うちなびく、

05

 僕は多くの兄弟のなかで一番末っ子だった。お母さんは頑張って僕を産んでくれたけれど、小さな頃からからだは丈夫じゃなかったし、それでも比較的順調にひょろひょろと伸びていた身長は中学生になると伸びしろが鈍くなっていった。早すぎる成長期の終わりだった、あと普通は逆だというのに。

 

 器量が良いわけでも、運動神経が特別よかったわけでもない。兄や姉たちが比較的優秀だったからか、あまり頭を撫でてもらった記憶がなかった。

 

 それ自体は別に、どうでも良いことだった。

 

 けれど、僕の特別という感情が他ならぬ先生に向いていることに気づいた中学生の頃ほど、自分はだめなんだと感じたことはなかったかもしれない。

 

 ――えー。宮田、こんなのも知らないの?
 ――あのな、クラスのあいつ、女子と……。

 

 中学の教室で、隣のグループの騒音のように漏れる声を、思春期の僕たちのグループはなんでもない顔を装いながら必死に拾い集めた(実際はみな猿のように真っ赤だったかもしれない)。

 

 生々しいその行為について考えをめぐらしたら、どうしたってその矛先が先生に行き着くことを知って、――自分は普通じゃないのだと知ることになる。それがおかしいことは知っていた。

 

 そこには、したい、じゃなくて、してほしい、がバラバラと混じっている。

 

 通っていたなつかしさの薫る家の玄関を通ることが後ろめたくなって、すこしだけ先生を避ける日が続いた。

 

 僕と先生はあの家の外では会えない。先生はその頃から小説家だったから。

 

 僕と先生の関係が、あの家に僕が足しげく通わなくなったことであっさりとなかったことになってしまうことを知ったとき、悲しみよりも勝ったのはどうしようもない焦りだった。

 

 もう、先生に会えない。

 

 当たり前のものが砂のように手のひらからこぼれ落ちていく。そうして、なくなってしまうのはほんの刹那と知った。

 

『葉月……久しぶりだね、待っていたよ』
『最近授業が忙しくて……あと、お土産持ってきた。先生、ものを食べなそうだから』
『わあ、いいね。おなかがへっていたんだ、良いにおいがすると思ったよ』

 

 料理をすきになるよりも、先生に会いたい一心で包丁を握るのが先だった。

 

 僕にとって、先生を訪ねる理由はなんでも良かったけれど、なにかの理由は必要だった。先生は緊張しながら玄関をくぐった僕を、いつものようにやわらかく見下ろした。

 

 そうして、僕の頭をゆっくりと撫でた。いつものように。

 

 今でもたまに、絶対にかなわない妄想がどうしても頭をよぎることがある。先生にごめんなさいと謝ることもあるけれど、それ以上にそばにいたいのは、先生のそばが落ち着くからだ。

 

 きらわれたくない、でも、ずっと一緒にいたい。

 

『一緒に食べよう。久しぶりに、葉月のお話を聞かせてほしい』

『ん』
『料理は練習したの?』
『そう、最近。……えっと! 違くて、家庭科の授業があって、チャーハンがテストになるから、仕方なく練習したんだ。持ってきたのは、おまけだよ』
『そうかあ。私の家の台所が埃っぽくて使えなかったのは悔やまれるね』
『うん? どうして?』
『もし私の家の台所がピカピカで、はやりのIHコンロで、たくさんの調理器具があったら、葉月はここで練習出来た。そうしたら、私はひとりじゃなくて葉月とそばにいられたから』

 

 先生はやさしい。僕の一番欲しいことばを、幾多のことばのなかから導いて与えてくれるから。

 

 もっと小さな頃だったら、なにも考えずに先生の胸に飛び込めたのに、なにも知らないふりが出来るほど器用じゃなかったから、その場でただうつむいた。

 

 

 

     *

 

 

 

 この日は珍しく、書斎の向こうにいる先生は眠っていた。それも、パソコンの上に突っ伏すようにして。そっと近づいて、机の上へ溶けるようにずるずるしている先生を見下ろす。規則的な寝息にあわせてゆるく上下する肩を確認して、そっと先生の顔を覗き込んだ。

 

 クマだ。

 

(締め切り終わったんだ……)

 

 この間新刊を出したのに、もう締め切りに追われている。ということは、先生は売れっ子なのだろうか。周りに作家がいないためなんとも比較しづらいのだが、おそらくそういうことなのだろうと考えるようにしている。

 

 なんだ、今日は先生の大好きなカニチャーハン(“カニ”は“カニカマ”のことで、決して“ズワイガニ”ではない)を作ってきたというのに。すこし残念だったけれど、僕は諦めてからっぽの冷蔵庫にそれを入れた。

 

 先生が眠っている日は特にすることがない。僕はいたずらに携帯をいじっていたけれど、それもすぐに飽きてしまったので、先生の書斎を物色していた。なんとなく、起きた先生のほうけたような顔を見てから帰りたいのである。

 

(『源氏物語』の研究書、いっぱいあるな)

 

 どれをそっと開いてみても、あのニョロ字ばかり。本棚は書斎の壁を覆うようにそびえているけれど、その壁の上一列は、『源氏物語』なのである。改めて、長い物語だと思う。

 

 あの『雲隠六帖』を拾ったときのことを思い出した。『源氏物語』と比べてひとまわり小さいそれは、ある一章の合間から偶然見つけたものだった。それがこの何冊かあるうちのどのあたりの物語の間だったかは忘れてしまったけれど、開いたページから栞のようにずり落ちてきたそれを見たとき、なんとなく興味が湧いた。

