それからの嘘についてのお話。

03

 それは、理人の朝がいつもよりもすこしだけ早かったある日のこと。


 恋人という名前がついたもののゆったりとしたおれと理人の関係の変化を象徴するものといえば、たまに一緒のベッドで眠るようになったことだった。小さな頃理人のベッドに潜り込んだ記憶の中とは違い、おとなとおとなになりかけのふたりが横になると、ちょっとだけ狭い。

 

 狭いせいで、理人が起きてベッドを離れる瞬間は、夢うつつになっていても、なんとなく感じることができるのだ。

 

「先、いってくるね」

 

 いつもと同じ、おれをとびきり甘やかす朝のやさしい声とともに、頭に淡雪みたいに静かに降ってくる手のひら。いつもと同じ……は、そこまでだった。

 

 シーツに巻きついていたタオルケットごと、まだ半分夢を見ていたおれの額にかかっていた前髪を、両手がやんわりとかきわけた。

 

 刹那、ちょん、と、すこし湿った心地よい体温が一瞬触れた。

 

 そうして理人は、宣戦布告をしてきたのだ。

 

 今日帰ったらちょっとだけ長いキスをするから、覚悟しといて。

 

佐野雪路は混乱している。 ——Side Story Yukiji

 

「で、おまえの相談だけど、――まあせいぜい緊張しながら理人の帰りでも待ってろよ」
「それだけ?」
「それだけ。そうしたら、理人がなんでそんなこと言ったか、わかるんじゃないの。どっちにしろおまえにわざわざ教えてあげちゃうほど、僕はお人好しじゃないよ」
「ひどい! 信じてたのに!」
「女子か」

 

 たしかに、女子が放課後のクレープ食べ歩きにでも誘うみたいな軽々しさで、「ねえ今日暇?」と電話で呼び出したのは、悪いと思っている。ちょっとだけ。

 

 でもおれは、いつもおれを困らせたりなんて絶対にしない理人が、今日の朝は爆弾を落としていったことに、パニックになったのだ。相談できるひとが水原しかいなくて、苦渋の決断だった。ちょっとは悪いと思っていたんだ、たぶん。

 

 じっとりと責めるように水原を見上げるけれど、「なにその目。かわいいと思ってんならぶん殴るよ」とあしらわれた。どういう意味かわからないけれど暴力反対……。

 

 水原は結局さっきまでみたいに「鈍感」「恋愛オンチ」「空気読めない」「ムカつく」「おまえ嫌い」おれを詰り続けて(ていうか全部悪口じゃん)、ゆっくりと自分のラテを飲み終えると、「こっちは暇じゃないんでね」という嫌味とともに去っていった。最後の一言は、ほんとうに余計だと思うんだ。

 

 おれの心にくすぶり続けているもんもんは、ついに取れずに終わった。

 

(でもどうして、水原は答えをくれなかったんだろう)

 

 ただ単におれのことがいけ好かないのか、それとも理由があるのか。理由があるとしたら、それは十中八九おれではなく理人のためだ。

 

 おれのなにかが悪いというのだろうか。おれと理人との仲は、水原が思っているよりもずっと良好で、喧嘩ひとつない。家族と恋人、ふたつのつながりが理人とできて、幸せな日々で、いったいなにが問題なんだろう。

 

(わからない……)

 

 そうしておれは今、水原の宣告どおり悶々とした想いが消えないまま、理人を待ち続けている。こういうときに限って、定時に上がれていないのか仕事終わりの連絡もない。いつもならもうそろそろ帰ってくるというのに。

 

(お風呂も入っちゃったし、ご飯も先に作って食べちゃった)

 

 理人のテーブルにラップをかけた夕食は、曇っていたものが大粒の水滴に変わりつつある。それだけで、キッチンへ入ってからずいぶんと時間が経っていることがわかった。

 

 いっそのこと、寝ちゃおうか。そうしたら、一瞬。

 

 だけど、水原のせりふが邪魔をして、なんとなく心のどこかで、眠らない方がいいと警笛が鳴っている。だってたぶん、理人は眠ってしまったおれを起こさない。

 

 う……。

 

 さっきから、ずるずると寝室とキッチンとをせわしなく往復しては、テーブルに突っ伏してうなだれる。

 

 理人、まだかな。いっそのこと、もう帰ってきてほしい。もんもんした気持ちを、取り除いてほしい。そうしてたっぷり数時間の夜を過ごしたとき――玄関の鍵を回す音が聞こえてきた。

 

 待ち構えていたというのに、まるで突然みたいに感じて、落ち着かなかった心臓がますます鼓動を早めていく。

 

「ただいまー、……ゆき? 帰ったよ」

 

 いつもと同じ、やや疲れたような声の調子。ゆったりとしているのに足の長さがおれとは違うせいで、玄関からあっという間にリビングに姿をあらわす体躯。

 

「お、おかえり!」

 

 噛んだ。しかも裏返った。
 朝が早く夜が遅かったということは、日帰りの出張にでも行っていたのだろう。いつもよろいキツめにセットされていた髪がややくたびれている。ひどく疲れの色が濃いけれど、表情やおれを見ている瞳は、いつもどおり。

 

「どうしたの?」

 

 そう、いつもどおり。

 

 なんだか拍子抜けしてしまって、緊張のせいでひとりでに固くなっていたからだから、風船がしぼむみたいに力がなくなっていく。いつもと同じ、ぽやぽやした理人の雰囲気だ。

 

「や、なんでもない」
「いつもならウトウトしている頃なのに、今日はしゃっきり目が冴えているみたいだけど」

 

 理人のせいだけどね!

