていたから、全然気づかなかった。

 

 傘をやや後ろに倒して、そっと振り向こうとしたけれど、やめる。

 

 代わりにすこし歩みを早めた。

 

 ――しばらくしても、その足音がまったく小さくならなくなって、確信する。

 

(だれかに、つけられてる……)

 

 とりあえず家に帰るのは危険だった。あの家が騒がれようと被害に遭おうと、どうということはなかったけれど、面倒事はなるべく避けたい。

 

 あたりをひんやりとした花しぐれが覆っているからだろうか、背筋が涼しく感じた。

 とりあえず家へと曲がる道を真っ直ぐに通り抜けた。

 

(どうしよう……えっと、このまま警察に行けば良いのかな……いや、警察ってそもそもどこにあったっけ)

 

 たとえば電車で痴漢されたという噂を聞くと、普通に逃げればいいじゃんと思っていたけれど、こうなってはじめてわかる。あのひとたちは今の僕よりもずっと、その日その時まで予想もしていなかったおっかない思いをするのだ。そんなこわい体験なら、僕のようにぞっとしてからだが硬くなってしまうから、動けないのかもしれない。

 

 傘で顔を隠すようにして、早歩きする。焦っているからか、濡れた地面を靴が叩く音は、いつもよりも大きく思えた。それでも自分と変わらない距離――というよりも、その距離さえも詰めるようなスピード。

 

(もうちょっと……)

 

 坂を下れば、先生の家がある。全力で走ってもスタミナが切れない距離まで先生の家が近づいていたからだった。

 

(ああ、どうしてついてくるのだろう)

 

 焦ったように音を鳴らして、隠しきれない激しい足音が追ってくる。

 

「……ってくれ……」

 

 その声を正確に聞き取れなかったのは、それまで弱々しかった雨がすこし強くなったのと、目の前を横切った車が通り過ぎたから。ザアッという車の音とその声に驚いた刹那、一瞬足が止まって、あ、と思ったときには左腕をなにかが掴んだ。

 

「……っ」
「すまない。……驚かして、しまいましたね……。そんな気は、……全然なくて」

 

 息も絶え絶えで、その声はいつも授業で聞くときのそれよりもずっと弱々しくなっていた。ああ、なんだと思えなかったのは、ゾワゾワするようないやな予感がまだ続いていたからだった。

 

 深呼吸をして振り返ると、その人――秋山は腰を曲げて息を落ち着かせているところだった。

 

 ひょっとしたら、僕はなにか重要なプリントを机の中に入れっぱなしで、そのために善良な秋山は僕を追ってきたのだろうか。そんな楽天的な想いにはとてもなれなかった。

 

「ど、うしたんですか……?」

 

 僕はもうすっかり立ち止まっているというのに、秋山はいつまでも腕を離さない。びりびりと痺れそうになるほど痛いくらいに、そこには力が籠もっている。

 

 秋山が腰を伸ばすようにして、地面から顔を上げた。

 

 秋山は、あの目をしている。いつもはどちらかというと中年らしく老成しているというのに、ひとたび授業中にヒートアップすれば、まるで古典文学の世界へひとりだけ入り込んでしまったかのように熱を持ち始めるあの目。距離が近いせいで、黒々とした双眸にははっきりと映っているのは僕の姿だというのに、まるで僕を見ていない。それになぜだか、暗くゆらめく影のように、今日の秋山はどこか淀んでいる。

 

「お願いをしたい、ことが、あって……」
「学校じゃ、だめなのでしょうか」
「……あの本を」

 

 うわごとのように、秋山がつぶやいた。あの本を、そのことばに悪いものが宿っていたみたいに、秋山に取り憑いている。そんな気がして、思わず後ずさる。後ずさった分だけ、秋山は僕との距離をジリジリと縮めた。

 

「お願いです。あの本を……もう一度、見せていただきたいんです……それで、僕はもういてもたってもいられなくて……」
「あの……でも」
「お願いだ。……『雲隠六帖』にはあまりにも謎が多い、散逸した文章だってある。早く研究論文を出さなければいけない、それに……それに……」

 

 穏やかで丁寧な秋山の口調は、僕の知らないことばを重ねれば重ねるほどに、まるで嵐の到来のごとくうねりを帯びて激しくなっていく。聞き取れないほど早口なその声に、からだが震えた。

 

 ――秋山は、何を追いかけているのか。

 

(あれは、ただの本じゃないの……)

 

 研究とはそんなに大切なものなのだろうか。
 恐怖で鈍くなった頭で、他人事のように考える。

 

「こ、これは……知人の家の本です。大層なものではなくて……」
「そんなことはない!」

 

