時雨と紅葉。

二十四話 “あき”と約束

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「なるほど、わかりました。ではもう一度だけ聞かせてもらっても良いかな」

 

 無機質なテーブルに、何枚も束ねられたA4の資料を整えるようなトントンという音が聞こえた。その音はさっきから何度も仰々しく響いたから、あきは数回それを聞いたときは(そんなに整える必要あるのかな……)と思うだけだったが、やがて(くせなのかな……)と考え始めていたところだった。男のそれが、やり場のない苛々が重なった上でのくせなのかとわかるほどあきの想像力は豊かではなかったし、その他の口ぶりや態度からその苛々を推測するほどの気遣い的な能力も持ち合わせていない。とどのつまり、やはりあきはひどく鈍感なのである。

 

「君とお父さんのことなんだけどね――」

 

 すこしだけことばの変わった、同じような質問を繰り返される。あきはぼんやりとした様子で、なにをいうわけでもなく押し黙ったままだった。

 

 強面でガタイの良いその男性は、あきがだんまりを決め込むのを尻目に、またトントンと資料を揃えた。さきほどよりも大きな音がした。

 

 あきは無表情で唇を引き結んだまま、まるで心ここにあらずという様子である。お父さんの家で着ていたパジャマのままだっただらしないあきの格好は、こんなきちんと整った会議室にはひどく不釣り合いである。長らく外に出ていなかったからか、硬い椅子にひどくからだが疲れているのも感じていた。
 
 
 あれほど何十日も開かなかった外への戸が開いた瞬間――関係者の目に息子を組み敷いている男という絵図が映っただけで、すべての決着があっけなく着いた。あきはでやさしげで人の良さそうな知らないスーツの男の人と、いつもよりひどく動揺した素振りを見せた担任にすぐに救い出され、暴力的な声で自分の名前を呼びながら怒鳴り散らす父親から引き離された。病院で出血していたところだけでない、様々なところの様子を伺われたのち、その足で警察へと向かわされた。嵐のような数時間だった。

 

「谷口紅葉くんですね?」

 

 それから、あきにとっては長い質問(というよりも途中から尋問じみていたが……)の時間が訪れた。児童相談員の柔和そうな男のひとが途中から隣にいる中、あらゆるお父さんのことや自分のことが質問されていくのを、あきはまるで他人事のようにぼんやりと聞く。付き添っていた先生が電話のためか、慌ただしく出たり入ったりするのを眺めながら、ただそれが終わるのを待った。

 

 あきにすれば自分はいつもと同じ通常運転でしかなかったが、周りの大人たちにとっては話し合いの時間を長引かせる態度でしかない――ということに、無論あきは気づかないのだが。

 

 その時間がようやく終わり(というよりは一旦切り上げられる)、あきは先生たちに促されるようにして、その部屋を出た。声が回復したとはいえ、まだいきなり多くの言葉を話すのは難しいだろうという配慮から渡されたスケッチブックは、結局言葉少なに使われて終わってしまった。

 

「谷口くん、いきなりのこと続きで疲れたね」

 

 三山と名乗る児童相談員の男が、人の良さそうな表情で気遣うように微笑む。あきは救出されてから警察の男と先生と三山と、知らない大人たちに囲まれて困惑さえしていたのだが、最初からこの三山という男に話しかけられるのだけには、どこかほっとしていた。スーツが不釣り合いに浮いて見えるほどにやわらかすぎる雰囲気や、真っ直ぐにあきの目を見てくれる身のこなしが、なんだか安心できるのである。部屋を出てからも、あきはスケッチブックを両手に持ちながら、何度か顔を合わせているはずの担任の先生ではなく、初対面のはずであった三山の斜め後ろをひょこひょことついて歩いていた。

 

 三山はあきのそんな様子に気づいてか、さっきから目が合うたびに、何度も安心させるように笑んでみせている。

 

