時雨と紅葉。

二十四話 “あき”と約束

73

 アパート前にタクシーが停車した頃には、既にあたりは暗くなっていて、すっかり夜であった。メーターに記された金額を見てげんなりしたような時雨が「もう絶対タクシー使わない」と、タクシー運転手の前であからさまに文句をいいながらお金を払う。運転手はやや威圧感が増した時雨と目を合わせないようにして、申し訳なさそうに代金を受け取った。しかし振り向きざまには、あきと時雨とを遠慮がちに、でもたしかに交互に視線を揺らした。あきはその様子に全く気づかず、一方時雨はさらに苛立ったように釣銭をひったくる。

 

「そっちだとドア開かないからこっちから出て」

 

 時雨にそう促されるままに外へ出ると、外気にさらされたからだがふるりと震えた。いよいよ秋の夜はひどく寒々しい。タクシーが発車するのを待たずに時雨は無言のまま歩き始めて、あきも慌ててその背中を追った。やっぱり、時雨はあきと手をつないでくれない。

 

 ずきずきと、心が痛む。

 

「……っ」

 

 やがてその背中が、だんだんと周囲の景色と溶け合うようにぼやけていく。あきは自分の視界がぼやぼやとおぼつかなくなっていくのがどうしてか、もう知っていた。けれどどうしようもなくて、静かに涙をこぼしながら部屋へと向かう時雨の後をついていく。

 

 不安が違和感に、違和感が確信へと変わっていく。

 

「はい到着。入って……あき?」

 

 鍵をひねってドアノブを回した時雨が、あきを振り返って、それから目をしばたかせる。

 

「おまえ……なんでまた泣いてんの?」

 

 そんなあっけらかんとした物言いに、いっそう激しくぽたぽたと、玄関前の地面にあきの涙が何粒も落ちていく。

 

「いや、待って。なに、どういうこと?」
「……っ」
「いやいや、流石にわかんないから。おまえ声戻ってるんなら、喋って」

 

 とりあえず入れといわんばかりに手招きされて、とめどなく流れてくる涙をぎゅうぎゅう両手で拭いながら、時雨のところへ歩いていく。時雨の手がそっと、でもなぜか伺うように遠慮がちに背中に回されて、そのまま玄関口へといざなわれる。

 

「もーなんなのおまえ……相変わらず意味がわからない。緊張が解けたってこと?」

 

 糸が切れたようにぐしゃぐしゃに表情を崩すあきの後ろで、時雨が鍵を回す音がした。続いて部屋の電気が灯る。ひんやりと乾いた空気が遮断され、それは部屋のなか独特の湿った空気と、時雨の生活のにおいへと変わった。

 

「ほら、とりあえず靴脱いで」
「……っ」
「で、おまえ喋ったんだよね? スピーカーにしたって俺は位置遠かったから、ちゃんと聞いてないけど……」

 

 不機嫌そうな時雨の声が、それでもすこしだけ伺うようにあきへと向けられる。あきは目をこすりながら頷いた。

 

「おい。明日、赤くなるからこすらないで。色々と疑われんの俺なんだから。……聞いてる?」

 

 手首を掴まれて、ぐいっと降ろされる。

 

「話せないなら、書いて。ほら」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れた手に、時雨の手の甲がぐいっと押し付けられる。あきは震える指先を、時雨の手の甲に寄せた。

 

『しぐれが、ぼくをすきじゃなくなった』
「……は? なに、どういうこと? なんでそう思ったの?」

 

 ひゅう、と、また、緊張でへんに喉がなる。

 

「だ、て」

 

 さっきまで声が出る気配なんてなかったのに、伝えたいという思いで必死にくちびるを動かす。やっとのことで絞り出したか細いその声は、涙で震えたせいでとても小さくあたりに響いた。

 

「しぐれ、もうぼくをさわらない……っきらいに」

 

 なった――といおうとしたけれど、次の瞬間、胸が潰れて息が苦しくなるほどに抱きしめられて、かき消される。気づいたときには、ぎゅうっと時雨の胸の中に閉じ込められて、一瞬で安堵と緊張とが爆発したように溢れていく。

 

「……っ」
「会いたかったに決まってるだろ。なにをどう考えたらそうなるんだ」
「しぐ……っ」

 

 あったかい。

 ポロポロと落ちた涙が、ぶつかった時雨のシャツに吸いついていく。

 

「すぐにこうしてやれなかったのは、大人の事情だよ。こうでもしなきゃ、おまえを連れてこれなかった」
「じじょうって、な、なに」

「無関係の人間が父親にDVされてた子どもとベタベタしてたらおかしいだろうが。おまえを連れ出すの難しいわけ。俺ともまえの好きはそういうこと疑われかねないの……普通ならわかるんだけど、どうしておまえはそう世間からずれてんのかね。タクシーの運転手すら色々と疑ってただろうが」

