時雨と紅葉。

二十四話 “あき”と約束

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 もう何度日が上ったのかわからない。あきはすこしも眠くない目をこする。眠いのが、眠りすぎているせいなのか、全く眠れていないことによるものなのかはわからない。しかし、頭がずっと緊張状態なのはたしかだった。カーテン越しに漏れるやわらかい陽の光が、目にいたんだ。一日中外へ出ていないために、これまで以上に青白く不健康に浮かぶ肌が、けだるそうにベッドのシーツをさっきから泳いでいる。

 

 一日中ぼうっとしているような、それでも頭のずっと奥が冴えているような、不思議な気分だった。すこしも眠くなんてないというのに、起き上がる気にもなれない。

 

「降りてきなさい。今日は一緒に朝食を食べよう」

 

 部屋の向こうで軽いノック音が聞こえて(ノックが聞こえたってどうしようもないというのに、それはいつもとても律儀に鳴らされる)、お父さんが顔を出す。

 

「おはよう」

 

 頷いた。そうしながら(今日は、どようびだ)と、ほやほやしたようなはっきりとしたような頭で確認する。お父さんが仕事の日は、一緒に朝食を食べない。以前は一緒に食べてから学校へ行っていたのだけれど、あきが部屋に篭りきりになってからは、それもなくなった。

 

 薄いブルーのTシャツをかぶったラフな姿で部屋に入ると、「今日は、いい天気だね。外に出たくはないかい?」といつもの調子で流れるように声を掛けながら、あきの右足に括られていた鎖に小さな鍵を通した。銀色の重いそれは、いともかんたんにパキンと外れる。だらんとベッドに投げ出したままの足を動かすと、前の土曜日ぶりに軽くなった。

 

「すこし、擦れているね。ここが赤くなってる」

 

 視線を落としたお父さんの手を、まるでなだめるようにあきの小さな手が繋いだ。お父さんは気分をよくしたようで、笑ってその手をやさしく握り返す。

 

「引っ張ったらだめだよ」

 

 頷いた。何度も引っ張っていることを隠すようにして。

 

 一緒に立ち上がると、からだがへんにだるく感じた。あまりにも運動をしていないせいで、筋力が落ちているのだが、あきはそうとは気づかずに、心のうちで首を傾げる。ベッドを振り返ると、自分の部屋の向こうにある一番近いトイレまでは行けるよう、ゆとりを持って伸ばされた鎖が、凡庸なまでに何不自由ない部屋のなかで、それだけ合成されたように不自然だった。 
 
 
 もう何回休日が来たのか、指折り数えることはなくなってしまったけれど、外の光が柔らかくなりはじめたのを感じていた。夏はいよいよ跡形もなく終わり、秋の季節になっているのかもしれないと、あきは思う。黄色や橙色に染まる葉っぱや金木犀と銀杏の匂い、道路に落ちるどんぐりをぼんやりと想像していた。

 

 ――ねえ、若菜。もうどこにもいかないといって。

 

 あの日から、あきの自由な生活空間はおおよそこの部屋だけとなった。――正確には、右の足首に施された鎖が完全に引き伸ばされるまでの範囲である。休日になれば休暇であるお父さんが家にいる間だけは鎖を外してくれるけれど、もとの生活空間にプラスしてリビングが追加されるだけだった。それはあきにとって、特別嬉しいことでもない。
 
 
 
 ダイニングルームからは、既にスープの良い香りがしている。お父さんが早起きしてつくったのだろうそれは、まるでおしゃれなカフェのそれみたいにきれいに並べられている。食欲をくすぐるようなそれを、食欲があるわけでもないのにじっと眺めているあきを見て、お父さんは「おなかがすいたのかい?」と笑って髪を撫でた。さっきまでベッドに頭をこすりつけていたせいで、ひどくボサボサしている。あきはまったく別のことを考えていたのだが、黙ったまま頷いた。

 

