深窓の君。

01

 ここ数日、東京の町並みを丸呑みにするような曇天が続いている。広山は青空を塞ぐ分厚い要塞のような雲を四角い窓から眺め、ふとそう思った。

 

 時刻は午後をすこし過ぎた頃だというのに、もう夕刻に差し掛かっているかと思うほど薄暗い。

 

 列強諸国に比肩すべく形だけは豪奢に整えられた、固くてつるつるとした大理石を歩きながら、広山はいつものことながら微塵も心の動かない会議が終了すると、すぐさま私邸へ帰宅するため、その場を離れていた。

 

「ひ、ろ、や、ま、しょーさ」

 

 そんなリズミカルな明るい声とともに、いつものように英国紳士さながら気さくに叩かれた肩を、払い除ける。その手ははじめからそこにはなかったかのようにひらりと身を交わした。代わりに、広山と同じくらいの威圧的な背丈の男が、肩を並べてくる。

 

 戦場で怖気づき振り返ったら最後、異国の大砲ではなくこの軍師の目に殺されるのではないか――と畏怖される広山に、階級が下でありながらも友人顔負けの馴れ馴れしさを発揮できるのは、軍の中を隈なく探せどこの杉村くらいである。

 

 広山よりも年が二つ上だからというのもあるだろうが、類まれなる出世頭であるこの海軍少佐にペコペコと頭を下げる中年連中など、吐いて捨てるほどいるものだから、そういった意味でも杉村の存在は広山にとって物珍しく、――広山にとっては時にとても鬱陶しい。

 

「少佐ともあろう方が、お早い帰宅ですな」
「杉村君。……今日の会議は終わっただろう」
「いやあー。おエライさんが揃いも揃って項垂れてるのに、広山少佐ってば空気読まずにすぐ出ていってしまうんですもん。慌てて追いかけました」

 

 追いかけんでいい。と、広山は心の中でこのいやにハンサムな中年に悪態を吐いた。数年前からの知己ではあるが、一見頑健に見える杉村にも、そろそろ老いの影が見えつつある。

 

 自分も同じだろうと、広山は三十五を超えたからだを思った。

 

「で、早々に帰宅ですか? それともカステラを買いにおでかけ?」
「朝から調子が悪いんだ」

 

 そこに隠された主語が広山自身ではないことを、杉村はとっくに知っている。そして、この男がしきりに私邸に帰りたがる理由もまた、しかり。逆にいえば、意地の悪い杉村は広山のその様子が知りたくてここまで付き纏ってきているのだ。いつも以上にとっとと会議室を後にする背中には、アレが一枚噛んでいるに違いないと。

 

 そもそもこのむっつりとした日本海軍きっての切れ者に、体調の悪いときなどありえない。

 

「へえ――また、深窓の君ですか」

 

 ニヤニヤとして近づいてくるのを、肘で差し押さえる。最近目尻に癖づいてきた細かい皺を深めて、いやらしく「へえーへええ」という杉村が憎らしい。

 

「君のせいで、その名前がいやに広まっている」

 

 とはいえ、“深窓の君”のほんとうの名前を軍で発音することは憚られるのだが。
 辞令により東京都へ集められた青年から壮年期にかけて幅広い年代の男たちは、だいたいが地味であまり周囲と打ち解けない人間である。鶏のように喋り好きな杉村の存在は昔から異彩を放っていた。そのおかげで杉村の一言一句が、このつまらない狭い世界ではあっという間に噂の的になる――深窓の君という名前が、軍内において一世を風靡していたのは、ほんの半年前である。

 

 おもしろおかしい女のネタなど滅多にないのに、しかもそれが、名家の出でもないのに実力が認められ、若くして軍の指揮を取っているカタブツ冷徹感の若者軍師なものだから、興味本位で広まるのは時間の問題だった。奥ゆかしい名前のイメージは人から人へ渡るごとにぽこぽこ尾ひれ背びれがついた。

 

 曰く、『広山少佐には私邸に大事に囲う奥方“深窓の君”がおり、あまりに美人なものだから少佐の独占欲が募り、部下兼友人の杉村にさえその姿を見せない』のだとか。

 

