時雨と紅葉。

二十一話 きんぎょと幸せの景色

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 肌を重ねることは、欲を満たすための手段にすぎなかったはずだった。いつからこんな、驚くほどなにも知らない無垢で小さな子どもにさわることを、心地よいと感じるようになったのだろう。

 

 ホスト時代には、一晩のセックスが相手にとって優越感という名のステータスになっていく様子を見て、わけのわからない仕掛けに気味悪いとさえ感じていた。しかし時雨は、今ならからだを重ねるたびに夢中になって金を出そうとした女の気持ちが、ほんのわずかではあるが理解できた気がした。さわることで、深くからだを繋がることで、理解し合うことで、結びつきが強くなるのかもしれない。

 

(結局、なにもしてないけど)

 

 なにもしていない――というのは時雨にいわせればの話である。

 あきにとっては、大変なことをいくつもされただろう。

 

 とはいえしばらくは、慣れさせることと怖がらせないこと、教え込むこと、それに自分の忍耐……時雨はあきとの課題をおさらいしながら、未だに腕のなかで寝息を立てているあきを見下ろした。薄いタオルケットは肩までかかっているが、視線を下にずらせば至近距離のため骨ばった鎖骨や薄い胸、おなかが見える。昨日は途中で意識を飛ばしたから、すぐに拭き取ったほうが良さそうなものだけティッシュで拭って、シャツは着せずとも夏だし大丈夫だろうとそのまま寝かせたのだった。

 

 時雨の腕に寄りかかって沈み込んでいる頭は、すっかり弛緩していて重たい。時折思い出したようにずるずると頭を動かすせいで、細くやわらかい髪の毛が、腕をくすぐった。

 

 太陽がようやく昇ろうという時間。眩しい朝日が窓からカーテン越しに差し込んでいて、もうすぐタオルケットすら熱く感じる時間になるに違いない。窓を開ければうるさいほどのセミの声が聞こえてくるだろう。

 

 柔らかい日差しに当てられたあきの肌が、白く輝いていた。長いまつげを伏せて眠っているあきは、こうしてみるとリアルにできすぎた人形のように整っている。ともすれば、羽でも生やして飛んでいきそうなほど、まぶしい。ただ、起きている間は表情が変わるようになって、だいぶ人間らしくなってきたけれど。

 

(どんな美形に育つんだか)

 

 そしてその成長を、どこまでも追いかけていきたいと思う自分がいることに、時雨は我が心ながら不似合いだとついおかしく思う。

 

 そうしてどれくらい時間が経ったのか、ふいにまぶたがふるふると震えて、あきが目を開く。寝起きがどんくさいのはいつものことだが、昨夜の疲れが抜けていないのか、いつにもましてぼけっとした表情で、目の前の時雨を見た。

 

 ぱちぱちとまばたきをして、たっぷりと時間を掛けてから「そういえばそうだった。状況は理解した」といわんばかりにこくりと頷く。すこしはにかんだような気がしたが、相変わらず表情をつくるのが下手くそすぎて困っているのかの見分けがつかなかった。こういうところは、できの悪い人形という他ない。

 

「はよ」
『おはよう』

 

 まだぼうっとしているのか、あきは頭をすこしだけ起こし、ぐいぐいと目をこすって眠そうにしている。特になにをするわけでもなくその様子を見ていたら、しばらくしてなぜか顔を赤らめたあきがもぞもぞして、『みないで』と布団をかぶってしまった。

 

 なんだその可愛くない態度は、と、布団ごと圧迫するように抱きしめてやったら、しばらくして苦しそうにじたばた手足を動かして、空いたところから空気を取り込むようににょきっと顔が出てきた。今度は酸素を求めるみたいに、ますます赤くなっている。おまけに布団とこすれた髪の毛がくしゃくしゃになっていた。

 

「なんだそれ」といったら、こちらをぽかんと見つめていたあきが、時雨の顔にすこしだけ湿った手のひらをぐいぐい当てて『時雨が笑った』という。あきの手のひらをたどるようにして自分の口元や頬をさわると、たしかにそこがやわらかく動いていた。そういうあきも、まるでロボットのようにぎこちなく口角を上げていたから、きっと笑ったのだろう。心底下手くそな笑い方である。もっと笑わせようと小さな頬を挟み込むと、恥ずかしそうにうつむいた。

 

「ほら、起きるぞ。金魚水槽にやって――送ってくよ」

 