 ごはんを見て思い出すのは、いつも時雨とのアパート暮らし。時雨とのご飯は、ソファやベッドの上になったり、キッチンでそのままになったりした。テーブルで食事をしたときは、揃っていない食器がふたつ、ぽいぽいと無造作に置かれていた。こんなときにでも、あきは鮮明に時雨との生活を思い出す。時雨のもとへ帰りたくなる気持ちを押し込めて、あきは繋いでいたお父さんと手を離して、近くの椅子に座った。

 

 温かいスープとパンを前に手を合わせる。お父さんも同じようにして、いただきますといった。

 

「もう秋になるけれど、部屋は寒くないかい?」

 

 お父さんとの会話では、てのひらコミュニケーションもスケッチブックも使わない。頷くか首を横に振るかの回答権が与えられる以外には、お父さんの仕事での話や何気ない日常のことに耳を傾けるだけの、静かな時間だった。――穏やかに会話をしているときは、ではあるのだけど。

 

 大丈夫、というように頷いた。

 壁掛けのカレンダーは、まだ7月のままだからわからないけれど、9月は終わっているのかもしれない。

 

「この時期は体調を崩しやすいからね。寒くなったと思ったら、また暑さが戻るとかね」

 

 じゃがいものとろみがついたスープが、口の中に温かく広がる。あまり舌に深く味が染み込んでいかないのを感じながらも、丸い木のスプーンを何度かくちに運んだ。すぐにおなかの限界が来て、お皿を置いた。

 

 ろくに歩いてもいないのに、三食しっかりと喉に通っていくはずもない。あっという間に胃が満たされてしまう。

 スプーンを置くことが「ごちそうさま」の合図であることを、お父さんは知っている。器に盛られた料理の半分も完食できないのはいつものことだった。お父さんはすこし心配そうにしたが、無理はさせたくないといって食器を一緒に下げてくれる。

 

 最初の頃は、あきがスプーンを置くと、お父さんはまだ食事を続けていたというのに、あきに合わせて一緒にスプーンを置いて食事を片づけた。手つかずの料理もあった。お父さんはきっと、おなかいっぱいではない。あきはそれに気づいて以来、ひどくゆっくりと咀嚼するようになった。そうして、お父さんのタイミングを待つようにしている。

 

 お父さんはやさしかった、お父さんでいる間には。お父さんにはスイッチがあるのだ、あきをあきとしてみてくれているのと、自分と若菜を重ねてしまうようになる、スイッチ。

 

 あきはそれに気づくまでに少々時間を要した。世の中を知らない小さな理解の範疇を超えた、ずっと難しい世界だったから。

 

「食器を洗うけれど、手伝ってくれるかい?」

 

 頷いて見せると、ありがとうと笑ってお父さんはスポンジに洗剤を乗せてお皿を取る。かしゃかちゃと音がするのはすきだ。お父さんがお皿にたっぷりとつけた泡を、あきは受け取ってお湯で流す。ふたり分の食器はすぐに洗い終わるけれど、あきとお父さんはなるべく丁寧に時間を掛けてそれをする。休日の時間はたっぷりとあるのだから。

 

 何日もの間お父さんと顔を合わせていると、スイッチの場所がわかるようになった。

 

 今でも時々間違えてそのスイッチを入れてしまうことはあるけれど、鎖で繋がれ始めた最初の頃と比べると、その数はずいぶんと減っていった。最近は、穏やかにすぎる日々も増えている。

 

 最初にスイッチを入れてしまったのは、時雨の話だった。お父さんの感情はだんだんとエスカレートして、スイッチが入りやすくなったからか、――城田や高村の話もスイッチの元になっていった。そういうときのお父さんは手がつけられないほどに乱暴な感情に振り回されていて、落ち着くまではかなりの時間が掛かった。

 

(どうして、お父さんにはスイッチがあるのだろう)

 

 あきは鈍くなっていく頭のなかで、時折そんなことを考えているが、答えは出ない。

 

「午前中は何がしたい? テレビを見ようか」

 

