うちなびく、

03

 当然僕は国学者じゃない。秋山みたいに熱気のこもった目で古語を見つめることはできないし、そもそも古典の理解だって平均点ほどだろう。それなのに『源氏物語』ということばにへんに馴染みがあるのは、他ならぬ秋山が『源氏物語』の授業ばかり展開するから、そして先生の書斎にもズラリと筆っぽい『源氏物語』が置いてあるからである。

 

 以前から書斎に並んで押し込められていた、茶色く色あせた幾つもの分厚い本の正体が授業で学んだ『源氏物語』だと知ると、僕は先生に近づけたような気がして気持ちが高揚した。他の本よりもひときわ古そうなその本を広げた結果、古典のことはより理解し難い存在になってしまった。それは中学三年生のときに行った京都修学旅行において、どこかの神社で見かけた文字に似ていた。博物館のような四角いガラスケースの中に厳重に保存されていた、へにょへにょと一筆で書いた文字だったからである。

 

 これは、落書きなのだろうか。僕でも書けそうだ。

 

 なんて国学者が聞いたら頭をパシーンと叩かれそうな思いにふけったことを、今でもはっきりと覚えている。先生の部屋で『源氏物語』を開いたときも、まったく同じような感想だった。

 

 何冊にもおよぶ『源氏物語』の隙間にそれを見つけたのは、ごく最近のことだった。タイトルは、焼けてしまって読めなかった。そして僕はすぐにそれが先生にとって秘密の本なのだとわかった。

 

「これは……宮田くんの本なんですか?」
「あ、はい。えっと、借りていて」

 

 秋山をたずねて職員室へ行ったら、国語資料室にいるからといわれた。場所も知らなかったので聞いて、ずいぶん奥まった東棟の隅っこまで来てしまった。果たして当番で掃除はされているのかというほど、ずいぶんと埃っぽかった。

 

 秋山は資料室の隅っこにある机で読書をしていたけれど、扉が開く音に合わせてからだごとこちらを振り返った。すこし驚いた様子だったのは、ここにあまりひとが来ないからだろうか。

 

 僕は小さくおじぎをする。秋山は僕のことを少なからず(あまり眠らず、比較的に自分の話を聞く生徒)という情報をインプットしただろうか。いらっしゃい、わからないところがあったのですか?とやさしく聞いてくれた。知らないうちに張り詰めていた糸が切れるように、からだから力が抜けた。

 

「ちょっと、お聞きしたいことがありまして。授業では関係ないことなのですが、先生は大学で文学をやっていたのですよね」

 

 秋山はすこし楽しげに頷いて、続きを促した。僕は、かばんのなかで擦り切れないようにビニール袋の中に入れていたそれを取り出して、秋山に見せた。刹那、秋山は紐でくくられた茶色いそれに刮目して、僕とそれとを交互に見た。すこしの時間を置いたのち、壊さないようにと両手でそれを遠慮がちに掴む。

 

 どうしても中身が知りたくなったそれは、――あきらかに古本、それも数百年はゆうに経っているような風貌の古本だった。中身は修学旅行ときにガラスケースの中に開かれておかれていたそれと酷似している(というより僕には違いがわからない)。

 

 秋山からまず聞かれたのは、これは自分の本かどうかというものだった。曖昧に濁すと、「家に伝わっているものなのですか」と恐る恐る聞かれる。それも濁した。先生のことまで話す気はなかったし、僕が先生の秘密を覗きたいと思っていることを知られるのがいやだった。

 

 秋山の指が確かめるように表紙をひと撫でした。近い位置にあるものが見づらいのか、まだ四十路だというのに分厚い眼鏡をずらすような仕草をしながら表紙とはいえないようなボロボロした最初の紙へ縦に書かれた四つの漢字を伺う。

 

「えっと、表紙がちょっとよく分からなくて……。一文字目が雨かんむりかなって思いました。二文字目は、隠れるの“隠”、三文字目が消えています。四文字目はたぶん、“帖”なのかなって……“帖”は『源氏物語』では話の数え方だって思ったから、先生だったらお詳しいかなと思いました」

 

 解説をつけたのは、秋山が常々『本をまずは自分で読みなさい』といっていたから。読んで下さい、といういい方だと頼りきりという印象を受ける気がして後ろめたかった。そのため自分で読む努力はしたということを伝えるために、無理やり表紙の解説をしたのだが、途中で秋山の眼差しにほんのわずかな違和感に変わった。

 

 あ、授業のときの秋山先生だ。と、すぐにわかった。

 