 下手くそだって良い。笑っていれば、いつかもっと自然に、花が咲くような笑顔になるのだろう。
 
 

『ちっそくしない?』
「たぶん、大丈夫だろう」
『たぶん? ほんとうに?』
「はいはい、ほんとうに」
『このご飯おいしいのかな』
「食ってみる?」
『ぼく、金魚じゃない』

 

 すこしくちびるを尖らせたあきは、それでも金魚が心配なのか、時雨にくっついたままその手元を注意深く見守っている。時雨は可愛いと思ったら負けだと適当に気を散らしながら、小さなビニールの中で泳ぎ回る金魚を、そっと水槽に移した。となりの視線が気になるため自分なりには丁寧に移したつもりだったが、それでもとなりの子どものからだが『水にからだが当たっていたそう!』とでもいうように、ぴくりと跳ねた。金魚は昨日よりも何倍も大きな水槽のなかで、何事もなかったように薄いひれを左右に揺らしながら泳ぎ回っている。

 

『気持ちよさそう』

「だから大丈夫っていったろう」
『ごはんはぼくがあげても良い?』
「いいよ。ほら。いっぺんにやりすぎても食えないからな、おまえだっていつも同じ時間に夕食出されてもだいたい全部食いきれないだろう。そんなもんだから、考えろよ。……それじゃ少なすぎ。もっと」

 

 アホかというほど慎重に水槽へ餌を入れていたあきの手を上から乱暴につかみ、適当に上下に振ってやった。

 

 金魚の世話(というか金魚を世話しようとするあきの世話)を終えると、時雨の出勤時間が迫っていた。あきを送りがてら出勤しようとしていたけれど、あきはこのまま自分で帰るといってきかないので、そのまま帰すことにする。

 

『きんぎょさん、また見に来る』
「了解。ちゃんと鍵持ったの?」

 

 小さな足で下駄を履きながら、あきがこくりと頷いた。あきに合う服はとっくに家から消えていたため、仕方ないので浴衣のまま帰すことにする。もしかしたらあきは一度シロタの家へ戻ってから自分の家へ帰るのかもしれない。

 

 玄関口で見送ると、段差のせいかあきとの身長差はいつも以上に開く。そうして、帰っていくあきはどことなく小さく頼りなさげに見えるのだ。

 

「からだ、辛くないか?」

 

 いたわったつもりだが、あきにはへんなふうに聞こえたらしい。お風呂に入ったあとのように、ぽわぽわと頬を赤らめて、首を横に振った。その表情はまだまだあどけなく可愛いながらも、ほんのりとした色気が垣間見えて、――この生きる人形のようだった少年からこんな顔を引き出したのが自分だと思うと、またへんな気持ちになりそうだった。

 

 時雨は昨日散々ぶつけたはずなのに甲斐性もなく再び湧き上がる想いを振り払うようにして、あきの頭をぐいぐいかき回した。

 

「父さんに怒られるか? どうせ俺と会ってることはいってないんだろう」

 

 あきが首を上に上げて、じいっと時雨と目を合わせる。『大丈夫』と、くちびるが動いた。時雨の手のひらを掴んで、手の甲に人差し指を滑らせる。

 

『お父さんは家族だから、心配なんだと思う。でもぼくは時雨といたいから、言うよ』
「……これだけはいっとく。もう我慢したり、秘密を隠したりしないこと。困ったら、自分の意思を言う。わかった?」
『うん』
「ほんとうかよ。首カクカク動かしてるだけで、頭入ってんの?」

『我慢しない。したいこと、時雨にいうよ。約束』

 

 不思議だ。これまで幾度となくあきは離れていったというのに、久しぶりにずっと一緒にいたせいか、ひどく久しぶりにつないでいた手がはなれるような気がした。やわらかくて温かい体温が抜けていくと同時に、あきの姿が扉の向こうへ消える。
 
 
 ――約束。
 
 
 今しがた離れたばかりだというのにもう会いたいのだから、すっかり溺れているのだろう。いい年して振り回されるのは面倒だが、もう、惚れてしまっているのだから仕方ない。

 

 時雨は悩ましげにため息をついて、踵を返した。なにはともあれ、仕事に行かなければならないからである。

 

 リビングへ戻って窓を開けると、うだるような暑い空気ととセミの鳴き声がいっぺんに入ってきて、顔をしかめる。
 
 
 夏はまだ続きそうだとそのときはたしかに感じていた。

 でもその夏じゅう、その日以来あきがこの家の玄関をくぐることはなかった。

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