 食器を拭いていたあきの頬を、お父さんの手の甲がすべった。それはオフのお父さんにとって単なる家族のたわむれだったけれど、心臓が一瞬だけぞわっと粟立つ。跳ねていたらしい洗剤の泡を拭ったようで、お父さんはあきの様子に気づくことなく「ぼんやりしているね」と楽しそうに笑う。あきは首を傾げた、ぼんやりしているかな、といわんばかりに。お父さんはそれがわかったのかそうでないのか――定かではなかった。

 

 お父さんがテレビをつけると、静謐な部屋に明るい笑い声が響く。テレビの前に置かれた広いソファに腰掛けると、お父さんも一緒に腰を下ろした。お父さん側のそれは深く沈んで、よろけたあきのからだは見事にキャッチされる。

 

(ソファ、広いのに)

「紅葉の季節だね」

 

 テレビの中では、数名のタレントが東京の町並みの中で楽しそうに話をしながら、景色を楽しんでいるようだ。テレビの中に映される赤や黄色、橙のそれ。無意識のうちに自分の着ている服を見下ろすと、まだ半袖だった。青白く細い腕と足が、服の裾からむきだしになって伸びている。

 

 テレビの中で談笑するタレントたちは、夏に外へ出ていたときのような涼しげな格好ではなかった。もう外は、蝉の声が聞こえたりアスファルトに焼き焦がされたりするような暑さではないみたい。

 

 シャツの裾へ手を伸ばすと、指の間に感じる布地はひどく薄い。

 

 ふと、からだに影がさしたような気がして斜め上を向くと、こちらを見下ろしていたお父さんと目が合った。深いお父さんのヘーゼル・アイが無言であきを見下ろす。その奥に疑うような感情を感じて――裾をいじっていた手もそのままに、からだが固まる。

 

「外に出たいかい?」

 

 あきの想いなどお見通しといわんばかりの、試すような視線と口調。お父さんの瞳の奥は、さっきよりもわずかに冷えていて。あきは固唾を呑んで、目をそらしたい気持ちをぐっとこらえた。それから、まっすぐにお父さんを見上げて、ゆっくりと首を横に振る。

 

「ほんとうに? 外はそろそろ過ごしやすい季節になっているから、散歩したら気持ちよいかもしれないよ」

 

 もう一度、首を横に振った。お父さんが自分を試したことを知っているから。

 何度か同じようなことを繰り返し聞くうちに、お父さんの瞳にいつもの柔和な眼差しがゆっくりと戻っていく。あきは辛抱強く、何度も首を横に振り続けた。

 

「そうかい。じゃあ、今日も家にいようか」

 

 やさしい腕にお父さんとは反対側の肩を引き寄せられて、お父さんの大きな手があきの頭を何度も撫でる。いい子だね、というように。あきはぬいぐるみになったように身を委ねて、こくりと頷いた。

 

 ――ほら、起きるぞ。金魚水槽にやって――送ってくよ。

 

 時雨と一緒に家に帰った金魚は、まだあのすこし小さくて錆びた家で暮らしているのだろうか。時雨と、一緒に。

 時雨が自分のことを忘れてしまったらどうしよう。そう思うたびに、いたみに鈍くなっていたあきのこころが、何かを思い出したようにぎゅうっとなる。

 

(あいたい)

 

 こうしてやさしく抱きしめられるたびに、たまに閉じ込めるみたいに両腕で押しつぶしてくる時雨のことが頭の中に浮かんでくる。いたくて苦しくて、それに恥ずかしくて、された直後はやめてよって思うのに、今はこんなにも懐かしい。

 

「若菜に出会ったのもこんな季節だったんだよ。紅葉の綺麗な季節だ」

 

 スイッチの入っていないお父さんにとって、あきはあきであり、若菜はあきの母親である。

 どうしてそんな話をはじめたのだろう――不思議に思いながらテレビへと視線を合わせながらもひとりごとのように呟くお父さんを見上げて、それから「聞くよ」というように、こてんとからだを預けた。

 

「日本でのビジネスはどうもうまくいかなくてね。……仕事をしても、私の国とはやり方が違うんだ。部下も同僚も上司も日本人だったし、当時はまだ若かったしで、とにかくストレスだった。自分で希望して日本へ来たというのにね」

 

 お父さんから聞くお父さんのお話は、不思議だ。

 

(うまくいかないことなんて、あるのかな?)

