うちなびく、

04

 松原が口を開いたのは、資料室からずいぶん離れ、とっくに昼明けの授業が行われている教室が目と鼻の先――というところまできた頃だった。

 

「大丈夫?」

 

 袖の薄いベージュのセーターは、去年の紺色から変えたらしい。それは、常にだれにでも分け隔てなく接する松原のやわらかい態度や、ふわっとした美形な容姿とよくマッチしているようだった。

 

「……おーい、宮田?」
「あ! うん。大丈夫、ありがとう。たまたま通りかかった……わけじゃないよね」
「通りかかったのは本当にたまたまだったんだ。なかから宮田の焦ったみたいな声が聞こえて。そもそも声のするようなところでもなかったからね」

 

 ついでといわんばかりに久しぶりだね、というと、松原は目をしばたかせた。それから同じことばを返してくれた。

 

「宮田から久しぶりっていわれると思ってなかった」
「どうして? 1年のとき、同じクラスだっただろう。2年になってクラス離れてたから、話すの久しぶりだなって」

 

 最も、グループも学内カーストも交わることのない僕たちが、1年生のときに“クラスメイト”と胸を張れるほど日頃から仲良く喋っていたわけではないけれど。

 

「そうかあ。なんとなく、宮田は俺みたいなうるさいのはすきじゃないのかなって思ってたから、意外」

 

 うるさいの――というのは松原の粋な謙虚が垣間見られる。実際はいつでも友人に囲まれた、ひなたのような存在だというのに。

 

「そんなことないよ、機会がなかっただけ」
「それを知っていたら、1年のときにはもっと話しかけにいっていたんだけどね。ところで、それはどこで見つけたの?」
「あ、えっと知り合いの家から借りて」
「ふうん。ちょっと見せて。……ああ、持ったまま見せてくれるだけで良いから」

 

 松原はさりげない気遣いが上手だ。僕はその気遣いに甘えて、両手で持ったまま表紙を見せた。松原は秋山がそうしたのと同じように、しかしいくらか涼しげな視線でそれをしげしげと見下ろす。

 

「……ふうん」

 

 松原は秋山がほんの十分ほど前にそうしたみたいに消えかかっている4文字へと触れる。なぞるようにして確かめるのを見てふいに、松原はなんとなく文字に触っているのではなく、読んでいるのだと気づいた。

 

「そういえば松原のお父さんって、古典やっているんだって聞いたことある」
「そう、正しくは兄だけどね。院生なんだ。ちなみに、宮田はこれをアッキーに解読してもらうの?」

 

 さっきは先生なんて礼儀正しく呼んでいたのに、秀才な松原もそんなあだ名で呼ぶんだなあ。そんなことを考えながら、先ほどの秋山を想起する。

 

「……そ、の、つもりだったんだけど。なんだか……」

 

 資料の表紙を見て、秋山はこの本の正体を見破ったのだろう。あっという間にいつもの柔和な雰囲気が竜巻のように去り、代わりに秋山の周りを纏いはじめたのは不可解なほどの不穏な空気だった。

 

 意味がわからないけれど、本を握りしめていたあの両手といい、本が先生をあんなふうにしたのなら、なんとなく次に伺うのは腰が重いというのが正直なところだった。

 

「その所有者が宮田なら、宮田のすきにすれば良いと思う。だけど、むやみやたらに国学者に見せないほうが良いっていうのが正直なところかな。宮田はその本の表紙を読んだ?」

「えっと……、四文字の漢字だよね。1文字目は下が潰れているけれどあめかんむり、2文字目は隠れるの『隠』、3文字目は全く消えてしまっているから読めなくて、それで、4文字目は源氏物語といえばということで『帖』だと思う……どうかわからないけど」

 

「正解。ちなみにこれは『源氏物語』に関わる書物ということで、間違いないんだよね」

 

 頷いた。

 

「じゃあ、十中八九『雲隠六帖』という書物で間違いないね」

 

