時雨と紅葉。

二十二話 檻の中とふたりの“若菜”

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 不登校児だったあきにとって、夏休み明け九月の登下校の様子は興味深く映った。夏も終わるというのにうだるような暑さは顕在だからか、だれもがみんな疲れた様子で「夏休みに戻りてえ」とぐずりながら下校している。不登校児だったあきにとって、夏休みがどんなに特別なものかはよく知らない――つまりずっと、夏休み状態だったのだから。

 

(みんなつかれてる……時雨は休み明け元気になるのに……へんなの)

 

 あきはどことなく感じる気だるげな生徒たちの様子を感じながら、下駄箱に上履きを入れて外へ出る。もっとも、同級生たちが悩ましげな理由はそれだけではないのだが。

 

「――ち、谷口! やっといた」

 

 後ろからカバンをぐいっと掴まれて、引っくり返りそうになりながら振り返ると、焦ったような様子の城田がいた。夏休み明けに会うのはこの下駄箱前がはじめてなのだが(クラスは一緒なので声は聞こえていたけれど、顔は合わせていない)、なにやら肌が小麦色になっている。あきは手に持っていたスケッチブックに、すかさずそのことを書きつけた。

 

「焼けたね――……って、おまえやっぱりズレてるよなあ。休み明け最初の会話がそれなの? まあおまえは、全然女子みたいに白いままだなあ、それになんか痩せた? 夏バテ?」

 

 痩せたかどうかはわからないけれど、城田みたいに日焼けしないのは当たり前だ、ぼくは大して外へ出ていないのだから。そう書こうとしたけれど、城田は返事など期待しないというように、当たり前のようにそのままあきを捕まえ、自分もシューズに履き替える。城田の上履きは夏休み明けから変えたのか、ぴかぴかに白かった。それが城田の肌の色と合わなくて、すこしおかしい。

 

「ああー学校、始まったなあ」
『みんな嫌だって顔してるのはなんで?』
「そりゃそうだよ。夏休み満喫していたっていうのに、明けても外は暑いし、でもプールには行けないし、登下校は面倒くさいし、期末テストだし、おまけに三年は進路調査……どこまでめんどいことが重なるんだって話だよ。……おまえは最近まで不登校だったからなあ、永遠の夏休みだもんなあ」

 

 どうだぐうの音も出ないだろうといった口ぶりである。

 

 城田にしてみればちょっとした嫌味と冗談を混ぜたつもりだったのだが、例によって会話能力や空気読み力、友達経験力その他多数の能力に乏しいあきは、ぐいーっと無表情のまま首を傾げて『そうだね』というように頷くだけだった。

 城田は「そいえばおまえ、そういうやつだよなあ」と、特に気に留めた様子もなく苦笑しただけである。あきに張り合いを求めていたらまったくもって付き合っていけないのだから。

 

「そういやおまえ、進路とかどうすんの? おれは受験とか頑張れないけど経済的に公立は絶対だから、安全圏に行くよ。……といっても勉強しなきゃだけど」

『進路って、今日もらった紙に行きたい高校書くもの?』
「そうそう」

 

 あきは立ち止まって、すこし時間を置いてから『高校で料理を勉強したい』と書いて、そっと城田に見せる。あきの思ったとおり、城田はからかったり無理だといったりすることなく、「料理かあ……どうなんだろう、高校はあんまり聞かないかも。高卒で調理師の専門行くとかかなあ」と考え込んだ。

 

『城田は料理うまいけど、料理の勉強はしないの?』
「うん、おれは将来の夢とか今のところ全然ないから、普通の高校いって考える。おまえはコックとかになりたいの?」

ぼくの作った料理を、時雨がお客さんに届けるのは、コック?

 

 ――おまえ、料理すんのすき?
 ――あ、そ。ま、いいんだけど。今日店いってて、おまえが出した料理をお客に出すってどんな気分なんだろうって思った。

 ――チャーハンだけじゃなくて、その他にも色々。おまえがすきなら、作った料理を色んなひとに食べてもらうって気分いいんじゃないかなって。あの店におまえがいたら、……まああの店じゃなくてもいいんだけど、おまえと店やったらって考えた。

 

 大きくて安心する手のひらが、くっついたあきの髪の毛を弄びながら、時雨はあのとき疲れ切った顔をしながらそんなことをいった。

 

『将来なにをやりたいか、なにを勉強したいか考えてください。そして、親御さんと話し合ってから希望を出してくださいね』

 

 教卓から担任の先生に熱のこもった声色でそう問いかけられたとき、あきが思い出したのは時雨のそんなことばだった。時雨はもう忘れてしまっているかもしれないけれど。

 

『コックじゃなくてもいい、料理をつくるひと』
「それってコックじゃないの? シェフとか?」

 

 城田は不可解そうに首を傾げたが、「まあいいや、それも含めて一緒に調べるか。どうせおまえはひとりじゃ無理だしなあ」と笑った。
 城田の足取りは回りの生徒と比べていくつか軽々しいが、あきの足取りは反対にすこしずつ重くなっていく。城田がもうすこし歩く速度を早めてほしいと、静かに願う。夏休み前のように一緒には帰れないのだから。

 

「そういやさ、おまえ、携帯本当に持っていないんだよな? 休み中連絡取れないのって、地味にあれだな。宿題とか色々連絡しようかなと思ったけど、おまえの番号知らないんだもん」

『けいたい持ってない』
「だよなあ。お父さんは買ってくれないの?」
『まだ必要ないって』
「あーたしかにおまえ……あんまり遊んだりしなさそうだもんなあ。ていうか、それならえーっと……あのひと、時雨さんだっけ? とは、どうやって連絡取ってんの? 祭りの日も結講大変だっただろ」