 解説を耳に入れながらも秋山の手はまるでガラス玉にふれるように次のページをめくっていった。そうして次第に、普段は開いているか閉じているかわからないほど細い目が開かれて、文字を上から下へ、また上へと追っていく。

 

 僕の声は、すでに聞こえていなかった。

 

 秋山はまるで急くようにあっという間に、僕の存在を忘れてその物語に入っていく。かすれた声でなにかを呟いたけれど、それは僕に掛けられたことばではなかった。なにかを必死に思い起こそうと、解読しようと、理解しようと無意識にこぼれたものだった。

 

「あの……先生?」

 

 秋山は古典を読むとき、こんな表情になる。まるでそう――とても不気味ないい方をすると、なにか悪いものに取り憑かれているみたいなのだ。やがて秋山はやや乱暴な手つきでページをがさがさと捲った。

 

 昼休みを終えるチャイムが鳴る。だけど、秋山は気づかない。

 

 ふと思った。ここは僕の教室ではなく、扉の前さえだれも通らないような資料室である。当然、授業終わりなんだけどなあといわんばかりにわざとらしく身じろぎをする生徒はいない。だれが秋山をこちらへ引き戻すのだろう。

 

「先生。すみません……そろそろ僕、帰らなきゃいけないので」
「……散逸せずに残っている。それに……比較的安全に保存されていたようだ。字は……みたことのない手だ、だれのものだろうか。これは……」

 

 うわ言のようなそれに、ゾクリと背中が凍った。いっそのことこの本を秋山にあずけて、このまま逃げ出してしまおうか。そう思ったけれど、この本はどうしても僕が読みたくて持ってきたものなのに。

 

 無理やり、取り返そうか。そうしたら、秋山はいつもの柔和な表情に戻るだろうか。

 

 ぎゅっと拳を握りしめたそのときだった。コン、という小さなノック音とともに、やや勢いよく資料室のドアが開いた。あの古びた旧式の玄関のように、引き戸は二、三回引っかかったが、そのぶん沈黙したあたりにとっては轟くような音になった。

 

「失礼します。すみません、声が聞こえたのですが」ひょっこりと顔を出したハンサムな顔立ち。薄いくちびるがちょっと驚いたように「宮田?」と僕に向けられる。刹那、緊迫した空気が一瞬で吹き飛んだ。それまで僕は、異様な空気に身一つ動かせなかったことに気づいて、同時にほっと背中から緊張が緩む。

「まつ、ばら……?」

 

 松原がキョトンとした表情で「何やってんのおまえ。授業は?」と。あ、うん、とか、そういう曖昧なことばが口をついて出た。

 

 パチンと弾けたように、先生が墨っぽい字から目を離して、我に返ったようにほうけた顔で僕を見上げた。その目の奥にはまだ幾つもの古語が宿っているようで、なんとなく目を反らした。

 

「あ、……ごめんなさい。僕、すこし夢中になってしまっていたみたいですね」
「いえ。その、全然大丈夫です。ありがとうございました」

 

 すこし震えた両手で差し出されたそれを受け取るとき、わずかに秋山の手に力が込められたのがわかった。良くは見ていられなかったけれど、おそらく三分の一も目を通していなかった。

 

「はーやーく。宮田?」
「今行くよ」

 

 本を握りしめて、浅くお辞儀をする。秋山はなにかいいたそうに僕を見上げていたが、やがて諦めたのか「また、来てください」とうなだれるように頭を下げた。僕は後ろ手に扉を閉め、静かに息を吐いく。本を胸に抱く手が、まだ異様なあの空間に慣れないといわんばかりに震えていた。

 

(秋山先生に、なにがあったんだろう)

 

 まるで本に宿るなにかが強く秋山の心を鷲掴みにしたみたい、取り憑いたみたいな形相だった。

 

「ほら、宮田。急がんと、四十五分遅れで欠席になるぞ」
「松原。なん――」
「シッ、……ついてこい。ここはまだ、聞こえるからあとで」

 

 先ほどまで、まるで偶然登場したといわんばかりの表情だった松原が、渋い表情で僕を制して歩きはじめた。僕はそんな松原の背中を追いながら確信した。どうやら松原は偶然ここを通ったのではなかったらしい。

 

(そういえば、松原のお兄さんも文学をしているって……)

 

 なにか、関係があるのだろうか。知らず知らずのうちに、脆く古い本をぎゅっと両手で抱きしめる力が強くなった。それはがさ、と音を立てておとなしくおさまっている。すくなくとも僕に対してへんに取り憑くことはしないみたいだった。

 

(松原、ちょっと久しぶりだな)

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