それからの嘘についてのお話。

01

 はたして女の一生とは、こんなにも忙殺ということばの似合う日常の末に、老いていくものなのだろうか。


 赤々とした陽の光に照らされた細身のリングを見ながら、ふとそんなことを考えた。リングの位置は左手の薬指、そして諸悪の根源である。

三橋真夏の王子様 ——Side Story Manatsu

 

 日も沈むだろう土曜日の夕方。夕日に焼かれた校庭で部活動に励む生徒はおおかた帰宅したところだろう。開けっ放しにした窓の向こうからは、野太いかけ声も、トラックを駆ける音も、忽然と姿を消しはじめている。

 

 こうなってくると、この小さな保健室の扉を叩く生徒などいない。ということで、(平日出勤、土曜も出勤……)などと現実を客観視して落ち着くための念仏を唱えながら、今日のところはだれにも寝転がってもらえなかった真白いベッドに背中から倒れ込んだ。

 

 仕切りのカーテンは適当なところで中途半端に開かれており、それは外の風によって不格好に踊っている。

 

(お気に入りのネクタイがないだの、会社で使う書類がないだの、うるさくてかなわん)

 

 おまえのお気に入りのネクタイなんて知らないし、そんなに大切な紙っぺらなんだったら後生大事に鞄に突っ込んでおけというのだ。「遅刻、遅刻」とぶつくさいいながら早足に出ていくひょろりとした背中に向かって、心の中ではついでに(いつもその時間に出るとき「遅刻」っていってるよ馬鹿)と罵っておいた。

 

 それが、今朝。彼の仕事は、土曜日にも訪れる。奇遇にも私と同じである。

 

 指折り自分の年齢を数えてみる。心地よい春色の陽気が殺人的な暑さに変わる夏の頃、私はまたひとつ年を取ってしまう。

 

 幾つかの年をかけておとなになった私がしていることといえば、休みの少なく帰りの遅くなる忙しない仕事に、炊事洗濯といった家事全般――要は彼のお守りだ。毎日は風のようにあっという間に過ぎていく。なんて平凡で、面白みのない日常。

 

 いっそのこと身一つで世界を見よう――なんていう大きな夢を持てる時期も、あっという間に過ぎ去っていったわけで。

 

(諸悪の根源、根源、根源……)

 

 あまり寝心地がよいとは思えないベッドに背中を預けたまま、無機質な天井に左の手のひらをかざしてみる。このちっぽけな指輪さえなければなあと、思わない日がなくもないのだ。

 

 デスク上に置いてあるやりかけの(つついた程度だが)仕事はどうしようか。やって帰らなきゃ仕方ないのだけど、どうしてもやる気が起きない。職員室から隔離されているという現実がまた、私に惰性を刷り込んでいくのだ。

 

 いやあ、動けん。他人事のようにそう思っていたそのときだった。

 

「病人じゃないのにベッド占領しちゃいけません」

 

 得意じゃないのに冗談っぽくいおうとして、それでもやっぱりどこかぎこちない、ふざけきれない中途半端な声色。背中をつけたまま顔だけそちらへ向けると、勇気を出してそんな軽口を叩いてみたらしい雪路くんが、カーテンの仕切り近くに立っていた。

 

「あら、油断していたみたい」

 

 よっこいしょ――なんていう(おばさんっぽいかしら)かけ声とともに寝転がっていたからだを起こした。学校に用事があったのか、まだまだ着られているみたいな制服を纏った彼が、恥ずかしそうに会釈した。

 

 ……そんなに照れちゃうなら、柄にもなくふざけたことなんていわなければいいのに。そう思うけれど、不器用な彼はそうして私との距離を縮めようとする。

 

 ああ、かわいい。いとおしい気持ちが増していく。

 

 ――私の非日常。やさしさをくれる、王子様。

 

「この時間には普段、だれも来ないんだよ。まさか佐野くんに見られちゃうなんてな」
「でも、だれにでも休憩したいとき、あると思いますし」

 

 あら。ふざけたと思ったら、急に真面目くさっちゃって。

 

「そうそう先生は休憩時間になると、ベッドに潜るの。……教頭先生にいっちゃうかな?」
「いわないですよ……」

 

