時雨と紅葉。

二十四話 “あき”と約束

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 陽気なテレビ番組だけが、広い部屋にちょうどよいBGMみたいに流れて、何分経ったのか、何時間か経っていたのか。不意にあきが立ち上がると、ときおり目を閉じながら短くまどろんでいたお父さんが、首を傾げる。あきは慣れた手つきでトイレの方向をさした。

 

「いっておいで」

 

 リビングを出てすぐ左の扉が、一階のトイレである。平日のあきはほとんど二階のトイレしか使わないので、一瞬(ここだっけ?)と迷いつつも、扉を開ける。

 

 ちょうど同じタイミングで電話がなる。お父さんは慣れた手つきでテーブルに放ってあった携帯を手にした。

 

「――ああ、どうした。月末までのものかい? ……何か問題があったのなら、月曜に対応するよ」

 

 時折掛かってくる電話の主と、お父さんは背中に聞こえているようにひどく和やかに会話を続ける。あきにとって確証はなかったけれど、お父さんに電話するのはひとりではなかった。話の内容は少しもわからなかったけれど、温和な話しぶりや相手の話に対する表情から、お父さんが会社にとってどんな存在なのかは手にとるように分かる。

 

 やさしくて、頼りになって、きっと頭はあきのようにぽやっとしているのではなく、ピリッと切れるのだろう。つくづく、瞳の色以外は全く血がつながっていると思えなかった。

 

「そうかい。わかった、報告をどうもありがとう。……ああ、その件だが」

 

 リビングを出ても、――というよりももしかしたら、リビングを出てからも、お父さんの視線を背中に感じる。

 

(お父さんは、ぼくを見ている)

 

 電話の向こうにいる相手よりも注意深く、きっとぼくの背中を。

 まるでテレビに出てくる理想の家族みたいに、お父さんはすらっとスタイルが良く、やさしい。それなのに、時々蛇のようにとさえ感じるほど、自分から放されない視線が、それに気づいた刹那あきの頭を冴えさせる。

 

 あきはゆっくりとリビングを出て、扉を閉めた。
 
 
 
 お父さんはどうして変わってしまったのだろう。

 

 ほんとうに愛したひとと一緒になってぼくを産んだというのに、どうして別れなければならなくて、どうしてこんなにいびつなんだろう。

 

 ――若菜はね、ほんとうにきれいだった。

 

 お父さんは、視界の向こうにお母さんが佇んでいるように、お母さんを慈しむ。

 

 ――どうしていなくなろうとするの。若菜。どこにも行かないで。

 

 若菜。

 

 思い出したくないのに頭に浮かぶ、何度も自分に向かって吐き出されたことばを反芻するたびに、ガリッと歯を軋ませる音とからだのあちこちが痛んでいるような気持ちになる。
 
 
 時雨にあいたい。
 
 
 時雨はぼくを若菜と呼ばない。ぼくのことを呼んでくれる。あきは思う。

 

(あまりニコニコしないから、あんなに「すきー」って顔をしないのに。ぼくが不器用だからって、眉間にしわを寄せて不機嫌な顔ばっかりするのに)

 

 それでも時雨が自分にさわる手はひどくやさしいことを、あきはもう十分すぎるほどに知っている。

 

 ――なー……、あれ? てかおまえそういや名前なんだったっけ。
 ――……カレンダー? 待っておまえの名前カレンダー?
 ――秋、ね……おまえあきって名前? へえー……なんか、もっとアンドリューとか、ガイジンっぽいかと思ったわ。

 

 自分を見ない怜悧な時雨の横顔と、きらきらした真っ直ぐな目で見下ろすリョウタ。ふたりの前で指差したカレンダーの月と、あとどれくらいめくったら同じ月になるのだろう。
 
 
 
「ああ、……そうか。それは少々やっかいだね」

 

 そっとリビングのドアを開くと、ややくぐもったお父さんの声が聞こえた。どうやらまだ、電話が終わらないようである。引き結ばれた口元からすると、お父さんを取り巻く会社のことでやや良くないことが起きているのかもしれなかった。

 

(珍しい、長電話)

 

 ――そう考えて、不意に、お父さんの視線があきのいる入り口とは逆の窓際に向けられていることに気づく。

 