「それで、三山さん。今晩の泊まる先なのですが」

「そうでしたね。連絡はつきましたか?」
「それが……高村事務所というところから連絡が来まして」

 

 ふたりがあきのことを話しているのは間違いないというのに、当の本人はそんな話など耳に入っていない様子で、三山の半歩後ろを歩く。実際、そもそも何日も外へ出ていなかったからだにとって、普通に歩いたり目の前の景色が頻繁に変わったりすることそれ自体が、ひどい疲労を伴っており、既に足取りは重かった。

 

 外へ出ると、既にエントランスの前にはタクシーが止まっている。

 

「谷口くん、ちょっといいかな?今日のことなんだけどね」

 

 エントランスを涼しい風が通り抜けて、まぎれもなく秋が来ていることを知らせた。暑い夏の日を最後にしていたからだが、寒さを訴えるように小さく震える。パジャマが薄すぎるせいだ。知らないうちに季節がひとつ巡った。寒い、と思いながら三山の方を見上げて、あきの視線はそのまますっと、その肩越しの景色へと流れた。

 

 さっきまで立っていることさえ気だるかったからだが嘘のように、足が動く。

 

 近くであきを見下ろしていた三山の目が、驚いたように見開かれた。しかしそのときにはもう、さっきまでわずかながらも心を通わせていたあきの視線はあっという間に外れている。

 

 エントランス脇で待ちくたびれたように壁にもたれていた時雨に向かって走ったあきは、そのままそのからだに体当たりするようにぎゅうっと抱きつく。監禁生活のせいかさらに痩せたあきの細いからだを、時雨のそれはなんなく受け止めて、抱きしめ返す代わりに、ぽんと一度だけ安心させるように頭が撫でられた。

 

「……っ」

 

 時雨と口に出そうとしたけれど、うまくことばに出来ず、それはひゅうっと空気が喉を通ったような吐息となった。いいたいことがあるというのに、どう伝えたら良いかわからなくて声が出てこない。はくはくと唇を開いたけれど、時雨は「はいはい、後でね」といなした。

 

 時雨の体温に触れた瞬間、肌寒く感じていたからだが一気にぽかぽかになる。安心して、張り詰めていた緊張がほどけるように、全身から力が抜ける。

 

(どうして、時雨はこんなに、ちがうんだろう)

 

 会いたかった。
 どうしようもなく。

 

「とりあえず、おまえ、今日はもう終わった?」

 

 こくんと頷いた。

 

「本当かよ……」と呆れた声が降ってくる。もう一度、(たぶん)と心のなかで唱えながらも、頷いた。

 

 戸惑ったような三山と先生の声が、耳の奥で聞こえる。あきの頭上で、何かを話しているようだったが、あきは時雨の胸に深く顔をうずめたまま。大きな病院に、知らない警官からの質問――既に理解が追いついていなかった。

 

「先生、話は高村さんから聞いたでしょう? とりあえず今日んところはこいつ回収しますから」
「ちょっと待ってください。あなたは谷口くんとどんな関係で……?」

「あー、児相の人? 保護者だよ、前に預かったこともあるって――……詳しくは先生から聞いてください、さっき高村事務所ってところから、電話いってるはずだから。で、俺のことは、こいつの友達が知ってるから、今頃先生に連絡いってるはずだよ。こいつたぶん疲れてるんで帰りますね」
「いや……でも」

 

 困惑したような三山の声。

 

 しかし、既に話はついていたのか、先生の落ち着いた声に静止されてすぐに話はついた。あきの知らない間に、大人たちは何かで話をつけていたらしい。しかしそれ以上に、先ほどまで緩慢な動きとぼうっとした様子だったのがうそのように、時雨にくっつき虫状態となったまま離れないあきの態度もまた、ふたりを納得させたようであった。

 

「ほら、とりあえずうち帰るぞ」

 

 しぐれのいえ?

