それからの嘘についてのお話。
02
やってられないとはまさにこのこと。
午後の昼下がり――もっとも混雑する時間帯のさなか、残り一席ぽんと空いていたところを偶然ゲットしたものの、おばさんの愚痴と学生や若い女の子たちの恋バナで盛り上がるスタバは……正直おっさんになってしまった僕にとってやや居心地が悪い。
しかし目の前のボケた少年は、悪びれる様子もなく(何が僕の癪に障っているのかきっとわかっていない)、何やらもじもじしている。
ずず、という、お気に入りのモカフラッペチーノをすする音。
わざわざ辺境の鎌倉くんだりまで来させられて、大切な休日のひとときを奪われて、僕はここに座っているわけなのだが、さっきからもじもじはただもじもじしているばかり。
「あ、あのさあ……」
やっと話を切り出したときには、もじもじ――雪路のモカフラッペチーノは既に半分以下まで減っていた。本人もこのままじゃ僕を召還した意味がないと感じたのだろう。
――え! あの子この間まで違う人と付き合ってたよね。
――でも、別れたみたい。ほら、変わり激しいじゃん。
――ね、よく出来るね。まあ可愛いからね、私は一緒にいたくないけど。なんか、男好きじゃん。
二人用の席を二つくっつけて、ついでに顔も真ん中の方へぐっとくっつけて、噂話に華を咲かせる女の子たち。ひそひそ話のつもりだが、よくある話の内容はこちらにまで丸聞こえである。
「水原に相談があって……」
「その前にさあ、なーんかいうことあるんじゃないの? 来てくれてありがとうとかさ、急に呼び出してごめんとかさ、先にそういうひれ伏すような感謝と畏怖の気持ちってもんがあるでしょうが」
「お、お礼いったよ!」
「会計のときしか聞いてないね」
「う……」
雪路はフラッペチーノの残るプラスチックのカップを両手で持ちながら、何やら逡巡しているようだ。
「ごめん……ありがと」
やがてぺこりと頭を下げる雪路の様子は、素直そのもの。こんなアホっぽいやつに一昨日『土曜日ひまだったら鎌倉で会えない? ちょっとだけでいいから』というメールをもらっただけでいそいそと足を運んでカフェまで奢ってやり……こいつのペースに振り回されているとイライラしていた心が、やや萎んでいく。こう素直なところもまた、色々な意味で頭からぐしゃっと潰したくなるのだけど。
「でも、なんか、水原にしか相談できないし……」
「あ、そ。別にいいけど、ひまだったから」
「……ごめん」
「もういいってば」
だあああ面倒くさい。
「で、話したかったことがあるんじゃないの?」
急な呼び出しと、僕にしか出来なさそうな話と、僕とこいつの関係性と、その中でひとりハブかれてなぜかここにいないやつのことを考えれば、おおよその内容は理解できるのだが。
むかつく。僕は元恋人だぞ。よりによって今恋人から元恋人についての相談に見せかけた惚気を聞かなければいけないなんて、やってらんない。
「あ……えと、そうなんだけど」
「……」
「……あのねえ……えっとね、……やっぱりいいや」
「僕を怒らせたいの?」
「い、いやいやいやそうじゃなくてね! いや……なんか……」
雪路はちょっと壊滅的にわかりやすい性格をしている。我に返ったようにはっとして僕を見て、気まずげに目をそらされたことで、こいつが何を考えているのか手に取るようにわかる。
馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど、やっぱり馬鹿だ。
「なに、おまえ今更遠慮してんの? それ連絡するときに気づくべきだったよね。なんで今なの馬鹿なの?」
おそらくこいつは、このカフェで自分の家族兼恋人に関する相談ごとをこの僕にしようとした。しかしいざ口を開きはじめると、自分が相談しようとしている男は僕の元恋人であることに気づいたのであろう。
半開きのくちびるがアホ面で鬱陶しい。そんなのを可愛いと思うのは呆れたおまえの兄だけだ。さすがに原恋人が元恋人に渦中のひとの話をすることには、遠慮があったみたいだ。口をつぐんでいるが、既に色々と無駄な反省である。仕方ないので注文したラテを飲むことで、ひと呼吸置いてやる。
「う……ごめんなさい……」
「別にいいよ。ここまできて謝られてもねって感じだし。続けなよ」
「でも……」
「しつこい」
言いよどむ子どもに、(いやだいたいわかるっつーの)と毒を吐きたい気持ちになるが(既に吐いているが)、ぐっと抑えてそのくちびるが再び開かれるのを待った。