 

 パソコンを打っている先生が気づかないそれをよそに、僕はそれを確かめるように指でなぞった。そうすると、わずかにかぶっていた埃の薄灰色が僕のくっついた。

 

(先生の秘密に触れたみたいだ)

 

 先生にとってそれは特別だという、確信めいたものがあった。覗き見して、読んでみたくなった。普段なら先生のエロ本ひとつ持ち出さなかったけれど、いつもすこしミステリアスな先生の中身を垣間見られるように感じて、そっとかばんに入れたのだ。

 

 あの日と同じように、強い西日が指していた。無造作に閉められたからか、カーテンの隙間からは眩しすぎるオレンジ色の光が一直線に入ってきていて、それは先生とその奥にいる僕の本を照らしていた。ふわふわ、と、舞っている埃が見えた。

 

 先生とは、たったひとつ約束がある、それは暗くなる前に帰ること。親御さんが心配するから、そして僕がまだ子どもだからと笑った。居座ろうとしても僕をなだめすかして、気づいたら玄関を出ているのだ。

 

 だから、先生がこんなふうに眠っている日でさえ、僕は律儀に約束を守るために、西日の翳りにとても敏感なのだ。そっと立ち上がった物音に、先生の背中がもぞもぞ動いた。そうして、うーだとかあーだとかそいううめき声みたいなものが聞こえる。

 

「……はづき?」
「起きた。もう、帰るよ」
「だいぶ……寝てしまった……」
「もう夜になるから、これからまた寝るんだよ」
「そうかあ。でも、夜はあんまり寝られないんだ……」

 

 寝起きの先生のことばは、春に立つ霞のようにぼやぼやとしている。もしかしてまだ、夢路との境目にいるのだろうと思うくらい。とろとろとしたそれに特に何を考えるわけでもなく答えていると、先生がひじゃけた髪の毛をぐいぐい整えながら起き上がった。

 

 先生は椅子を立ったかと思うと子どものような仕草で座り込んた。くしゃくしゃのおじさんみたいな服とその動作のバランスがおかしくて笑っていると、先生が本を手にとっていたままの僕の顔をじっと見つめる。

 

「先生……?」

 

 普段は書斎で窓の方を向いているし、《おやつ》を食べているときにはテーブル一つぶんの距離があるから、先生のしどけない姿格好や喋り方のせいで、忘れてしまっていることが多いけれど。

 

 先生の顔立ちは美しいと思う。きれいとかかっこいいというよりも、とにかく一つひとつのパーツが磨かれていて、それでいてその全てがバランスよく配置されているのだ。長いまつげや形の良い眉、リップすら持っていなそうなのに艶のある唇、数を上げたらキリがない。

 

 だから、こうして見つめられると長く視線を絡めておくことが出来なくて、なんとなく下を向いてしまうのだ。

 

「先生、……えっと、なにか顔についてる?」

 

 先生はそれにまた「んー」とだけ答えて、すこし口端を上げると、僕の左頬をやさしくさわった。やさしくさわられているはずなのに、冷たいその手がふれるとぴりぴりする。そうしてはじめて、僕は緊張しているのだと知るのだ。それがわかった刹那、今度はそこがあっという間に熱を持つことも、自覚済みである。なかなか辞めることがかなわないけれど。だからせめて距離を取ろうとするけれど、それも男心にもったいない気がする。

 

「左頬……痛い?」
「あ、えっと……ううん。痛くないよ。昨日の夜だし、そんなにひどくない。……先生、よく気づいたね。腫れてた?」
「ほんの、すこしだけね。でも顔を見たらわかるよ」

 

 いたわるように指先でそこを撫でられると、心配してくれてうれしいのとやや気恥ずかしいのがごちゃまぜになる。

 

「……むしゃくしゃしてたみたい。邪魔だって押されたんだ」

 

 だれか、とか、どこでとか、先生には聞かなくてもわかるのだろう。

 

 いわなくても良いと思う。それに同情してほしいわけじゃない。でも僕は小さい頃のくせで、こうして先生に甘やかされると、なんとなく愚痴っぽいことがつい口をついて出てきてしまう。

 

「へんな転び方して、ぶつけた。ちょっとびっくりしたみたいで、くせみたいに謝ったけど、自分が悪いと思っていなかったみたい。邪魔だっていったのは、兄ちゃんのほうだったのに。毎日大学から帰ってこなければいいのに」

 

 あるいは僕が帰るところが、全く別の場所だったらよかったのに。

 

 辞めようと思うけれど、一度こぼれた水がとどまることを知らないように、紡ぐことばはなかなか堰き止めることが出来ない。

 

 まして、先生は僕の心を解くのが得意であり、僕は先生に自分の心をさらけ出すことになれていた。先生はぐちぐちと喋り続ける僕を甘やかすように頬をいたわり、頭を優しく撫でた。

 

「辛かったね」

 

 そうしてその一言で、擦れていた僕の心は浄化されるように穏やかになる。先生がさわっているという意味ではとても焦っているのに、なぜか心の奥深くは落ち着いていく。

 

「うん……でも、大丈夫」

 

 最後にはいつもと同じくそういう。先生は「頑張りすぎないんだよ」と微笑して、帰り支度をするよう僕をそそのかした。気づけば夕暮れはとっくに山の麓へ去っていき、夜の闇はすぐそこまで差し掛かっていた。

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