 

 こんなに柔和でやさしいのに。それに、きっとあきよりもずっと日本語が流暢で、料理だが出来るほど器用だというのに。会社の人と電話するお父さんの口調がやさしいことからも、時折雑談や冗談を交えたその話っぷりからも、お互いに信頼関係を育んでいることにあきは気づいている。同じ色をした双眸と目が合うと、お父さんはあきが何を考えているのかわからないのか、ただ「うん?」と首をかしげた。しばらくして、あきが何を発言しようとしているわけでもないことを知ると、訥々と――お父さんとお母さんの話をした。

 

 よく知らない飲み屋で働いていたお母さんと出会ったこと。孤独を感じていたお父さんにとって、お母さんは心のよりどころであったこと。

 

「きみのやさしいところは、若菜に似ているね」

 

 あきは曖昧に頷いて、同時に視線をそらす。お父さんはあきの気持ちを汲むのが上手ではないけれど、お父さんの心のなかにある“若菜”と自分の“お母さん”の像はひどく乖離していて、それでもそれをお父さんに知られたくはなかった。

 

 自分を押入れに閉じ込めて、時には暴力をふるい、声を捨てさせたお母さんの、ヒステリックな金切り声ときつくつり上がったまなじり、それに痩せ老いたからだ。何人もの知らない男とのまじわりのたびに、古く狭い部屋に艶かしく強烈にかおった、腐ったような女のひとのにおい。

 

 ――あんたのせいで、私の人生めちゃくちゃよ! あんたなんか産むんじゃなかった、おなかにいたときにそのままなかったことにすれば良かった!

 

 ときには空腹で、また時にはこじらせた風邪で――何度も頭がぼうっとしては、お母さんとくちびるを動かしていたというのに、お母さんはあきを決して見てくれなかった。

 

 お父さんが、名前の通り花のようだと憧れ、深く愛したというそのひとが、お父さんにとって都合の良い夢や幻なのか、それともお母さんは人が変わってしまったのか、わからなかった。

 

(でも、お父さんは、嘘をついていない)

 

 そばにあきを置いて、ぴたりと肩を寄せたまま髪の毛を梳いてくれるのは、こんなにもまっすぐにあきにやさしさをくれるのは、――きっとまだ、あきと同じ血の繋がったお母さんを愛しているから。

 

「若菜は急に消えた。私もほどなくして、日本での仕事を終えた。悲劇だったよ。だから、こうして今きみと一緒に毎日を過ごせていることが、当たり前だなんて二度と思わない」

 

 お父さんの目は、真っ直ぐすぎるくらいに真っ直ぐに、あきを射抜く。あきはお父さんの瞳の奥に眠ったままのスイッチに気づかないふりをして、浅く頷いた。

 

「今日のきみはいやに素直だ。何か起きるんじゃないかって……怖いよ」

 

 お父さんがわざと身をくねらせるようにして、あきのセットされていないくしゃっとした前髪に、自分のそれを擦りつける。近くで見ると、閉じた目元からすっと斜めに長く伸びたまつげや、うっすらしわはあるものの若々しくしみのない肌は、きれいだった。

 

 かわいそうだ。

 

 だって、お父さんの中で生きる“若菜”は消えてしまった。幻や夢でなく過去にはいたとしても、この世界のどこかにお父さんと時間を過ごした“谷口若菜”が存在していたとしても、お父さんはきっと愛せない。

 

 ――それなのに、お父さんはお母さんがずっとすきだ。

 

 それが歪みきった幻想なのか、ほんとうにあった思い出なのか、どちらにしたって、お父さんがすきだったお母さんはいないのに。

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