時雨と紅葉。

二十五話 時雨と紅葉

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 いつもの無表情が嘘のように乱れたあきの表情を見ながら、時雨はもう一年も前に出会ったころのこの子どもを思い出した。まるでこの世から置いてきぼりにされたような、浮世離れした人形さながらの容姿。とにかく、口にペットボトルを突っ込むのが下手くそだった。

 

(すごい、疲れた寝顔)

 

 あきの出したものと自分の出したものを片づけて、ぐちゃぐちゃにしたからだをきれいに整えても、気を失うようにして寝てしまったあきは一向に起きる気配がない。うっすらとクマが見えるのを考えると、おそらくろくな睡眠を取れていなかったのだろう。

 

 すべてを終えて横たわった時雨は、時折短くまどろみながら抱き寄せた腕のなかですぴすぴと幸せそうに眠るあきの寝顔を眺めていた。あどけない子どもの寝顔は、昨晩の扇状的な表情とまったく噛み合わず、先ほどまで本能のままに抱いていた本人としても妙に居心地の悪い気分になってしまう。

 

 こうしていると、あきはまだ幼い。

 どんな我儘だって聞き入れてくれるおとなのいる、年端もゆかない小さな子ども。

 

 自分が生活を変えたのはおとなだからだったというのに、真似をしようとするのがわかると、おまえは変わらなくて良いといいたいのと同じくらい、愛おしくなった。

 

「おまえはなんでそう、安心して寝れんのかね」

 

 どんな夢を見たら、こんなに穏やかな寝顔になるのだろう。きっと、あきはまだ知らない。この先自分に降りかかるこの先の暮らしの問題も、その複雑さもすべて。そして、今度こそ自分と時雨とが、ただ好きという想いだけで一緒にいることがいっそう難しくなるということも。

 

 こっちはもったいなくて寝られないというのに――時雨は毒づくが、昨日まであんなにもおかしな環境にいたのだから、疲労困憊なのは当然だ。それに、過ぎた快感はあきの体力を根こそぎ奪い取ったに違いない。

 

 起きたらあきは児童相談所や各所との話し合いへいく。ずる休みの許されない時雨は時間通り正社員としてあのレストランへ出勤する。

 

 カーテンから差し込む陽の光がまぶしくなると、その頃にははっきりと白くて陶磁器のように滑らかな肌と、精巧に作られた人形のような顔立ちが浮かび上がった。

 

 頬を撫でると、ふるふると震えたまつげがゆっくりと上がるようにして、あの不思議な色のヘーゼルがぼんやりと時雨を見る。時雨はたしかめるようになめらかな秋の頬へ触れた。

 

「おはよ」

 

 そういってやると、あきはコクリとうなずいて、時雨の方へ指先を伸ばした。しかし思い出したように慌ててその手を引っ込める。どうやら一晩眠ったら、自分が話せることをまた忘れていたようだった。呆れる時雨をよそに、あきがくちびるを開く。

 

 ずっと、心の隅で考えていた。

 

 ――しぐれ。

 

 この子どもは、どんな声で、やわらかい音で、自分の名前を呼ぶのだろう。

 

「おはよ、しぐれ」

 

 細く透きとおった声が響いて、同時に、そのくちびるがやさしく弧を描いた。朝日で見間違いかと思うほどに、あきの表情はやわらかく可憐で。

 

 時雨は一瞬呼吸を忘れて、小さなその子どもに見入った。

時雨と紅葉。 それは時雨がはじめて見る、あきの微笑みだったのだから無理もない。
Fin.

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