 ふわふわと揺れていたシャボン玉がはじけて、その向こうにあった景色が急にクリアになるみたいに、あきはこの状況を急速に理解する。頭がクリアになる。その瞬間に、穏やかで異質なこの空間から逃げたいという思いが、むくりと首をもたげた。考える暇もなかった、今のあきに足枷はない。

 

 ぼくに気づかない。

 

(お父さん、ぼくがまだ、トイレにいるって思ってる)

 

 足が部屋の隅にあるベッドの脚と繋げられているとき以外で、お父さんがあきを自分の視線から放すことはしなかった。一階のトイレは薄くぼやけて向こう側が見えるドアのすぐ近くだから、トイレから出ればすぐにあきのことがわかるのだろう――リビングに戻れば、必ずお父さんと目が合う。

 

 ――音を立てずに後ろ足を引いた。

 

 まるで心臓の音が部屋中にこだまするかのようにうるさい。

 お父さんはこちらを見なかった。

 

「今日のうちに、書類を見ておこう。私の社用アドレスに一式送ってくれ。あと――」

 

 踵を返す。

 

 刹那、すこし長い廊下を出口めがけて早足で歩き出す。

 

 走ってなどいないというのに、息切れがする。

 

 失敗したら――考える暇もなかった。

 

 でも、絶対に後ろを振り返ってはいけない。

 

(廊下、こんなに長かったっけ)

 

 腕を伸ばして、ドアに手を掛ける。

 

 ゆっくりと押した。しかしそれは開かない。

 

(かぎ、かぎを開けて)

 

 手がガタガタと震えた。

 

 そうしてあきは、自分がひどく長いこと――軟禁されるよりも前から、心のどこかで実の父親にひどく怯えていたことを知る。

 

 力の入らない指先で、上の鍵をひねる。

 

 もう片方に手を掛けた。

 

「どうかしたかい?」

 

 カチッと、大きく音を立てて下の鍵が回転する。

 

 同時に、手が止まる。

 

 おもむろに振り返ると、お父さんは通話終了を知らせる電子音さえも聞こえそうなほど静かな廊下の向こう――あきのすぐ後ろに佇んで、笑みを浮かべたまま首を傾げた。

 

 玄関口のあきを見下ろしたお父さんは、たしかにあきを「あき」としてやさしく見下ろしていた。しかし、息を飲んだあきと目が合った刹那、それは獰猛なまでの怒りに変わる。

 

 ガタンッ

 

 腕を引っ張られて玄関に引き倒される。肩口を硬いフローリングにぶつける鈍い音。

 

「また逃げようとしたのか!?」

 

 若菜――という耳をつんざくような怒号が、あきに向かって振り下ろされる。

 

 ほぼ同時に細い首を締め上げた手から逃れようとからだを反らせたが、小柄でろくな運動もしていないからだがうまく抜けられるわけがない。無理やり上から抑え込まれて、首を締めたままの両手を上下に振られる。

 

 後頭部がフローリングにぶつかり、きーんと吊るような音が頭に響いた。

 

「……っ」

 

 数秒前、自分から視線を外したこの男のもとから逃げようとしたとき、ほぼ無意識のうちにあきの中に芽生えた確かな想いが、脳内をじわじわと冒していく。

 

 

 もしもこの一度のチャンスを失敗したら、殺される。

 やっぱり、予感がしていた。殺される、と。

 

 

「一度は許したはずだ! どうして同じことをするんだ!」

 

 ぎりぎりと力が入り、からだが硬直する。

 生理的に溢れた涙が目尻から横に流れ、首を掴んでいた手が離れる。

 

 ひゅう、という音と、酸素を求めて息を吸い込む。

 

「愛してるんだ、ほんとうに若菜を愛している……それなのにどうして……」

 

 乱暴な手つきであきのからだを勢いよく抱き寄せた男の荒い息が、あきの耳に掛かる。

 

 ガリッという、あの音がする。

 

 痛い。

 だって、そこはついこの間同じように噛まれたところだった。

 

 まだヒリヒリとした痛みが続いていたというのに、その上から容赦なくあきの細い首筋に歯が立てられる。

 

「――……っ」

 

 声が出ない。

 肩口を男から逃そうとして、だめだと目をきつく閉じる。

 

 抵抗したら、拒絶したら、もっとひどくなることをすでに知っている。

 

