時雨と紅葉。

二十五話 時雨と紅葉

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 風呂場であきを小動物よろしく丸洗いしてきれいにしてやってから、すっかり温まったからだを抱き上げて部屋へ入ったときには、既に子どもは至極いつもどおりのボケボケした表情に戻っていた。時雨といると話さなくても気持ちや欲しいものが通じると分かっているからか、必要以上の声は出さないし、それどころか時折自分が声を出せることについて忘れかけていたりもする。

 

 これだからおまえはあほなんだ。時雨はそうやっていいたかったが、まずはリラックスしているので黙っておいた。

 

「しぐれ。水」

 

 だから、なんでそう必要最低限のことしか喋らないんだ。水をくださいくらい、いってみろというのだ。時雨は(声が出るほうがコミュニケーション欠陥だらけってバレてくな)と、この先学校で先生やら同級生やらにたしなめられる未来が見えたような気がした。

 

 風呂上がりのせいか、赤く頬を上気させたあきが指をさすので、水を飲ませてやる。たしかに、時間を掛けて念入りに洗いすぎていたからか、ややのぼせぎみのようであった。

 

 時雨がそうやって隅々まで丸洗いしたくなるのも無理はない。

 

 ワンピースになるのも構わずに着せた時雨のシャツの広い襟元からは、父親のつけたであろう痕があきの真っ白なからだに散っていた。せっかく治療してもらったというのに、どこがどうなったのか見定めるべく、病院で貼られたガーゼはすべて取り除いていたから、鬱血した痕が首筋や肩口どころか、脇腹や腿の裏といった際どいところまで点在している。何度もそうしたくなったのに我慢をしていた身としては、言いようのない苛立ちが繰り返しからだを支配したが、とりあえずは襲いかからずに無心で洗ってやった。

 

 本人は傷を見られたり、さわったりされるのをひどく嫌がったが、そこは細いからだを逃すことなく、上書きといわんばかりに無理やり洗った。

 

「水ばっかり飲んでるけど、腹減った? 何か食いたいもんある?」

 

 予想はしていたが、首を横に振られる。明日からまた肥えさせるとして、今日のところは諦めた。というより、時雨もまた何かを口にできるような気分ではなかった。

 

 ――明日から、か。

 

 今日のところは時雨があきを回収することはできた。だがそれは、裏で動いていた高村の手回しや、同級生である城田の口添えが功をなして、なんとかというところであった。明日からまた、父親という保護者がいなくなったという事実がはっきりと明るみに出たあきの身の振り方については、様々なところで話し合いが行われるだろう。思慮分別のつかない年齢の当人は置いてきぼりにして。

 

 また、一緒にいられない日々が続くことは、大人である時雨にとって容易に想像がつく。自分の腕の中で、「ことは済んだ」とばかり数ヶ月前と同じように安心しきっているこの子どもはわからないだろうが。

 

 引越し前よりも小さくしたソファへ下ろしてやると、あきが時雨を見上げる。数時間前まで実の父親に監禁されていたとは思えないほど、まるで汚れを知らないようなまっすぐな双眸は、数ヶ月前とすこしも変わらない。

 

 今回の実の父親だけじゃなく、同じ男からもかつては手ひどい傷を受けたというのに、あきの目の色はどうしてこうも、濁っていかないのか。明るい照明に反射して、ヘーゼルが煌々と揺らめく。

 

 あきと一緒に風呂へ入ったからか、同じく若干の喉の乾きを感じた時雨は、水を取りに台所へと踵を返す。と、弱い力で着替えたばかりのTシャツを握られるのを感じた。

 

 振り返ると、犯人のあきが、まっすぐに時雨を見上げる。

 

 ――ああ、こいつはまたしゃべるのを忘れている。

 

 さしずめ、どこへいくのかというところだろうか。死にかけた表情筋のなかにも、うっすらとした不安が感じ取れる。

 

(いつも通りに戻った気もしたけど)

 

 そばにいないと不安なのか。そう思って隣に腰掛けると、あきは安心したように掴んでいたシャツの裾を離した。

 

「水、もういらない?」

 

 コクリとうなずく。あ、そうとつぶやいて、あきの手からコップを奪うと、中身を飲み干した。あきはそれを見て、なぜかすこし照れたように下を向く。どうしてそんな反応をするのか、最初は意味がわからなかったけれど、うつむいたまま片手でくちびるをさわったのを見て合点がいく。

 

(なんで今さら間接キスで照れるんだ)

 

 時雨にはとうてい知り得ない思考回路が巡っているのだろう。時雨にしてみればズレっぷりは相変わらず半端なかったが、そこも含めて久しぶりのあきは妙にかわいく映る。そして、恥ずかしいという気持ちは伝染するみたいに、なぜか時雨もへんな気持ちになった。

