時雨と紅葉。
二十一話 きんぎょと幸せの景色
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城田の家には時雨が自分の携帯を使って電話した。電話の向こうの城田はずいぶん訝しんでいたが(この疑り深さを見ると、逆に日頃からどれだけうかうかしているのかと時雨はあきが気がかりになったが)、あきが手のひらに書いてきたことを復唱してみたら、どうやら信じてもらえたようだった。
父親の方には、電話がつながらなかった。あきは罪悪感からかもごもごと居心地が悪そうだったが、留守電を入れた時雨に「やっぱり帰るか」と意地悪してみると、慌てて首を横に振って、抵抗するように腕に絡みついた。それが優越感となって時雨のこころを支配したのはいうまでもない。
『城田、信じてもらえてよかった』
「シロタくんとお前が出会ったのが中2の家庭科の授業で、そのときにチャーハンを作る手付きがすごかったのに感動して友達になりたくて、水族館で買ったお土産のキーホルダーを交換して……なんておまえとシロタくんの友達エピソード話されたら誰だって信じるだろう。そんなの普通は知るわけないんだし」
というか、水族館でせびられたあのキーホルダーは、あの少年と友情を育むためのものだったのか。時雨は以前わずかに心に引っかかっていた疑問をひそかに解決した。
あきがこの部屋へ帰ってくるのは、久しぶりだ。
すこしだけ混雑した帰りの電車で、ドア横により掛かりながら携帯をいじる時雨の手元を、あきが覗き込みながら『きんぎょを、早く大きい水槽に入れたいね』といった。そういうわけで、結局閑散とした閉まりかけのホームセンターに飛び込むこととなったのである。慣れない人混みや下駄のせいで疲れたのか、既にあきの足取りは重くなっていたので、時雨は(おまえがいったんだろう)と心のなかで毒づきながら手を引っ張った。いつもだったら遅い、とろいというが、先程の名残なのか目元を赤くしているあきを見て、やめておいた。泣かせたのは時雨のせいでもあるのだから。
「まあ結局、今日中に移してやるのは無理だったな」
透明なビニールのなかで、二匹の金魚は時折方向を変えながらも、薄い尾ひれをぱたぱた動かしながら泳いでいる。それは結局ハンガーに掛けられて、部屋の壁から吊り下げられることになった。その下には、真新しい水槽に海藻と水道水が置かれている。
『かわいそう』
「呼吸出来ないほうがかわいそうだよ。一日しっかり置いてやらないとだめなんだって」
既に着崩れしていた浴衣は脱がせて風呂に入れた。それからあきは、ぼんやりとした表情で金魚を眺めている。ふいにあきがへんな顔をして振り向いた。
『しぐれ近い』
「近くにいるんだから当たり前だろう」
あきはなにか言いたげに口をパクパクしてから、踵を返して金魚の方へ向く。時雨は遅れて風呂から上がってからずっと、金魚に向かって座り込んだあきの後ろに回り、足の間にこの小さな子どもを置くようにして座っていた。それが慣れないのか、あきは時折居心地悪そうに身じろぎする。
『前はこんなじゃなかった』
部屋にいてもお互いに違うことをしていて、いつもくっついていたわけじゃないのだ、と、そういいたげである。
そうして居心地悪そうにからだを動かすたびに、シャツが大きいせいで大きく開いた襟元から、あきの白い背中がちらついた。耳が赤いところを見るとたいして嫌がっているわけではなさそうだったので、時雨はそのままあきのからだごしに、金魚を見ていた。
風に当たって風呂上がりの熱を覚まそうと開け放った窓から、ゆらゆらとした風が入ってくる。強い風が吹くと、時折あきや時雨の髪の毛がざわざわとなびいた。
「てか、あそこまで確認しておいて、なにも変わらないほうがへんじゃないの」
あきは戸惑っている――と、時雨は思う。あきは人間関係という経験が極端に少なく、またその対応力にも乏しい。関係が変わることに頭がついていかないのだろう。混乱している。
その真実は、時雨をいくぶんか安心させる。鈍感すぎるあきのことだ、ここまでいっておいていつもと変わらない様子だったらどうしてやろうかと思っていたのだ。
『ふしぎな気持ち』
片側から後ろにあった時雨の手を自分の目の前へ引っ張って、あきが文字を書く。風呂上がりのさらっとした細い指が触れて、それから離れる。時雨は手のひらをそのままあきのからだに巻き付けて、前から引きずるようにしてあきの背中と自分のからだをくっつけた。とっくに湯冷めしているはずなのにあきの体温がぐっと上がったことに気づいて、そのことにいいようのない欲望がむくむくと湧き上がる。
「あき、もう寝るか?」
時雨はずるかった。恋ということばをたった今覚えはじめたようなこの小さな存在に、平気でそんなことをいうのだから。
明るい室内の照明は、ゆでだこのように赤く染まったあきの顔を照らしているのだろう。時雨は斜め後ろからしか確認出来なかったが、耳の後ろもうなじも、心なしか赤く色づいている。
(こいつはもう、そのことばの意味も次に起こることもわかっている)
押入れの奥で暮らしていた、なにも知らなかったきたない子どもは、すこしずつ大人になる。石のように動かないものの頭のなかでめちゃくちゃに逡巡しているだろう考えがまとまるよう、時雨はそのときを待った。