 お願いだ、頼む。と、怒鳴るような声とともに両肩を掴まれる。そうしてはじめて、秋山が傘すら差さずに僕を追いかけていたことを知った。

 

 濡れた髪の毛が、秋山をいっそうこの世のものではないものにしているようだった。

 

 まるでおかしくなってしまった鬼みたいだ。

 

 こんなひょろひょろとした秋山のからだの、どこにこんな力があるのだろう。そのくらい強く両肩を掴まれているせいで、おかしくなった秋山から目が離せない。――目の下にはうっすらと隈がかかっていた。そのせいで、近くで見た秋山は病気で痩せているようにも見える。

 

「お願いだ。頼む。……『源氏物語』はただの物語じゃない。千年前に起こった真実なんだ。そして、『雲隠六帖』もまた真実かもしれないんだ……」

 

 ――千年前に起こった真実なんだ。

 

 そのことばに、違和感が広がる。けれど、すこしの違和感はすぐに、目の前の恐怖にかき消された。

 

「あの……すみません。解読は、その……友達にお願いを、していて。……今は、持っていないです」

 

 秋山が掴んだ手の上から、左肩が雨に濡らされてすこしずつ肌に吸いついていく。差していた傘は折れるように傾いていて、隙間からわずかに強くなったつめたい春の雨が降からだにふれた。

 

 秋山はほうけたように、友達に、お願い、とくちびるを動かして僕のことばを反芻する。何度も繰り返すようにしたあと、

 

「だれが研究しているんだ……国学者か……」と、ボソボソとしたひとりごとが漏れ出る。おどろおどろしい剣幕がやんで、秋山は静かになにかを考えていた。

 

「ああ、そうか……もう学者の手に……。解読をしているのか……。急がなければ、……学会の研究論文で発表されてしまったら、……もう取り返しが……」

 

 そこまでいって、先生は急に力が抜けたようにずるずるとしゃがみ込んだ。からだへの重みが解かれて、解いた手はそのまま、自分を守るように秋山を抱きしめていた。小さくなった秋山の後頭部を見下ろしながら、僕はゆっくりと後手に後ずさった。

 

「ああ……だれなんだ……だれに渡した……あれは僕が研究するはずだった。物語の真実を……僕が……」

 

 秋山はもう秋山ではないかもしれない。そう思えるほど、狂っていた。

 

 さようなら、とか、それじゃあ、とか、そんなことばを残したかもしれない。残さなかったかもしれない。とにかく僕は、先生の家まで持てる力をすべて使って走った。傘すら持っていない頼りない秋山の姿を、薄情な僕は一度として振り返ることをしなかった。

 

 息が苦しくてたまらなかったけれど、もう一度秋山に腕を掴まれたら、きっと僕は叫んでしまう。悪夢から逃れるように、息を切らして先生の玄関をくぐる。

 

 差しているのだかいないのか、わからないような傘を投げ捨てるように玄関前に置いて、引き戸を開けて、入って、何も追ってきているのはわかるのに、勢いよく後手で閉めた。

 

「……っ」

 

 息継ぎをするたびに胸がずきずきと痛んだ。呼吸を整えようと、胸を抑えて前かがみになる。目を瞑って、張り詰めたような痛みに耐えた。

 

 玄関へたどり着いたからか、雨の音は耳のずっと奥にいってしまったみたいだった。

 

(こわ、かった……)

 

 あのときの秋山は異常だった。なぜ、登下校時刻を過ぎて僕を追ってきたのだろう。職員室にはなんと言って僕をつけたのだろう。……僕のことを、いつから見張っていたのだろう。

 

 取り憑かれたような先生の空気が、まだからだを支配しているみたいで、もう大丈夫なのにガタガタと震えるのが止まらない。

 

(あの本は、なんで秋山をあんなふうにしてしまったんだろう。『雲隠六帖』の本が、そんなに珍しいかな。どうしてあんなに執着するんだろう)

 

 思い返せば松原もまた、『雲隠六帖』に対する計り知れない興味を抱いていることとは、平然を装いつつもいつもよりも口調が早い彼のことを見ればわかった。しかし、秋山のそれはあきらかに異常だった。――生徒の跡をつけるなんて、バレてしまったら懲戒免職になるだろう。

 

 そんな危険を犯してまでも、あの本に書かれていたことは重要なのだろうか。

 

 あの本は、なんだ。本当に、ただの『雲隠六帖』にどうしてそんな価値があるのだろう。

 

(そういえば、秋山がへんなこと、いってた……)

 

 むき出しにした暴力的な感情とともにぶつけられた声を、記憶から手繰り寄せる。

 

「はづき」

 