 やれ和風美人だ、遊郭の出だ、名家のお嬢様だと、深窓の君とは何重人格なんだといわんばかりに激しく飛び交っていた噂。広山といえば、自分のまわりが妙に騒がしいのはごめんだが、直接問い合わせてくる輩がいないので放っておいてある。

 

「今日の話は」

 

 杉村がとなりで独り言のように問いかけた。あるいは、本当に独り言だったかもしれない。

 

「聞いたらあの子は、泣きますかね」

 

 広山は返事をしないまま、私邸へ帰るため足を早めた。

 

 泣くだろうな。華奢な肩を震わせて、冷たい異国の海色に輝いた目の色をキラキラと輝かせて、大粒の涙を零して、それでも最後は広山のいうことを聞くか。

 

 建物を出てすぐ、様々な異国のパズルピースをがたがたにはめた、おかしな街を横切ると、今朝の新聞を片手にヒソヒソと話す老年の親父たちとすれ違った。本国の勝利は運命なのだ、と、銃声の飛び交う世界を知らない、老いすぎた人間たちは笑う。

 

 広山はすこしも明るくならない空を一瞥して、それから私邸で自分を待つ“深窓の君”の姿を脳裏に反芻した。そしてこれから海を隔ててはじまる長い戦いへと想いを移ろわせる。

 

 世間を知らないあれは、泣きながら怒るだろうか。それとも広山の心中を思いやって胸を痛めるだろうか。そして、数年前ともに過ごしたやさしい日々へ戻りたいというだろうか。

 

 ――連れてって。

 

 広山が数年で習得した付け焼き刃のようにぎこちないそれとは違い、流暢な異国のことばで、あれを置き去りにしようとした広山の心をつととらえた。

 

 あれからたった数年――時代は東国行きの汽車のようにとどまることを知らない。

 

 

     *

 

 

「何をしている」

 

 軍の指揮を取るお偉い方は揃いも揃って欧米好きの豪奢な連中が多いが、広山の私邸は両親の持ち家を継いだ至極地味なものであった。また、外に面する扉はすべて固く閉ざされているので、周辺の住民からは空き家と間違えられたこともある。最近でこそ広山の私邸ということは周知されたが、それまではどこの貧乏人が住んでいるのかと別の切り口から噂になっていたようだ。最も、それもお喋りな杉村が酒瓶を転がしながらいった一言であったが。

 

 いぐさのにおいのする年季が入った日本式の部屋をくぐると、手伝いの老いた女がパタパタと慌ただしく玄関へ駆けてくる。

 

 しかし広山が眉を潜めて窘めたのは、その後ろで扉の隙間からこちらを覗き込んでいる――寝間着のままの少年に対してだった。茶ばんだやわらかいふすまから半分覗かせているその肌の色は、日本人離れした真珠のような白。広山のおんぼろ私邸にはいつまで経っても馴染まない、アンバランスな存在。

 

「あらあら、すみませんね。さっきまで眠っていらして、いい子にしていましたよ」

 

 お手伝いが微笑ましそうにクスクス笑いながら、そういう。

 

 そうそう。というように、手伝いのフォローに同意して、少年の首が不安定にカクカク動く。折れそうだ。癖のない栗色の髪の毛がこぼれるように揺れる。長い前髪の隙間からは、自信たっぷりな頷きとは裏腹に、やや不安そうな青い瞳がちらちらと広山を見上げている。

 

 少年のそばに寄ってそのからだを抱き上げた。

 

「サーシャ、迎えには出るのはやめろ。動くと体調が良くならない」

 

 年頃の少年にしては軽すぎる羽が生えているようなからだ。サーシャは抱っこされるのが当たり前といわんばかりに、広山の背中へと従順にしがみついた。

 

「おかえり、なさい」

 

 カタコトの日本語に、「ただいま」と返す。昔はなめらかなサーシャの言語に、学びはじめのカタコトな広山の異国語が重なっていたが、すべてがすっかり逆になっていた。

 

 サーシャの部屋は四方の戸がかたく閉ざされている。広山が一緒にいられる間にだけ空気の入れ替えをするために、雑草の畑となった庭に面した戸が、サーシャの手のひら半分ほど開かれるのみだ。

 

