時雨と紅葉。

二十二話 檻の中とふたりの“若菜”

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 ――したいこと、時雨にいうよ。約束。

 

 約束をしたその日家に帰るときにはまだ、あきはそれまでも時折妙な異常さを見せていたお父さんの過保護ぶりを、軽く考えていた。

 

 あきはそれまで気づいていない。お父さんがあきを通してなにを見ていたのかを。

 

「嘘をつくのなら、嘘をつかないように一緒にいなきゃだよ――前もそうだっただろう、若菜」

 

 時折感じるお父さんの視線が愛するひとへのものであることに、あきは気づけなかった。でもよく考えれば、穏やかな笑みにコーティングされ隠れかけていた獰猛なまでの所有欲には無意識的に感じていて、心が休まらなかったのかもしれない。そういった予兆はあった。

 

「おまえは――またどこかに行ってしまうの」

 

 一緒に暮らしているよ。
 そんなことないよ。
 こんなにもお父さんと一緒にいるじゃないか。

 

 そうやってスケッチブックに書こうとした腕ごと大きなからだに拘束された刹那――あきの小さなそれを支配したのは、身のうちから這い上がるようなぞわぞわとした悪寒だった。

 

 気持ち悪いとか、拒否反応が起こるとか、そういった類ではない。今すぐに逃げないという警告がガンガンと頭を支配した。

 

 時雨と同じように抱きすくめられているというのに、あきのからだは何度も包まれていた温かい腕を、すこしも思い出せないでいた。

 

「どこへ行ってたんだい、……若菜」

 

 おやすみと声を掛けるときは、絵本に出てくる優しいお父さんのように穏やかな口ぶりなのに、寝静まった真夜中にあきの寝所へ忍んでやってくるそのひとの声は、すこしも“父親”ではなかった。

 

 若菜はあきではない、あきの母親だ。それなのにお父さんは、まるでわかっていないかのように、眠ったふりをして寝室の扉に背を向けているあきの小さなからだを覆うように抱き寄せて、まるで縋るように何度もその名前を呼んでいる。あきはいつしか、その声が怖くなって眠れなくなった。

 

 一緒に暮らし始めた頃は一週間に一度ほどだったから、寝所を間違っているだけだと思っていた。最近は毎晩のように、お父さんはあきのベッドへと訪れる。

 

『ごめんなさい』

「どこへ行っていたの?」
『時雨と。だから、大丈夫だよお父さん』

 

 いつもより乱暴なお父さんの腕に気づいたあきが正直にそういったのは、わけを知って安心してもらうためだった。へんな人に連れて行かれたわけでも、夜遊びをしていたわけでもないのだということを。

 

「そう、藤野さんと……」

 

 あの日正直に時雨のことを話したのが間違いだったのだとしても、あきは他になんて伝える術があったというのだろう。

 

 すこし落ち着きを取り戻したようなその短い声に安堵したのもつかの間――次の瞬間、自分の父親の口からこぼれたその声に、あきのからだは凍りついた。

 

「じゃあ、もう会ってはだめだね。おまえを家族である私の元から引き離すなんて……そんな男は殺してやりたい」

 

 抱きすくめた耳元で囁かれたそれはいつもと同じ穏やかな声だったというのに。
 あきは自分の伝えた“時雨”ということばが、目の前の不安定なおとなをひどく刺激したことに気づいた。

 力づくで硬いフローリングに引き倒されて、あきは強く目を瞑る。

 

 ――おぞましいほどに、ときがゆっくりと流れているような気がしていた。永遠に続くかと思われた。
 

 

 

     *
  
 

 
 睡眠というのは不思議なものだ。

 

 すこしも眠気が起きないというのに、最近のあきは、ほんの数時間だけ気絶したように意識が飛んでいることがある。人間としての睡魔の限界に達すると、寝ているような気持ちよさなどすこしもないというのに、からだが機能を勝手に停止するらしい。

 

 特にここ数ヶ月はそんな想いのひとかけらも味わうことはなかったが、それ以前にお母さんと暮らしていたときには、お母さんの気分ややってきた男のひとによっては、そんな夜もあったかもしれない。しかし、朝日の眩しさに気持ちよく起こされる感覚を知ったあきにとって、気絶のような眠りはすこしもからだを癒やさないようになっていた。

 

 次の日も気絶から意識をぶり返すように、急に目が醒めた。

 

 耳の奥でさっきからずっと、布を切るような音が続いていた。それは、数分前からのようにも何時間も前からのようにも思えた。

 

 からだを覆っていたお父さんの重みは消えていて、そのことに密かに安堵しながら、はだけた寝間着をそっと直しつつけだるいからだを起こして、振り返る。お父さんがあきの部屋へいる気配はしていたから、そこにいることは予測していた。

 お父さんの手元を、寝不足だからか、ぼんやりとした頭のまま見下ろす。

 

「ああ、起きたのかい。よく眠れたかい?」

 

 条件反射のようにおもむろに頷くと、お父さんは人の良さそうな顔で「良かった」と笑った。その会話だけ切り取ったら、きっとほんものの家族みたいだったかもしれない。

 

 ジジジ…という、布をハサミが裂く音は、あきが振り返っても止むことはない。

 力を失って茫洋としたあきの視線に気づいたのか、お父さんが笑みを深めた。あきと同じヘーゼルの双眸が緩やかな三日月にそっと歪む。

 

「この制服は、もういらないだろう。ずっと私が若菜を守ってあげるのだから。おまえはもうずっと、ここにいられる権利があるんだよ」

 

 刻まれて服の形を失った、昨日まであきが袖を通していた制服。

 大小の区別もなく紙をちぎるようにバラバラになった布の塊を、あきはただ呆然と眺めていた。

 

 ガリッという、あの音がした。

 

「ねえ、若菜。もうどこにもいかないといって」

 

 あきはくちびるを開く。声は出ない。スケッチブックを探したが、周辺にないことに気づいてベッドから上がろうとすると、慌てたようにお父さんがふらついたからだをベッドへと引き戻した。

 

「私に誓って。若菜、私の元から離れていかないと」

 

 やさしくされるその隙間でチラチラと燃えるように光るお父さんの瞳は、既に自分の姿を映してはいない。あきは逃げるように目を伏せた。

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