たっぷり数分間そのままの姿勢になったのち、あきがまるで小さく震えるような仕草で、でもたしかに首を横に振る。
それが合図になった。からだに回していた手のひらを引き上げて、あきの顎を捉えた。ぐい、と振り向かせて、そのまま一気に深くくちづける。
いつもの能面がうそみたいに、顔中を火照らせて困ったような顔をしたあきと、至近距離で赤みを帯びた目と、時雨の目が合う。抱きすくめたからだは緊張で固くなる。時雨がなにかいう前に、恥ずかしさからか、まるで身を委ねるようにあきはぎゅうっと両目をつむった。
触れたところから伝染するように、自分の体温も燃えるように熱くなっていくのを感じる。時雨は理性が吹っ飛びそうだと、半分沸騰したようにしびれた頭で考えながら、角度を変えて何度もあきのくちびるを吸った。
「……っ」
時雨のシャツの裾を握っていたあきが、腕に人差し指を寄せる。
『ここ明るい』
「よく見える」
『いやだ』
「あ、そう」
くちびるを合わせながら、あきのからだを抱え込んで抱き上げる。急な浮遊感に閉じていた目をパッと開いたあきが、反射的に時雨のからだに腕を回した。
相変わらず心もとないほどに軽い。やはりこの数ヶ月ですこし痩せているか。
抱き上げたときに感じたあきのかおりは、同じシャンプーやボディーソープをからだに塗り込んで、同じ洗剤で洗った服を着ているというのに、ひどく甘く感じた。
起きたまま整頓されていないベッドに下ろすと、あきはまだ暗闇に慣れていない目で、不安げに時雨の腕を掴む。なにかをあきがいう前に、息遣いの聞こえるそこへ、キスを落とす。あきの腕が戸惑ったように宙をさまよう。
「背中、回して」
ずりっとシーツがずれる。おそらくばか正直に頷いたときに、髪の毛がシーツと擦れたのだろう。しばらくして、これでよいのかという戸惑いとともに、細い両腕が時雨の背中にしがみつくみたいに回った。
その頃には、暗闇に目が慣れ、だいたいのあきの表情や動きを捕らえている。ぼんやりとした暗闇にはっきりと浮かぶあきの表情は、そんなつもりはすこしもないのだろうが、ここまで我慢を重ねてきた時雨にとってはひどく扇情的だった。
「不安そうな顔してる」
『なにするの』
「最後まではしない」
『最後までってなに。キスは最後じゃないの?』
しつこく背中に書かれるのを無視して、黙れといわんばかりに噛みつくようにもう何度目かわからないキスをする。半開きになっていたくちびるに、容赦なく舌を差し込んで、驚いて逃げようとしたあきのそれを捕まえる。あきは後頭部に頭がぴたりとくっついているせいで逃げることが出来ず、まるで打ち上げられた魚のようにひどく苦しそうにずるずるとシーツの上でからだをよじった。
「なんでも聞くなよ、色気ないな」
「……っ」
暗闇のなかでも、明るいせいかあきの瞳がとりわけよく見える。それはここまでしておいてでさえこの後なにが起こるかわかっていないような不安と、ほんのすこしの期待とがないまぜになっていた。
以前あきは男たちに乱暴されているから、すこしは意味がわかるのかもしれない。けれど、あれは暴力であって、今日はそうじゃない。そういうことに、このカラカラと飴玉の音でもしそうなほど空っぽの頭は理解できるか。
(シロタくん、ちょっとは教えておけよ。本当におまえらは男子中学生かよ……)
時雨は呆れながらも、未だに息継ぎではあはあしているあきのシャツに手を掛けて、その下から手のひらを滑り込ませる。じっとりと汗ばんで湿った肌は、時雨のはだにぴたりと吸いつくようになめらかだった。
あきのからだが驚きでなのか、ぴくりと跳ねた。
あーあ、こいつこれからどうなるんだ。
時雨はあきのペースになんて合わせずめちゃくちゃにしたいという自分本意な欲望と戦いながらも、長い戦いになりそうだとため息をついて、慌てふためくあきを安心させるように、ついばむようなキスをした。
「……っ」
「さわりたい」
『どうして?』
「聞くなよ。好きだからに決まってるだろう」
歯の浮くようなせりふを、真面目な顔して本心からいう日がくるなんて、思ってもみなかった。こんなに、愛おしく想うなんて。
いったこっちの方が恥ずかしいというのに、あきまで顔を真っ赤に染めた。
『なんか、へん』
服を脱がせ、白くて薄いからだのあちこちにふれる。あきのからだは普段の鈍感さがうそのようにどこも敏感だった。
長い間、こいつのちんたらしたペースに合わせてきた。今さら急ごうなどとは思っていないし、急げばあきがパニックになることは知っている。だから、ゆっくりで良いからこいつのペースに合わせよう――そんなふうに頭ではわかっているのに、実際に生身のあきにさわると、ひどく乱暴な気持ちが芽生えるのだった。
あきは時雨の手つきに溺れそうになりながらも、懸命にもがいてしがみついた。健気で不器用な仕草が、無自覚にも時雨を煽って、理性を壊しに掛かる。
しぐれがすき。
あきは何度も、時雨の下で縋るようにそういった。やめないで、と、いっているみたいだった。
どれほどの時間が経ったのだろう。暗闇にすっかり慣れた頃、闇に溶けるには白すぎる肌をひと通り堪能し、小さく高ぶっていた下肢に手を伸ばすと、あきが大きく息を震わせてくちびるを震わせた。
「……ッハア……ッ」
――一瞬、荒すぎる息遣いが、声のように思えた。
そのときはじめて、こいつはどんな声で自分を呼ぶのだろうと、時雨は幼くも艶めかしいあきの声を想像した。