 もー……と子どものようなあどけなさを残すひねくれ方をするこの子のほっぺたが赤いのは、夕方の明かりに灯されているからだけではない。赤面症は、冬を越した今でも健在みたい。

 

 そんな照れ照れしている彼のことは、気づいていながら気づかないふりをする。気づかれていないとほっとしている彼もまたかわいいのだ。

 

「で、今日はどうしたのかな?」
「特にこれといって用事はない、んですけど、なんとなく学校に寄ったから先生いるかなって……ノックしたのに返事ないからいないのかと思ったんだけど」

「休憩中だったから返事をしなかったんです」

 

 嘘だ。考えごとをしていたせいで雪路くんの出すささやかなノック音に気づけなかっただけである。そんな嘘にすっかり騙されて、まだ子どもみたいなところを残す彼はあっさりと信じて「そっかあ……」といった。

 

 休憩邪魔してごめんなさいとでもいわれそうだったので、話題を探す。うーんと、そうだなあ。

 

「ああ、そういえば佐野くんは二年に上がったよね。……クラスどう?」
「また小塚と一緒になったんです……」
「いやなの? 仲良しじゃなかったっけ?」
「……黒板見えなくて困る。あ、だけど先生が席替えはまめにやってくれるっていっていたから、すぐ視界良好になると思います!」

 

 特別寒かった冬を越して、雪路くんはまた一歩おとなになったみたい。なんだか、この話を去年も同じ悔しそうなトーンで聞いたような気がするから、からだの成長は鈍足なのかしらとも思うけれど。

 

 それでいい。――私の王子様、願わくはすこしずつおとなになってほしい。

 

 植村真冬のことは、よく覚えていない。ただ彼女の放つ、名前のとおりあまり積極的にひとを寄せつけようとしないやや冷たい雰囲気だけは、なぜか今日までずっと鮮明に頭に浮かんでいる。

 

 対人関係において冷たかった、とは、すこし違う。地味だが人当たりのいい様子はおぼろけに記憶にあるが、たぶん、彼女はだれかに心を見せることをしなかった。

 

 まだ丸っこく物の道理を知らなかった幼い私に、だれかがそばでいい聞かせていた。あの子は前の奥さんの子で、よその子だから、関わらなくていいのよと。

 

 なぜ、だって私と真冬は――……。ずいぶん年上に見えた彼女の細長い後姿を、いつも盗み見しながらそう思っていた。

 

 私たちの“家”という狭い世界で、彼女はひとりだった。ずっとずっと。

 

 ひとりだった彼女に子どもが産まれたという知らせが来る頃には、私もおとなになりはじめていたから、自分のことは自分で考えるようになっていた。傀儡のように今まで取るに足らない“家”のことばにばかり耳を傾けていた自分が、彼女にどれほど残酷な仕打ちをしていたのか、しっかりと理解できるようになっていた。

 

 だから、せめて、あの子を見守りたい。彼女のために。

 

 だけど名前のとおり真っ白で新雪のようにやさしくかわいく育ったあの子から、目が離せなくなるまでに、多くの時間はいらなかった。権利でも義務でもなく、ずっと見ていたい、そばにいたいという衝動に駆られるのだ。

 

 まるで王子様みたいに、雪路くんは私の心を溶かしてくれた。本人だけが、それを知らないまま。

 

「じゃあ、おれ、もう行きますね」
「もう? ……まだ来たばっかりじゃない?」
「これからひとと会う約束しているんです」

 

 私をどこか熱っぽい目で見ようとしていた頃、雪路くんは時間の許すかぎりいつまでもこの場所にいたがった。雪路くんのそれは間違った恋だったけれど、その中で彼は一生懸命だった。

 

 そりゃあもう、気づかないふりをするのも大変なくらい。

 

 ほんとうの恋を知って、すこしおとなになった彼は、ねたましい。こんなにあっさりと私のことを置いてどこかへ行ってしまおうとする。もっと、ついこの間の冬までみたいに、私のことを慕ってくれてもいいというのだ。

 

 なんて、拗ねている私は、まるで少女時代に戻ったみたい。

 

「先生、休憩は終わりですか?」

「うーん……そうだなあ。帰ってやらなきゃいけないこともあるしね」

 