「きらいに……ならない? ずっと一緒にいなくて、変わって、ない……?」

 

 返事の代わりに、時雨はいっそうあきを抱える手に力を込める。

 

(へん、なの。お父さんには何回もこうしてぎゅうってされたのに、時雨のそれは、全然違う)

 

 シャツから、嗅ぎなれたなつかしい時雨のにおいがする。ホストを辞めてから、時雨は香水をつけなくなった(あきは香水について、詳しくは知らない)けれど、不思議とやっぱりすきなにおいがずっとするのである。

 

 どうして時雨のそばは、他の人と違うのだろう。あきはその感情にまだ明確な名前をつけることができず、数ヶ月前の夏の日と同じことを考えては心のなかで首をかしげる。

 

「……そもそも俺は、おまえが泣いたり怒ったりするところは、そこじゃないと思うんだけどね。なんでおまえは俺のことばっかりそうやって考えるんだろうね」

 

 時雨のつぶやきのような独り言。

 

 顔をあげようとしたけれど、後頭部を押さえつけられて、グリグリと時雨の広い胸に額をくっつけられて顔は見られずじまいだった。背中に回した手に力を込めると、肩の傷がぶつかって、ぴくりとからだが跳ねた。

 

「あー……怪我は、ちゃんと直してもらった?」

 

 こくりとうなずく。

 少しだけからだを離した時雨が、あきの襟元に指を引っ掛けて、ぐいっと引っ張りながら肩口を覗き込む。手当された傷口を眺めているというのに、眉間にしわが寄っていく。あきは(傷ちゃんと診てもらったのに怒るの?)という疑問が湧いたけれど、この数ヶ月でまたからだが細く痩せたせいで、襟元を引っ張れば薄いからだのすべてが見えた。からだじゅうに散った父親の痕に気づいたことへ、あきは合点がいっていなかった。

 

 それどころか、あきは自分のからだすら、最近ではよく見えていない。

 

 きょとんとして時雨を見上げていると、不意に時雨があきのからだを抱き上げた。慌てて落ちないように目の前のからだにぎゅうっと手を巻きつける。

 

「……細いな。体重、また減ったろ」

 

 体重、はかってない。

 

「とりあえずおまえ、風呂入るぞ。顔もベチョベチョだし」

 

 だって、時雨がぼくにさわらないから。

 

 そう伝えたかったけれど、しゃべるテンポの遅いあきは、何かをいう前にあれよあれよという間に、引きずるようにして風呂場へ連れて行かれてしまう。

 

「あき、こっち来て。……それ脱いで」

 

 久しぶりに呼ばれるその名前に、胸がぎゅうっとなる。警察署で日付を確認したのを思い出してみると、そうして名前を呼ばれるのは二ヶ月ぶりになっていたのだった。

 

 あきのほんとうの名前は、秋に赤や黄色に染まる紅葉。

 

 ――なー……、あれ? てかおまえそういや名前なんだったっけ。

 

 太陽みたいにキラキラしたリョウタに名前を聞いたとき、カレンダーにちょうどプリントされていた真っ赤な紅葉を指差して、それから十、十一月と滑らせた。

 

 出された答えはほんとうの名前ではなかったけれど、あきと、時雨がつぶやいて、新しいその名前はあきのものになった。どうしてか時雨がそう呼ぶのは耳に心地よくて、特別な名前になった。
 
 
 ――あき。
 
 
 時雨の声は低くてぶっきらぼうで温度を感じないけれど、「あき」と呼ぶその声はすき。

 

「……おまえ、あの男に何されたか、後でちゃんと聞くからな」

 

 おまえって呼ぶのは怒ったり呆れたりしているときもあるけれど、そういいながらも時雨はあきにやさしいから、それも、すきだ。

 

「おまえ……ここ、特にベタベタ貼られてんな。痛いか?」

 

 時雨の視線が、何か痛々しいものでも見るように、あきの肩口をたどる。どこか痛々しそうなその視線など気づかず、あきは何度心の中で反芻したかわからないその名前を呼んだ。
 
 
「しぐれ」
 
 
 時雨がそばにいる。
 あきは、目の前にいる時雨をじっと見つめた。

 

 何度も思い浮かべて、何度も名前を呼ばれることを思い出したその存在が、手の届くところにある。あきは頬をぎゅっと引っ張って、これが夢でないことを感じながら、一連の流れを見下ろしながら、「なにしてんだ」と呆れた表情をしていた時雨を見上げた。

 

「あいたかった」

« |

スポンサードリンク