 部屋に入ると広山がころんとサーシャを横たえる。それから布団を引っ張り上げて、白く小さなそれをすっぽりと包み込んだ。そのままあぐらをかくと、待ちわびたようにサーシャが丸くて青い瞳を踊らせて、くちびるを開く。

 

「ぼく、今日待ってた」
「そうか。早かっただろう」
「仕事が早い?」
「そうだ」

 

 ひとたび外へと出れば銃か顎にばかり手をかけている無骨な広山の手が、ガラス玉にふれるみたいにやさしくサーシャの髪を撫でた。サーシャは満足そうに目を細めて微笑する。

 

 拾ってきたあの頃よりも背丈がすこし伸び、日本人離れした隠しようのない、玉のような美しさが際立つようになった。

 

 “深窓の君”とは紛れもなくサーシャのことだが、和風美人や名家のお嬢様とは、一体どこで立ち上がったものか――広山は今更ながら、軍に仕える男たちの悲しい妄想癖に同情した。

 

「おまえに土産がある」
「おくりもの!」
「そうだ。……だが、言いつけを破って布団から出たからな。次は約束を守るなら、渡そう」

 

 サーシャは迷わず頷いた。もちろん反省の色ひとつない。

 

 広山は(どうせ分かっちゃいない)と思いつつ、サーシャにひどく頑固な一面があることを知っているので、よしとした。飴玉のように甘い男である。

 

 朝出かけてすぐに尻ポケットへねじ込んでいたせいで、ややくたびれてしまった封筒を取り出した。とたんに、サーシャの表情がぱっと明るくなる。そして、手紙の主である姉の名前がこぼれ出た。数年日本にいただけでは到底消えない、はっきりとした異国語の調子。

 

「読んでやろう」
「いつもぼく、読める」
「おれが読みたいんだ」
「次、ぼく読む」

 

 いつかな、と来ない約束をしながら、広山は数時間前に閉めた封をハサミで切った。そうして、美しく儚かったサーシャの姉を想った。こんな残酷なうそを月に一度の頻度でやってみせるのは、かつてサーシャを奪ってしまったことへの懺悔か、それともサーシャへの慰めか、それとも――ぱっと表情を輝かせるこのばかみたいに純粋な顔を、ただ何度でも見ていたいからか。

 

 手紙を読んでやりながら、サーシャに目を向けるたびに、吸い込まれそうなほどまっすぐな双眸と視線が交わる。うその手紙を読むとき、サーシャはなぜか広山から視線を離すことをしない。くちびるをやわらかな三日月に傾け、微笑する。広山は、サーシャがほんとうはすべてを知っていて、そんな自分をゆるしてくれているのかと錯覚してしまう。

 

 幼い子どもを日本へさらってきてから、はや三年以上。サーシャにとってたったひとりの肉親であった姉の存在は、まだ色のついた姿として、凛として鮮やかに映っているのか――それともついに残像のように消えようとしているか。

 

 すこしおとなになったサーシャは、広山のつくばかみたいな嘘に気づくか。

 

 青年期を過ぎ、すこし老けた自分にとって、同年代の男ほどではないものの、徐々に少年っぽさを露わにしていく子どもは、眩しい。自分のおよそ半分ほどしか生きていないサーシャにとって、青春はこれからだった。その青春も、広山が故郷と一緒にさらってしまったけれど。

 

「広山さんいつも日本語よむの、きれい」
「上手という意味?」

 

 サーシャはこくこくと頷いた。やや散らかった前髪をゆっくりと撫でてやる。気持ちよさそうに目を細める姿が美しい動物のようで、つい笑みが溢れる。一日引き締まっていた口元の筋肉がゆるんだ。

 

「ぼく、上手になったかな」
「上手だよ。読み書きも教わっているだろう」

 

 たとえ読み書きが出来ていたって、サーシャはこの先学校へ通えない。それどころか、部屋を出ることもかなわないだろう。ずっとこの家の、この六畳半の部屋で過ごすのだ。たとえ広山が、この先どうなろうとも。

 

 しかしサーシャは世界を憎むこともなく、澄んだ目で時折開く雑草の茂った庭を見下ろしている。

 

 ――あの国めがけて海中から攻めようだなんて、政府はどうかしてる。

 