 はっとして、顔を上げた。

 

 先生は、置物のような静謐さとともに、目の前にあった。いた、というよりも元々そこにあったかのように、先生はそこにいた。

 

「あ、……先生。いつ、来たの」

「大きな音がしたからね。葉月の様子がおかしいと思って」

 

 先生の穏やかな声が、あの淀んだ空気を払うようにしてすうっと耳に届く。どくどくと脈打っていた心臓が、すこしずつ落ち着きを取り戻していく。

 

「えっと……なんでも、なかったんだけど、雨だったから」
「うそ」

 

 先生が両手で僕の頬を挟み込んだ。あたたかいそれが頬にふれたと思ったら、やさしく強引に上を向かされる。そうして、漆黒の双眸と視線が絡まり合う。

 

 気が動転していたから全く気づかなかった――なんだか、すごい距離に先生がいた。心配そうに頬を撫でていた手が、いつの間にかびしょ濡れになっていた髪の毛をさわる。ペタッとしたそれを確かめるみたいに。

 

「こんなに、濡らして」
「……っ」

 

 瞳の漆黒が、いっそう深くなる。吸い込まれるみたいなそれから、恥ずかしいのに目が離せないのは、目を離してどこを見ても先生との距離の近さに、さっきとは百八十度別の意味で心臓が騒ぎ出すってわかっているから。

 

 ああ、きれいな顔だ。こちらが尻込みするくらい。

 

「あ、えっと……大したことじゃ……」
「はづき、いって」

 

 はづき――という僕の名前が、いつも先生が軽やかに呼ぶ声とはまったく別の音のように、重く僕の頭の中に侵入してくる。

 

「あ、あとを……つけられて。全然大したことはないんだけど、ちょっと、こわかったから走って……」
「そう」
「ごめん、なさい。先生の家、特定されちゃったら……困ると思ったんだけど、どうしても怖くて……」

 

 先生はうなずきながら、僕のからだのあちこちを、なだめるようにさわってくれた。恥ずかしいはずなのに、落ち着いてきて、落ち着くはずなのに不埒な想いがふと湧いて恥ずかしくなる。

 

「せ、先生……濡れる、よ」
「大丈夫。僕の着替えはあるからね、それよりも、そんな体験をしてこわかっただろう。それに、春の雨は夜みたいに冷たい。寒くないかい?」
「さむく……ないよ」
「かわいそうに、今日ははづきにとって、ひどい日だね」

 

 先生に子どものように抱きしめられて、ぬくもりがからだに広がる。先生は濡れた僕をいやな表情ひとつせずに胸の中へ閉じ込めて、それから耳元でささやいた。

 

「こわかったね、もう大丈夫だよ」
「……うん」

 

 大きなからだにすっぽりと覆われて、――先生は親愛の気持ちで、僕を心配してこうしてくれているのに、先生にふれていることが嬉しくてたまらない僕は、後ろめたさを感じながらぎゅうっと先生の服の袖を握りしめていた。

 

「忘れてしまいたいほど、ひどい日だ」

 

 どれくらいそうしていたかはわからない。

 

 やさしい声に包み込まれて、好きなひとに抱きしめてもらうという緊張に、安心感が波紋のようにふわりふわりと広がっていく。こうして先生に抱きしめられるのは久しぶりだった。

 

 ぼんやりとした頭で考える。昔から、なにかあったら僕をこうしてやさしく包み込んで、慰めてくれていたのだ。

 

 ――はづき、どうしたの?
 ――兄ちゃんに、殴られた。うざいって、クラスの子にきょうだいってバレたくないって。

 

 グズグズと泣きながら、当時の僕は自分から先生のおなかに顔を埋めて、腕をぐるりと回していた。

 

 ――よしよし。かなしかったね、はづき。

 

 先生は今よりもずっと小さな僕をなだめるように胸の中に閉じ込めて、安心させてくれる。

 

 ――そんなことをいうのは、はづきのお兄さん?
 ――……うん。いつもは、そんなこといわないのに……っ。
 ――よく頑張って、我慢したね。

 

 先生に閉じ込められると、耳の奥深くまで先生の声だけが響いて僕を支配していく。

 

 先生は僕に何度も兄さんのことを聞いてくれた。だから、僕は兄さんがいつも僕のやることを不満に思っていて、隠れて僕にひどいことをいったり、舌打ちをしたりする。さすがに抓る蹴るといった子どもじみたいじわるは減っていたけれど、僕を見る目はいつも淀んでいた。

 

 灰色に淀んでいて――。

 あれは、僕にとって、何番目の兄のことだっただろうか。今となってはもう霞がかかったように、遠い記憶になっている。

 

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