「あのね……水原は、付き合ったことあるよね……」
「あるよ」
「そ、それってさ、どんな感じだった?」
雪路の頬は、微妙に赤い。スタバが暑い……わけではないだろう。
(付き合うは付き合うだろうがよ)
いったい古今東西どこを探したら、こんなとぼけた男子高校生がいるというのだろう。実際あいつが真面目くさって後生大事に育てたというのだから、箱入りで当然なのだが、それにしたってシモネタのひとつやふたつ、クラスメイトと話すことはないのだろうか。
いや、こいつそういえば放課後はスーパーの安売りに直行だっけ。
(ズレっぷり半端ない……)
もしかして理人は育て方を間違えたんじゃないか? こんなおとぼけ中学生を世の中に排出してどうするというのだ。
「同じなんだよ、理人。友達にやんわり聞いてもわからないし、そもそも友達にはきょうだいっていうのいえないし……」
その前に男同士だと思うのだが、やっぱりズレている。この子が今直面している恋愛が、世間にとって限りなくあり得ないものとして映るであろうことは、頭ではぼんやり気づいているだろうが想像でききれていないらしい。
男同士で、きょうだいで、年も随分差があって……なんて不毛な恋。
もうすこしお互い傷つけばいいというのに、一緒にいた時間の信頼が強すぎて、理人がこの子を上手に囲いすぎて、その恋はあまりにも穏やかにはじまってしまった。
――それでも、まあ、これでもすこしは悩んでいるということ。
「同じってなに?」
「んー……一緒にいたり、ご飯食べたり、たまに……こう、ぎゅってしたり……」
もごもごと恥ずかしそうな声とその内容に、何も感じないといえば嘘になるが、おとななので気にならないそぶりを貫く。
「ふーん。あとは?」
「……」
「……え、待って。それだけ?」
なんとなくこいつがなぜ僕に相談を持ちかけているのか、わかってきた気がする。
さすがに恋愛に対し、高校生初級並みの知識だけは備わっていたらしい。それとも、急遽付き合うということになったということで、お友達とやらから聞いた付け焼刃か。
「キスとかエッチはしてないってこと?」
夕刻を前にした喧騒にまみれるカフェには、ちょっとそぐわない会話。雪路の頬が、いっそう真っ赤に染まって、それからおもむろに首が縦に振られる。
「はやい子は、ふ、普通するって……聞いたん、だけど……」
「スピードはひとそれぞれだけど、普通するだろうねえ」
「う……」
なんて、いじわるをいってみる。こいつと理人なら、それは簡単なことじゃないってわかっているのにいじわるするのは、しあわせ真っ盛りなこいつにちょっといらっとくるから。
これくらい引っ掻き回すだけなら、別にいいだろ。ほとんど液体となったフラッペチーノをストローで混ぜながらうなだれるつむじを見ながら、そんなことを思った。
(まだまだガキだなあ。理人はこんなやつの何がいいんだか)
まだあどけない頃から大切にかしずいてきた大切なきょうだいで、しかも当の本人にとってはまだ恋人ときょうだいの境目だと思われていて、……そんな状況でいきなりどエロいことが出来るほど、理人は自分勝手じゃない。
もし僕が理人の立場だったら、迷わずからだから陥落させて、後で気持ちをついていかせればいい。けれど理人にはそれが出来ない。こいつが好きすぎてどうにかなっているから。砂を吐くほどゲロ甘いとは、まさにこのこと。
「じゃあさー聞くけど……おまえは理人とそういうことできるわけ?」
そもそも頭のてっぺんから足のつま先まで性欲などとは無縁に思える稀有な男子高校生に、そんな性欲があるのかどうか、疑問である。単に周りに流されているだけではないのだろうか。
「いっとくけど、男同士ってエグイよ。痛いし、生々しいし、そもそも汚いじゃん。汚いところに入れるんだから――……」
「ストップ! ストップストップ! ここカフェだから!」
「いやだからそこんとこわかってて、おまえはそんなこと気になるの、ってことだよ」
「水原いじわる!」
「そんなの今にはじまったことじゃないじゃん」
それに、心配しなくても常に満席のこのカフェは多くの喧騒とBGMに支配されている。誰もかれもが自分たちの話に花を咲かせているのだから、周りのことばを聞く余地はないだろう。
声に関していうなら、おまえの「ストップ」の方がでかいから注目集めてるよ。
そろそろ、面倒になってきたなあ。