「許さない。若菜、私から離れることは――」

 

 痛い。

 

「絶対に許さない! おまえは私のそばにいるんだ!」

 

 あきと瓜ふたつである男の双眸が、暗く深い沼のようにひどく濁る。

 

 さっきまでの温かな灯火が消え――ドロドロとした執着の塊だけがそこに宿っていた。

 

「若菜!」

 

 あつい。

 重い。

 痛い。

 

 あきは気が遠くなるのを感じながら、思う。

 

 助けて。

 ここから出して。

 

 いっそ叫ぶことができたら、だれかに届くかもしれないのに――声が出ない。

 あきはきつく目を閉じて、あちこちに広がっていくキリキリと焼けるような痛みに抗う。

 

 ――不意に、フローリングがわずかに振動する。さっきまで男の手にあったはずのスマホだった。

 

 男は気づかないのか、あきのからだを蹂躙し続ける。

 

 しかし、あきが身をよじりながら伸ばした左手に気づくやいなや、男は素早くそれを取り上げるようにして電話を切った。

 

「……っ」

 

 虚しく空振った左手が、指を絡めるようにして男の大きな手のひらに絡め取られる。

 

 ああ、だめだ。

 

 諦めた刹那――フローリングにぴたりとついた背中に再び振動が伝わる。

 

 ――画面には、あきの通う中学校の名前が記されていた。

 

「ああ、うるさいね。……今はお取り込み中だというのに」

 

 声だけが、いつもの温和なお父さんのそれに戻る。しかし、怒りの静まらない瞳が怜悧にあきを見下ろして、それから邪魔ができないように両腕をひとまとめにして片手で押さえつけるのと同時に、もう片手でスマホを耳に当てた。

 

「……はい、もしもし」

 

 元々の体躯に加えて、上から押さえつけられていることもあるからか、あきの手から自由を奪う男の腕はぴくりともしない。

 

 わずかに電話口から漏れる声を、あきは知っていた。

 

(先生)

 

 特徴のない淡々とした印象の、アルトでもソプラノでもないおとなしい声だ。

 

「ああ、息子のことですか」

 

 夏休みが終わってからまた登校しない日が増えていて。

 

 あきは学校へ通いはじめてしばらく、その先生が自分のクラスの担任だと知らなかった。それほどに、生徒の不登校やいじめに介在しない、影の薄い担任であったはずである。

 

 事務的な印象が強い女性だった印象に加えて、この状況に期待などすこしも沸き起こらない。むしろ、この後の男のストレスを助長させるだけである。

 

「ああ、その件に関しては以前お伝えした通りですよ。あまり行きたがらなくてですね」

 

 口元だけが、薄く笑う。

 

 そうすれば、男が穏やかに笑んでいると担任へ伝わるのだろう。

 

 喉元にちからが入らない、――声が出ない。

 

(ぼくは、やっぱりずっとこのまま……)

 

 だって、だれにも伝わらない。

 さっきまで必死に耐えようと力を入れていたからだが、すこしずつ空気が抜けたみたいに弛緩していく。

 

 ――何、どういうこと? 待ってるから、それに書きなよ。

 

 声があれば、伝えられることがたくさんある。

 

 スケッチブックに書きながら、何度もそう思った。

 

 城田という友達ができたおかげで、勉強すらもそんなに嫌でないということ。

 

 茉優の教えてくれる料理は、魔法みたいでどきどきすること。

 

 リョウタのことがだいすきだけど、いつも時雨と一緒にいるのが羨ましいこと。

 

 もっと伝えたいことがたくさんあった。

 

 

 声が、あれば、もっと上手に伝えられただろうか。

 

 

「ええ、はい。そうですね……なんですか? ……あき?」

 

 お父さんの口元が、一瞬笑みを繕っていたことを忘れたみたいに、怪しく横に結ばれる。

 まるで不可解とでも言いたげだった。

 

「……あきは元気にしていますか、ですか?」 
 

 
 ――あき。
 
 
 訝しげな表情になったお父さんと、ぴたりと目が合う。

 

 すこしだけ開きかけた戸の向こうから、けたたましい蝉の鳴き声が聞こえたあの夏の日。以前よりも古びてしまった狭い玄関口で、時雨が自分に掛けた最後のことばが蘇る。

 

 ――……これだけはいっとく。もう我慢したり、秘密を隠したりしないこと。困ったら、自分の意思をいうのね。わかった?