 

 このソファが、ふたりで掛けてでぴったりになるのが、ひどく嬉しい。

 

 あきの髪の毛を撫でて、小さな頭をそのままぐいっと自分のほうへ傾けると、おとなしくそれはコテンと時雨へと寄りかかってきた。

 

 同じシャンプーやボディソープを使って丸洗いしたはずだというのに、どうしてかあきからは自分と違う、甘い香りがする。体臭と認めるには、自分の感覚が気持ち悪すぎるので、あまり考えないようにした。

 

 あたりはひどく静かだ。

 

 時計を見ると、いつの間にか時刻は十時を超えている。明日になれば朝早くから起きてあきを再び児相へと送り届けなければならない。本人には到底理解できない、煩雑な手続きと話し合いがあきを待っているだろうが、本人を置いて大人たちにより合意が定まるだろう。

 

「ねむいか」

 

 首がぶんぶんと横に振られる。

 

「そういえば、おまえあの児童相談員の男にずいぶん懐いてたけど、なんで?」

 

 頬を肩口に押しつけていたあきが、きょとんとした表情で時雨を見上げる。心の底からなにをいわれているかわからないときの表情だ。三山ってやつ、というと、ああ、とそのときにようやく思い出したようにうなずいた。

 

「えっと……、わからない、温かかった。まゆとリョウタみたい」

 

 初対面なのになんであそこまで警戒心がないのかとか、まさか気に入ったんじゃないだろうなとか、心の狭いことを口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。あとすこし懐いていたら苛立ちが収まらなかっただろうが、目の前のあきにとって、三山は今の今まで本気で忘れかけた存在になっていたことが緩和の要因となっていた。

 

 こんなガキ相手になんて心が狭いんだ……と、振り回されている自分に、何歳の恋愛をしているんだと自嘲気味になる。

 

「しぐれ」

「ん?」

「しぐれに会いたかった」

 

 何気ない子どもの言葉だというのに、それは時雨の心をじんわりと温めていく。

 

 さっきから何度もつぶやかれるあいたかったは、シンプルなことばなのに、あきは気づくと思い出したように、それだけがひたすら繰り返していた。

 

「そう、俺も。……おまえ会えなかったとき何してたの」

「ずっと、部屋にいた。でも、さみしかった。時雨がまた、ぼくが部屋の間に、ずっと向こうの遠くにいったらどうしようって、思った」

 

 あほか、おまえが受けたのは立派な虐待なんだ。そんなことばっかり考えていないで、自分の身を守る方法でも考えておけばよかっただろう。そうやって説教してやりたいのと同時に、自分を求めるこのあきに対する愛おしさで目がくらみそうになる。

 

 この子どもはどうしてこう、ひな鳥みたいに時雨のことばかり考えるのか。普通なら自分の身に起きた、ニュースでも絶句されるような事件にふさぎ込むのだろうというのに、あきの感情はシンプルだ。自分に会いたかった、会えないことが不安だったなんて。

 

「俺は、おまえがどこで何してんのか、気が気じゃなかった。仕事も手につかなかった、遠くになんてそんな状態で行けないだろう」

……良かった」

「良くないだろうが」

 

 また、距離がずっと近くになる。

 

 拙いことばで、ことば以上のものを真っ直ぐに伝えてくるのに我慢できなくなって、小さくて従順なからだを引き寄せた。それを望んでいたというように、秋口の涼しさにはちょうど良い、ポカポカした体温がからだの中にすっぽりと埋まる。柔らかく日本人離れした明るい髪の毛をすくように、静かに撫でた。

 

「部屋にいる間、おまえは何をされた?」

「お父さん、やさしいよ。時々怒って、噛んだ」

「それだけか」

……ん」

……正直にいえ」

「若菜って呼んだ。それでときどき、ここに、」

 

 あきが自分のくちびるをトントンと叩く。よほど思い出したくないのか、ぎゅうっと目を閉じて、小さなくちびるを噛んだ。それだけで、この子どもにとってどれだけおぞましい事態だったのか、どれほどショックだったのかがわかる。

 

 ――最悪の展開にはなってない、か。

 

 とはいえ、実の父親相手と考えれば、心に負ったであろう傷は想像に難くない。あきは傷を負っていないのではなく、傷を負った自分にひどく鈍感だ。生来の無表情が相まってか、本人がひどくふさぎ込んでいる様子がないのは、この先様々な話し合いが行われる中で、理解が生まれにくいどころか誤解が生じる可能性もあるだろう。穿った見方をする輩も現れるかもしれない。

 

(さっきも随分揉めてたみたいだったからな)

 