 

「そう。おまえ今日寝るところないわけよ、おっさん逮捕されたから」

 

 あけすけな言い様に、背後で三山と先生がもの言いたげにひどく動揺していたが、あきは気づく素振りもないまま(そうかあ)と頷いた。

 

「だから、俺んとこ。高村さんがそうすんのがいいって。だから、先生と三山さんとはここでお別れね」

 

 ていうか、おまえ喋れるんじゃないの? そういわれたけれど、あきはただ時雨を見上げて(わからない)といわんばかりに首をぐいっと傾げるだけだった。

 

 高村って、あのスーツのひと? 時雨、高村と仲良しだったの?

 

 聞こうとしたけれど、スケッチブックを使おうか、手のひらに書こうかと、久しぶりで考えあぐねていたせいで、タイミングを逸した。

 

 寒いだろうといわんばかりに時雨が着ていた上着を着せられて、タクシーに乗り込む。心配そうな三山と先生に、ほんのすこし頭を下げて、あきは再び(はなれないぞ)といわんばかりに時雨にくっついた。時雨は最後まで保護者らしく愛想を振りまくことはなかったが、あきを取り囲む大人にとって、時雨こそ今あきのそばにいる最善であることを、そのあきの態度が何よりも物語っていたことは間違いなかった。

 

 とはいえ――男に囲われていた子どもを、同じく男であり赤の他人である時雨があきを簡単に連れ出せた理由には、高村のバックアップが複雑に絡んでいたことや、その裏に城田の動きがあったことさえ、渦中にいた当の本人だけが知らずじまいであった。

 

「ていうか、おまえ出てくるの遅すぎ」

 

 どんどん距離が離れて小さくなっていく、疲れたような表情の先生と、嵐のような男の到来に唖然としたままの三山を最後まで見届けるあきをよそに、タクシーってたけえなあ。とぼやく、時雨の厭味ったらしい文句が始まる。

 

「高村から言われた時間より、一時間半も掛かってた。とんだ待ちぼうけだったよ。どうせおまえ、なんも喋んなかったんだろう」

 

 それは裏を返せば、つまり、時雨はあのベンチ一つないエントランス前で、あきが出てくるのをずっと待っていたということ。

 

 あきは時雨の肩口に頬をくっつける。しかし時雨はやっぱり、あきにさわらなかった。

 

(さっきから時雨は、ぼくにさわらない)

 

 エントランスで会ったときも、頭を撫でてくれただけだった。
 すこしの不安が募る。盗み見るようにそっと時雨を見上げるけれど、いつもの無愛想な横顔が映るだけで特に変わった様子もない。

 

(いつもなら、ぎゅうってするのは、時雨のほうだ)

 

 タクシーから外を見れば、並木道に植えられた木々が色づいて、すっかり秋の景色に変わっている。監禁されている間、あきの生活空間はもちろんお父さんとの家だけだったから、単調で不気味な世界だったけれど、時雨にとってあきと離れていた時間は普通の日々だった。時間の流れも、過ごした密度も、違う。

 

(もう、ぼくを“すき”じゃないのかな)

 

 ぎゅうっと時雨の手のひらを握りしめる。前は同じかそれ以上の強さで返してくれた手は、やはりぴくりとも動かない。――薄々感じていたそれが、はっきりと違和感に変わる。

 

「ん、なんかあった?」

 

 どうしてさわってくれないの?

 そんなことなんていえずに、あきは握っていた手が虚しくなって、解いた指先で時雨の手の甲をさわった。『なんでもない』と。そうして、ぎゅうっと目を瞑る。

 

 ずっと、時雨を見ていた。

 

 時雨は仕事を変えて、住むところも生活スタイルも変えて、どうしてかどんどん変わっていっって。あきはそんな時雨を見て、自分も一緒におとなに、同じになりたいと思った。

 

(ぼくは変わっていないのに、時雨だけが変わってく)

 

 抱きしめてくれないのが、不安で不安で――どうしようもなかった。

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