 

 校門を出たら、きっと。

 

「ああ、遅かったね。六時間目終わりは二時五十分だったというのに、もう十分も経ってるよ」

 

 お父さんがいる――あきの予測どおり、平日の昼間にはそぐわないラフな半袖のTシャツをまとった父親が、車の前で軽くあきに向かって手を上げる。黒塗りの車をバックにしたその姿は、やや老成した顔つきが妙に馴染んで、一枚の絵のようだった。お父さんは、それからおもむろに城田へと視線をずらし、きれいに笑顔を作った。釣られるようにして、城田も頭を下げている。

 

「おまえのお父さんって……オーラあるなあ」

 

 純日本人らしい素朴な顔立ちの城田は、陽の光がまぶしいというように、顔をしかめた。

 

「さあ、帰るよ。あき」

 

 頷いて、お父さんの元へと早足で歩き出す。お父さんはあきのそんな様子を見て、満足したように笑うと、もう一度城田に軽く会釈をしてから運転席へと入った。あきはくるりと道路側へ回って助手席の扉へと手をかける。そうしてから思い直したように、小さく城田へ手を振った。

 

 城田にはそれがなんだかおかしくて、すこし笑う。

 

「明日、数学の授業の前に軽く宿題答え合わせしとこう。だから早めに学校きなよ、待ってるから」

城田はあきの気持ちが、なんとなくわかる。今まで帰り道は当たり前のように城田と一緒だったから、その約束を破るのがなんとなく居心地悪く感じていたのだろう。と。あきはほっとしたようにため息をついて、それからコクンと頷いた。そうして、慣れたように助手席に乗り込む。

 

 城田は車をしげしげと見つめて、こんな車を買えるくらいならあきに携帯を与えるくらいできそうなものなのに、家庭の方針だろうか。そう思っていたら、ふいに窓越しにあきの父親と目が合う。父親はどのタイミングで城田を見ていたのだろうか――城田がそちらへ目線を向けたときには、既に相手の目線は自分にあった。

 城田は特に気にした様子もなく、再度ペコリと頭を下げて、それから車の向きとは反対方向にある駅へ向けて歩き出す。あきは心なしか夏休み前よりも大きくなった気のする細長い背中をミラー越しに見送った。

 

「さあ、家へ帰ろうか」

 

 あきは横目でちらりとアクセルを踏み込むお父さんの表情を盗み見た。口角は涼しげに上げられており、特に何かを気にした様子はない。穏やかな様子を見て、そっと細く息を吐いた。城田との会話は、ギリギリ聞こえていなかったのかもしれない。

 

「シートベルト、ちゃんとしてある?」

 

 ふいに伸びてきた手があきの横を通過して、横のそれを手探りで確かめる。こちらへ向かってきた手はそのままあきの頭をそっとひと撫でして、何事もなかったように戻っていく。あきは無意識のうちにすっかり硬直したからだをほぐすように、シートベルトを握りしめた。

 

「城田くんは――」音楽ひとつ流れない静かな車の中で、お父さんがくちを開いた。「知っていたんだね。きみと時雨さんが会っていたということ」

 

 ――ていうか、それならえーっと……あのひと、時雨さんだっけ? とは、どうやって連絡取ってんの? 祭りの日も結講大変だっただろ。

 

 聞かれていた――そう思った瞬間に、ただ座っているだけだというのに、あきの視界はぐらぐらと揺れて、首筋が汗で湿った。暑がりのお父さんに合わせて、寒いほどにクーラーのきいた車内だというのに。

 

 お父さんはあきの動揺を知ってか知らずか、涼しい視線を眼の前へ向けながら口端を上げた。

 

「そうなんだね、あき」

 

 不気味なほど穏やかな運転のなかで、お父さんはひとりごとのようにつぶやいた。

 

 あきはしばらくの間呆然と座っているだけだったが、やがて意を決したようにスケッチブックを取り出して、赤信号になった折に、お父さんへボールペンで書いたそれを向けた。

 

『ぼくが頼んだ。だから、城田はなんにもしてないよ』
「ん、そうだね……おまえが我が儘をいったのかい――若菜」
『ちょっと会っただけだよ』
「嘘つきはきらいだよ」

 

 家の前に車をとめた刹那、ドアを開こうとしたあきの後ろ姿を、お父さんが後ろから乱暴に抱きすくめた。制服の袖を縫うようにして直に肌へと紛れ込んできた腕が、きつくからだを巻きついてくる。

 ガリッという音がした。それはあまりにも硬い音で、歯ぎしりともわからなかった。

 

 何度もその音が耳の近くで鳴る。

 

 ――若菜。

 

 そう呼んで、お父さんはあきのからだをきつく抱きすくめて、何度も愛しているとつぶやいた。あきに向かってお母さんの名前を呼べば呼ぶほどに、巻き付いた爪があきの白くて薄い肌に食い込んで、ひどくいたい。でもあきは声ひとつ出せずに、それが終わるのを待った。

 

「おまえはあのときも私の前から逃げた。上手な嘘で。だからもう騙されないよ」

 

 強引に顎を掴まれて、首をねじられる。すぐ後ろにいたお父さんと目が合うと、至近距離にあるその双眸は、自分のそれとひどく似ていた。

 

「若菜――私の、若菜」

 

 おんなじ目をしているというのに、お父さんの目は昔の影に取り憑かれているのか、ここ最近はすこしもあきを見ることができないでいるみたいだった。

 

 ガリッというあの音は、今度は耳の奥に残った幻だった。その代わりに、まるで焼けていくようなひどい痛みがからだを襲う。

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