対峙した雪路に見えないようにテーブルの下に忍ばせていた携帯を、片手でいじる。ちょうど理人と連絡を取っていたところだったから、短く『こいつはほんとうにめんどうだね』と打った。
「お、おれだって……考えてる……もう子どもじゃないし。でも、おれは真剣に考えてるのに……理人はいつも通りでずるくて、でも……」
俯いた子どもが、ぼそぼそと呟きながら、フラッペチーノをずず、と吸う。そろそろなくなるだろうか。僕の前にあるラテはもう既にからっぽに近い。あと一口二口で飲み終わるはずである。
返信画面に、文字を打った。
「別にその気持ち伝えればいいじゃん。だからエロいことしてもいいですお願いしますーって。あいつおまえに甘いから喜んでしてくれると思うけど……」
「そういうことじゃなくて! 理人がしたくないなら、いいって思ってたんだけど、……えっと、えーっとね」
いやいやそれはないから大丈夫だろう――とはいってやらん。この野郎、おまえあいつがあんな独占欲丸出しで尽くしてきてんのにそれは鈍すぎだろうがよ。
「今日の夜、帰ってきたら……うー、いつもより長くキス、するって」
最後の方は、もにょもにょと歯切れの悪い声。だけど、このカフェでこいつと一番近い距離にいるのだから、何言っているのかはだいたい聞こえて――。
もーなんなんだこのふたりは。やってられん。おれには甘すぎるしただの茶番だ。しかも妙にお互いすれ違ってる。お願いだから僕のいないふたりの世界で勝手にやってくれ。
「で、あの、これって……どういうことだと思う?」
「僕はさあ、そろそろおまえの首締めたくなってきたよ」
「へ? なんで、首締めるの?」
「僕おまえのそういうところ、ほんとうに嫌いだよ」
なんだ、ちゃんと前に進めるように理人からモーションかけてるじゃないか。年甲斐もなく我慢なんてやめたほうがいい。放っておいてもどうせこいつは「あー理人と一緒だあ、すきだなあ」なんてよだれ垂らしながら理人にくっついて熟睡するタイプである。
ま、せいぜいお互い頑張りなさいよと思う。その面倒な子どもは、今はおまえの恋人なんだから。
携帯に手をかけると、雪路からヘルプがあったことをほのめかした連絡に対して、一言だけのそっけない返信。感慨深さにふける様子もなく、短く色気のない返事。曰く、『なんかしないでね、いくら裕樹でも怒るから』と。
ああ、なんて面倒なんだ。
「で、お前の相談だけど、――」
雪路には、悔しいからいわないけれど、恋人の心配をして鬼のように連絡したり、過保護に囲ったり、とろけるようなゲロ甘い眼差しを送ったり――あんなイカれた理人を見たことはなかった。悪いところに頭でもぶつけたのかと思うほど、理人は変わった。
――お互いすきだったのね。大学で知り合った僕たちはデートして手を繋いでキスをしてセックスしていたってわけ。
半分願望、半分の半分は真実、残りは嘘だ。
あの雪の日、僕たちの関係を聞いた雪路はひどく落ち込んでいたけれど、そんなきょうだいとしてのおまえの方が、かつて恋人同士だった時期の僕よりもずっと大切にされている。
(昔は、アンドロイドみたいに冷めていたやつだったから)
からだを重ねていたのは事実だったけれど、デートして手を繋いでキスをしていたかというと記憶が曖昧だの一言で片づけたくなる。
――なあ。これって付き合ってる? セフレじゃねえの?
――祐樹がそう思っているなら、善処するよ。
マイノリティな性を持ったふたりが、偶然出会って、本気で恋に挑める確率は限りなく低いこと。二十年も生きていれば、わかることだった。僕たちは、同じ大学という世界でお互いを知り、都合よく利用したに過ぎなかったのかもしれない(しいていうなら、そのうちに、僕だけがたしかに彼を本気で恋しく思うようになっただけ)。
事実、理人からは執着のようなものを感じたことがなかった。世界に対し冷めきっていたし、僕を理人の世界に入れることはなかった。結局、“善処”されることはなかった。
そうして理人は守るべきものを見つけておとなになってしまった。僕からも、大学からも、あっさりと背を向けて去っていった。
――善処するよ。
それが答えだった。
(あれは、だれだ)
そもそもあいつ、子ども好きだったっけ?
もう立派におとなになったと得意になる馬鹿すぎる子どもを、まるですべてのものから守るみたいにやさしく囲って、甘やかしている。
僕には無理だ。あんな独占欲丸出しで囲われるような扱いされたら、むずがゆくてどうにかなってしまうだろう。
つまるところ、僕が密かに愛した佐野理人という人間は死んだのだ。