 

 と、いいたかったけど、ぐっとこらえて、そんなことないと笑った。

 

(よかった。理人、いつもどおり)

 

 ――今日帰ったら、ちょっと長いキスをするから、覚悟しといて。

 

 ねえ、水原。あの宣戦布告みたいな理人のことばには、どんな意味があったのかな。

 

 今までとなにも変わることはないとほっとした反面、不思議とどこかさみしい気持ちが押し寄せてくる。

 

 ほんとうは、胸がどきどきしていた。いつもおでこにしてくれるおはようのキスじゃなくて、理人がしてくれようとしていたのはどんなキスなんだろうと、ちょっと想像して赤くなったりもした。

 

 ちょっぴり、期待もしていたかもしれない。

 

 ――ついでにこれから始まるであろう夜のネタまでぶっこんできたわけだ。

 

 水原にあんなこといわれて、焦る反面浮足立っていたのかもしれない。

 

 いやだ。

 

(おれ、へんたい)

 

 いや絶対だめだおかしい。

 

「ゆき?」
「へ? いや、なんでもない。……眠くなってきたから、寝る」

 

 よし、逃げよう。
 くるりと踵を返して、沈黙を貫いていた携帯を手に取った。暇すぎて、歯磨きも終わっていたし、あとは布団に入るだけだったから。

 

(ばかみたいに考え込んでいたおれが、恥ずかしい)

 

「僕のベッド行ってなさい」
「え、り、理人の?」
「どうかした? 最近はもう、いつもそっちじゃん」

 

 理人が当たり前のように、ジャケットをハンガーに引っ掛けながら、いつもの会話の応酬と同じくらいの軽やかさで問う。気分的に、今はひとりで寝たいけれど、そういわれるとなにもいえないので、頷いて理人の寝室へ向かった。

 

(へんなこと考えてたの、後ろめたいから、いやなのに)

 

 脱衣所に消えていき、理人が服を脱ぎ捨てる音を聞きながら、寝室の扉を閉めた。

 いつもの壁側を占拠するみたいに、ごそごそと移動する。ほんのりと、理人のにおいが残っていた。

 

 ――まあせいぜい緊張しながら理人の帰りでも待ってろよ。

 

 水原のいじわる! 理人がなにも考えていないことを知っていておれを一日中もんもんさせていたのだとしたら、もう次会ったら文句いってやる。全然普通だったよって。完全に八つ当たりであることを知りつつも、そうやって心のなかで水原をなじった。

 

(今日は、へんなことばっかり考えてた)

 

 うう。と、ひとりでにうなりながら寝返りを打つ。そうしているうちに、耳の奥で微かに聞こえていたシャワー音が止まってはじめて、何度も何度も寝返りを打っていることに気づいた。

 

 あれ? おれ、ベッドに入ってからどれくらい経った?

 

 おれは、精一杯脳みその少ない頭で考えた。たしかに今日一日、理人がその気でもないのになんとなくいったであろう一言を本気にして、もんもんしていた。だけどそれは誤解だったのだ。だったらいつもみたいに持ち前の寝つきのよさに頼って、もう寝なきゃいけない。じゃないと、理人がとなりにくる。

 

 となりにきたら、いやだ。今のおれはおかしいから。

 

 理人が全然考えていないことを想像して、勝手にひとりでもっとおかしくなる。

 

(ね、寝よう)

 

 それなのに、頭がパニックなせいか、いつもの寝つきの悪さはどこかへ吹っ飛んでしまっているらしい。何度も寝返りを打った末に、壁際を向いてからだを停止させた。

 

(ね、寝たふりだけでもしよう……へんに思われる。理人が寝たら、おれのベッド戻ろう)

 

 理人に罪はないが、今のこの状況では、おれは寝れない。確実に。

 

 どうせもう眠れるような精神状態じゃないと知りつつも、ぎゅう、と目をつむっていると、寝室がゆっくりと開かれた。背中を向けているのに、おれを起こさないようにか、そっと歩いてくるのがわかる。やがて、通路側のベッドが深く沈んで、すこしだけからだが傾いた。

 

 ね、寝たふり寝たふり。おれは寝てるぞ。

 

 いつも夢うつつの中で、理人が自分のそれごとおれの布団をかけ直してくれているのをよく感じていたけれど、その日もやさしい手が、布団を肩までかけてくれる。

 

(その布団を、朝には蹴飛ばしているけど……)

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