 あめかんむりはなぜ『雲』で、なぜ潰れた3文字目『六』なのかといえば、『源氏物語』にゆかりがある書物はそれくらいしか見当たらないからという。

 

「詳しくは兄が詳しいから、今度もうすこし教えて上げられると思う。『雲隠六帖』は『源氏物語』の続編で、紫式部ではないだれかが書いたものといわれているんだけど、成立時期やその経緯はまだ良くわかっていないんだ。あと、本文は散逸していて謎が多くてね」

「……さんいつ?」
「バラバラに散らばっていて、かけらしかないってこと。たとえば小説で例えると、10ページから15ページはあるのに、16ページがないとかね。実際はもっとバラバラ散逸しているから組み立てるのが難しいんだ」
「ふうん」
「あはは、俺それなりにこの本すごいんだぜっていっているんだけど、わからないかな?」

 

 全くわからない。この本、すごいのか?
 続きを促すように松原を見上げたら、「宮田は人に話をさせるのが得意だね。ノッちゃうから、つまらなかったらすぐにいってね」と笑った。全然つまらなくなんかない、松原はただ学校の勉強が出来て明るいだけでなく、僕が知らないことをぽんぽんと教えてくれる。なんとなく、1年のときに感じていたよりも松原を近くに感じた(クラスが一緒だったのは去年であり、もうほとんど関わらないというのに)。

 

「つまり、貴重なんだ。散逸している部分はどう解読したって予測でしかないわけなんだけど、新しく『雲隠六帖』が発見されることで散逸部分の真実が見つかるかもしれないだろう? 研究する側にとっては自分が一番に解読できれば、有利に論文バンバン出せるしねえ」

「なるほどー。なんか、研究の世界って、奥深いね」

 

 先生は研究者だったから、まだ見ぬ『くもがくれ……』えーっと、なんだっけ?

 

「『雲隠六帖』の文献は貴重なんだよ。俺の兄も、見せたらギラギラするかもしれないなあ」

 

 そうだ、『雲隠六帖』だった。

 

 僕はちょっと考えて、それでも僕は国学者ではなかったからことの重大さがあまり吟味出来ず、とりあえず今目の前で丁寧な説明をくれた松原を信じることにした。

 

「松原、お願いがある。僕、どうしてもこの中身を知りたいんだ。……解読、あっきーじゃなくて松原とお兄さんにお願い出来ないかな?」
「……」
「え、忙しい?」

 

 松原はちょっと拍子抜けた顔になった。

 

「いや……えっと、今の説明わかりにくかった?」
「あんまり人に見せないほうが良いってこと? うん。だけど、松原がすごく親切に説明してくれたから、お願いしようかなって」

 

 二の句を継げないでいるような表情のまま僕を見下ろす松原に、「これニョロ字なんだけど、解読出来そう?」と。ニョロ字……とつぶやきながら、松原がそれを受け取った。僕は躊躇なく本から手を離した。

 

 松原はやがて真剣な表情に戻って、本をぱらぱらとめくった。そうしてため息と一緒に、これは不思議な本だとうわ言みたいにいってのけた。たっぷり数分ほど埃とまじったような濃い木のにおいのするそれと向き合ったあと、松原は頷いた。遠慮がちに本を借りてよいか聞かれたけれど、もとよりそのつもりだったので二つ返事で頷く。

 

 授業は開始30分をとっくに過ぎており、出ても出なくても欠席という扱いになったので、僕たちは堂々と階段に腰を下ろして教室への足を止めることにした。松原はニョロ字(それは“くずし字”というらしい)のことを教えてくれたけれど、さっぱりわからなかった。

 

「癖のある書き方だ。ほら、このひらがなとか見てみて。“か”は普通はね……」

 

 『雲隠六帖』や古典を語る松原は、いつもよりもキラキラしていたように思う。こんなところを見られたら、またファンが増えそうだ(すでに校内には溢れんばかりのファンがたむろしているのだが)。

 

 そんなこんなで、僕たちの距離は一日で、クラスメイトだった頃よりもぐっと近づいているような気がした。

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