 したいこと、時雨にいうよ。約束。

 

「その、あきっていうのはうちの息子のことですか?」

 

 先生も城田もあきのことをそんな風に呼ぶはずがない。

 そうやって呼ぶのは、――時雨だけだ。
 
 

 時雨、そこにいるの?

 

 もうずっと一緒にいない。

 

 今すぐに会いたい。

 

 やっぱりぼくは、おとなになるまで待てないよ。

 

 今からずっと時雨といたい。

 

 一緒にいられないのはいやだ。

 

 ぼくはもう、ここにいたくないよ。

 

 助けて。

 

 助けにきて。
 
 
「たすけて、しぐれ」
 
 
 これは、自分の声だろうか。

 

 ほんの一瞬のことだった。あきはか細いその音が自分の耳に入った瞬間、そうあきは思った。それほどまでに、自分の声とはへんな生き物の声にでも感じられた。

 

 驚いたのは、目の前の男も同じだった。目を丸くして、あきを見下ろす。

 

 同時に、必然的なタイミングであったかのように、リビングの向こうでインターフォンが鳴る音がした。気づいた男はスマホを下ろし、今度はあきの口元をきつく覆う。

 

「……っ」

 

 もう一度インターフォンが鳴る。

 弛緩していたのがうそのように、あきは暴れた。

 

 もう、失敗して殺されようがどうでも良い。ここから出たかった。

 

「この……っ、暴れるな! おい、若菜、おとなしくしないと、どうなるかわかってんのか!」

 

 間隔を開けて何度かインターフォンが鳴り続ける間じゅう、あきは荒く息を吐きながら押さえつけられていたからだを芋虫のようにのけ反ったり曲げたりして、めちゃくちゃになって暴れる。

 

 それでも、何日も陽の光を浴びないからだはひどく弱く、男によってかんたんに抑え込まれた。

 

 やがてインターフォンが、一定間隔を開けても鳴らなくなる。

 

「若菜、無駄な抵抗はやめるんだ……ここは私ときみの家なんだよ?」

 

 ――行かないで。

 

 耳元で、ねっとりとした男の声が響く。あきは悔しさに目をきつくつむりながら、虚しくその体躯を押し返す。男のからだは、まるで無抵抗なガラクタでも抱えているかのように疲れた様子はなかった。

 

 しかし次の瞬間、リビングに備わったインターフォンよりももっと近く――玄関口を叩く音がした。トントンと遠慮がちに、でもたしかに二度ノックをされている。だれかいる。

 

 ドアの向こうで、あのアルトでもソプラノでもない、無機質な担任の声が聞こえた。

 

「ご在宅ですよね? ちょうど通りかかったものですから、お顔でも見られないかなと思いまして。大きな音がしたのですが、大丈夫でしたか」

 

 まるで最初から用意されていたかのようなせりふだった。

 

「また、谷口紅葉くんのことは以前から懸念点がありまして、申し訳ないですが念のため児相の方にも来ていただいてます。すこしでも息子さんとお会いできると有り難いのですが……」

 

 上の鍵は震えながら開けた。下の鍵はどうしただろうか。

 

「谷口さん、いらっしゃいますか? おかしいですね……あれ」

 

 そのあとすぐに――あきが思い出した。あの鍵は、最後の抵抗によって、たしかにカチッと大きく音を立てて下の鍵が回転していた。まぎれもない、あきの手によって。

 

「空いていますね。失礼しますよ」

 

 別の男の声がした。
 
 
 
 そのあとのことは、もう良く覚えていなかった。

 

 あきのからだを支配していた男が、いよいよ狂ったように暴れ出した。

 

 扉はあっという間に開いて、秋の生暖かい外の空気が流れ込む。

 

 やや驚いた印象の薄い担任の表情と、すぐ後ろには知らないスーツの男の人。

 

 激しい口論と男同士のもみ合いになり、あきのからだはあっという間に枷が外れたように自由になる。

 

 開け放たれた玄関からすこし離れたところに、まるで通りかかりの無関係者を装った時雨がいた。担任と、知らない男の人の方がずっとあきの近くにいたというのに、距離は離れているはずの時雨のほうが、あきの瞳には鮮明にうつった。

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