 干した洗濯物をしまって、夕食を作って、真夜中まで残業ワールドの彼を待つという大切な大切な必須事項がなあ。

 

「そっかあ。じゃあ、おれ帰ります。――あ、ああそういえば」

 

 扉へ向かっていた雪路くんが、慌てたようにくるりと向き直った。……こういう仕草はまだまだ子どもみたいだ。くす、と口元が緩んだ。

 

「あの、さ、先生って、なまえ夏美っていうんですね。……今まで全然知らなかったけど、この間はじめて知ったんです。おれのなまえを慰めてくれたの、思い出しました」

 

 そうしてその子が、そういうセリフは恥ずかしげもなくいえるみたいで、きれいな名前ですね、と微笑んだ。

 

 ――あら、どうしてきらいだなんて思うの? 四季のなまえが入っているなんて、贅沢よお。私も季節のなまえが入っているの、佐野くんと同じ。

 

(普通は冗談飛ばすよりも恥ずかしいくさいセリフを、平然といってのけるんだもんなあ)

 

 そんな関心とは裏腹に、意識は遠くへ飛んでいく。先生として彼のそばにいることになってはじめての会話。あの頃、自分のなまえをすきになるのにいっぱいいっぱいだった彼は、とうとう私のなまえを聞いてはくれなかったっけ。

 

 そんなんで私に恋をしているなんて勘違いしていたなんて、彼はまだまだ子どもだったみたい。普通、すきなひとって思うなら、下のなまえくらい呟いてみるというのに。

 

 雪路くんはぽかんとする私を前にちょっと首を傾げて、それからまた来ますと会釈していった。私はというと、思わぬところからカウンターを食らったみたいな気持ちになっていたので、ただ手を振ることしか出来なかったので、そのまま。

 

「あー……くそう、かわいいなあ」

 

 ことばに出してみると、なんだか、男前なつぶやきである。それでも、冬の頃のもの憂い表情からいっぺん、はにかんだ雪路くんに対する感想は、それに尽きる。

 

 まだまだかっこいいには程遠い、私のかわいい王子様である。私のというと、だれかさんに怒られてしまうかもしれないけれど、心の中で思うのは勝手だ。

 

 ――お揃いの洋服やパジャマもない。流行りのコスメを交換することもない。それでも、冬生まれの彼女と対でつけられたこのなまえは、彼女と私との唯一の繋がりの証。

 

 白衣のポケットに忍ばせている携帯を手に取ると、新着でメールが来ている。送り主は、さっきまでお互いの仕事の合間に返しあっていたそれのひと。再びベッドに寝ころんで内容を確認すると、――数年前から相も変わらず飾り気のないシンプルな文面。

 

『こちらは相変わらずですが それより夏美ちゃん 旧姓の話はしたの?』

 

 久しぶりの連絡だったので、お互いの近況についてざっくばらんに打っていたのだ。最も、おしゃべりな私は長文で、彼はひどく短文だけど。……どちらかというと、私の生活よりも雪路くんと年がら年中一緒にいられるという彼の薔薇色の生活が知りたいというのに。ああ、そんなのどうでもいいってば。

 

 ちょっと考えて、今回は私も短めに返信した。どうだ、物足りないだろう、いつもあなたこのくらいで返すのよ、といわんばかりに。

 

『いつか雪路くんがもうすこしおとなになったらにしようと思います』

 

 おとなびはじめた雪路くんがこの中学校を卒業してから、先生と生徒という関係が終わっても、私と雪路くんの間にはまだ新しい関係が待っているのだから。……本人には教えてあげないけれど、数年後に気づいた彼には、早くいってよ、って、ちょっとむっとしながら怒られてしまうかもしれない。

 

 雪路くんがいなくなった私の世界には、また面白みのない平凡な日常が戻ってくる。だけど彼の足跡は「そんな日常も悪くないんじゃないかな」っていう気持ちを運んできてくれるから、不思議だ。

 

 とっとと仕事終わらせて、買い物して、……仕方ない今日はいつもみたいに総菜を忍ばせるのをやめて全部手作りでやってやる。

 

 しばらくして返ってきた彼からのメールは、不本意なことに、過去最低レベルの短文であった。

 

『僕と同じだ』

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