 折を見て真実をしっかり話すようにあきに伝えろ、という旨のメッセージが、先ほど高村から届いていた。警察署から出てくるのが予定より一時間も遅かったことを考えれば、知らない男を相手にしたこの子どもがどんな様子だったか、大体の想像はつく。

 

 それでも今は――

 

「辛かったな」

 

 甘やかしたいと、心の底から時雨は思う。

 

「ん」

 

 さみしかった、つらかった。

 

 ことばはないけれど、時雨の膝の上で、あきはたしかに頷いた。この感情を紐解けるのが自分しかいないのは、この先にとって歯がゆくもある反面、この子どもを深く理解しているのは自分だけだという、ひどく歪んだ感情もまた、同時に訪れる。

 

 時雨知っているあきは、こんなに過剰に不安がったりくっつきたがったりするタチではない。どちらかというとそばに置いたりちょっかいをかけたりするのは時雨の方であり、さわりたいと根負けするのもまた、時雨の方である。

 

 外見はすこし体重が落ちてからだに傷を負っただけで、きょとんとしているような印象は変わらないだろうが、ようやく一歩踏み出した父親の元で、数ヶ月監禁し暴力を受けていたことには変わりない。

 

 縋りついたままの手は、弱々しいのにしつこいくらいぎゅうぎゅうと握ってくる。

 

 時雨はそんなあきの様子を尻目に、ぼんやりと明日の現実を考えてしまう。この一日が終われば、しばらくまたバタバタするだろう。

 

(どっちにしろ施設送りか)

 

 めぼしそうな血縁関係をあたるだろうが、あきの場合はそこでの解決はほぼ見込めないのだろう。そうなれば次に暮らすことになる先は、家族の元ではない。しかしそれは、時雨の元でもないことを十分にわかっている。――こうして事態が明るみに出ている以上、無理やりに時雨の元においておけるものでもないのだ。

 

 目元のやさしげな、いかにも善人という面構えの男である三山に対するあきの表情を思い出すと、また胸がいやな感じにもやっとしたが、あまり考えないようにする。

 

 腕の中で安心したように頬を胸にくっつけてくる子どもを見下ろして、時雨は心のなかで静かに反芻した。

 

「あき」

 

 明日になれば、こいつは――。

 

「今、おまえを抱いて良いか」

 

 あきがおもむろに顔を上げて、時雨と目線を合わせる。その瞳が、何をいわれているのかまだ理解できていないのか、惑うように揺れている。時雨はあきの前髪をかきあげて、白くなめらかな額に口づける。再び胸の中に押し込まれたあきが「……しぐれ?」と小さな声でつぶやく。やはり、意味がわかっていないようだ。

 

「おまえの――いや、わからなくてもいい」

 

 時雨にまたがってくっついていたあきの腰に手を滑らせると、あきのからだがピクリと跳ねた。

 閉じ込められたクローゼットの隙間から漏れた、実の母親の喘ぎ声にはじまり、ルリの命令により複数の体躯に好き勝手にされ、あげく今度は父親から犯されかけた。あきにとって、セックスは暴力だ。

 

 傷つけるかもしれない。もしかしたら、恐怖で泣くかもしれない。

 

「おまえにさわりたい」

 

 それでも今つながっていたい――。

 

 それは、つかの間のひととき、あきを取り戻した時雨が、何度もどこからともなく浮かんでは消し去ってを繰り返していた想いだった。

 

「怖いか」

 

 顔を上げたあきの表情を確認する前に、小さなそれが動く。次の瞬間、ぴたりと不器用に時雨のそれにあきのくちびるがかすめるように重なった。さっきからくっついていたというのに、いっそうあきの甘いかおりが濃くなる。しっとりと湿って規則正しく閉じられたくちびるは、緊張のせいかすこし硬く感じた。伏せた長いまつげは小さく震えている。

 

 一瞬だったのか、数秒はそうしていたのか。

 

 時間をはかれないまま、ゆっくりとくちびるを離したあきが、時雨の首に両腕を巻きつけてくる。

 

「こわくない」

 

 柔らかい髪の毛が、首筋をくすぐる。

 

「時雨なら、こわくない」

 

 あきはきっと、セックスが愛し合うための行為ということを、まだ知らない。ひどく暴力的で、自分のからだが支配されるだけのものと思っているのだろう。それでも、それをしたいといった自分を従順にも受け入れるのは。

 

「時雨、すき」

 

 あきが自分の存在を、離したくないと思っているから。

 

 時雨はあまりにも純粋な目の前のこの子どもの想いに、愛おしさで目がくらみそうになる。

 

「俺もおまえが好きだよ」

 

 からだをつなげることの意味を、今日知れば良い。つながることの温かさも、安堵も、快感もすべて。

 

「だから、するんだ」

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