 項垂れる指揮官たちから、まるで悪夢を見た後のように放たれる独り言が、不意に蘇る。留学先で先進技術を目の当たりにした広山が、それを知らないはずもなく。

 

 広山が、もしも帰ってこなかったら。

 

「広山さん。あの、ぼく」

 

 サーシャはどうするか。

 

「帰るのが久しぶりだから、さわりたい。広山さん」

 

 サーシャはどの国とも地続きになっていないこの小さな国で、ひとりで生きていく術を持たない。広山の姿を心待ちにしながら、この小さな部屋でやせ細って朽ち果てるか、あるいは――。

 

「だめだ。熱があるだろう、まだ熱い」

「でも広山さん、ぎゅうって抱きしめているのはどうして?」
「それは、おれが我慢出来ないから」
「我慢? なにを?」
「サーシャにさわるのを」

 

 かかった布団ごと胸の中に閉じ込めたサーシャは、軍の指揮を取る広山からしてみたら、折れてしまいそうなほどひどく華奢だ。

 

 籠の中に入れられた――入るように仕向けられた小鳥が二度と野に帰れないように、広山にこうして庇護されたサーシャは二度とひとりでは生きていけないだろう。子どもを欲望のままにさらった自分は地獄に落ちるから、死んだら二度とサーシャには会えないだろうと思う。

 

「どうして?」

 

 窮屈そうに胸の中から顔を上げたサーシャが、溶けるチョコレートみたいに甘ったるく笑む。

 

「我慢、いらない」

 

 ――おれは底のない地獄に落ちるだろう。広山は胸中でひとり言を呟いた。

 

(それでもいい、今この瞬間があるのなら)

 

 先程まで無機質な資料をめくっていたのと同じ手が、戦場では血を顧みないその指先が、サーシャの顎をすくいあげて、あっという間に口づける。慣らすみたいにやさしく一度だけして、間髪入れずに、小さなくちびるを深く吸った。

 

 不器用なサーシャのくちびるが、広山のこれまでの教えに従い、一生懸命に応えてくる。息を合わせようとする舌や、息が苦しくなるにつれて強くしがみついてくる心もとない両腕が、甘いしびれをとなって広山の脳裏を駆け巡った。

 

「んう……ひろやま、さん?」
「なんだ、……震えている。寒いか」
「へいき」

 

 嘘つき。素肌を粟立つざらざらとした感覚をてのひらで感じる。重ねるようにして、サーシャの白い肌を愛おしんだ。どこもかしこもまるで新雪のように真白い肌が、広山のさわったところからすこしだけ赤く上気していく。

 

「ひろやま、さん」

 

 助けを求めるみたいに切羽詰まっては、世界には広山しかいないといわんばかりに縋りついてくるサーシャの瞳に、安心させるみたいに何度もキスを繰り返した。そのたびに、サーシャは赤く染めた頬を恥ずかしそうにしながら、健気に応える。

 

 ――連れてって。

 

 頭に雪が降り積もるのも構わずに、振り返った広山めがけて仁王立ちになってそう呼びながらも、断ったらここで泣いてやるといわんばかりに目を真っ赤にしたあの姿を見たときから、広山は長い戦のはてに死んでからあの子の元へいくのではなく、たとえこの先地獄に落ちたとしても、今この場であの子を自分のものにすることを決めた。

 

「ひろやまさん、すき」

 

 舌っ足らずになったあどけないその声が、広山の耳をくすぐる。答えのことばを返すと、サーシャは満足そうな笑みを浮かべた。

 

 しあわせということばにもしも形があるのなら、それはサーシャの姿そのものだと、一面灰色になった世界の真ん中で広山は思う。

 

 しがみついてくるサーシャのからだをぎゅうぎゅうと胸に閉じ込めてやりながら、目を瞑って、あたたかいそのからだを堪能する。

 

 聞いてほしい、サーシャ。今度は海へ出るんだ、おまえのいたあの故郷めがけて、海を渡って大きな大砲から火花を飛ばすんだ。だから、しばらく会えない。

 

 ――そんな話をするのは、すこしまどろんだその後でいい。

 

深窓の君。 (まだ、サーシャとの間にはすこしだけ時間は残っているのだから。)
Fin.

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