時雨と紅葉。

二十一話 きんぎょと幸せの景色

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 まるで出来すぎた絵のように、明るい星空が照らすあきの涙はきれいだった。

 声なんてなにも聞こえない、それに表情だって大きく歪んでいるわけではないというように、からだじゅうの水分がせり上がるように、ぽたぽたと落ちる涙は止まらない。

 

 繋がれたままの手をほどいて、声もなくただ泣いているあきの両頬を、すくうように持ち上げる。しかしいやだったのか、逆らうようにぐっと下を向かれた。

 

「あき、どうして泣いている」

 

 だらんとぶら下がった腕の下、小さな手のひらは伝えることを拒むようにきつく握られている。小さなつむじがすこし震えた。

 

 祭りの喧騒は既に波が引いたように小さくなっている。そんな余韻を重ねるように、一瞬あきの明るい髪色が光って、すこし間を置いてからどおんという大きな音が、背後から聞こえた。驚いて振り返ると、このあたりの鄙びた商店街にしては背の高い建物の間から、暗闇に溶けて消えようとしている花火が覗いていた。しかしそれが星の一部になる前に重なるみたいにして違う花火が上がる。

 

 頬に重ねていた手のひらに、ぴくり、ぴくりという振動が伝わってくる。

 

「あき、……ほら、顔上げろ。おまえが見たことなさそうなもんが上がってるよ」

 

 下を向いていたあきが、頬を捕らえていた時雨の手のひらごとゆっくり上げて、それから半円だけ覗いた花火を見上げる。食い入るような視線で我を忘れたようにしてその景色に見入るあきの頬は、細い川のように涙の筋がくっきりと浮かぶ。ゆらいだヘーゼルの瞳に、色とりどりの花火の色がきらきらと重なった。

 

「きれいか?」

 

 慌てたようにこちらを見上げたあきが、時雨がずっと自分を見ていたのだと気づいて、また顔をうつむける。恥ずかしいのか、耳がすこしだけ赤い。それからゆっくりとした手つきで時雨の手のひらを捕まえた。

 

『もっと見たいけど、帰ろう』
「そうだな。でも、そんなにわんわん泣いてた理由を聞いてからね」
『ないてなかったよ』

「どんな言い訳だよ……泣いてたよ。それにおまえ、最近変だよ。俺になにもいわなくなった」

 

 時雨は苛々していた、あきの隠すような態度を。いつだってことあるごとになにかいいたげな表情を見せるのに、口を聞けないことを理由に逃げているみたいだった。

 

「いえよ」

 

 ガキみたいな感情だ――と、時雨は思う。

 

 隠すなよ、全部俺には話せ。

 

 くちびるを噛んでなにかに耐えているあきを見るたびに、独占したい、知っておきたい、だれにも取られたくないと、子どものような思いが胸のなかを駆け巡る。

 

 花火があきの表情を照らすたびに、ヘーゼルと花火の色が交じって、不思議なほどきれいに輝く。あきの双眸はやはりぐっとなにかを我慢するようにゆらめいて、それから首を横にふる。

 

『かえる』

「おいふざけんなよ」
『かえる』
「うるさい、逃げるな」
『かえる』
「あき」

 

 荒立った声に、あきの肩がぴくりと揺れる。

 

「なにを溜め込んでる。なにを我慢してるんだ、いえよ」

 

 俺にはなんだって伝えられるだろう。そういいたいのを、ぐっと我慢した。こんな感情はあまりにも大人気ない。

 あきが激しく首を横に振る。みるみるうちに目に溜まった涙が、ダムが決壊するみたいにぶわっと溢れて、それでも構わずに時雨から逃げようとからだを揺らす。時雨は逃さないといわんばかりに、あきの頬に両手を置いたまま、ぐっと自分の方へ引き寄せる。時雨の影に入ったあきの瞳が、元のヘーゼルだけの透明な色へと戻る。

 

 あきの両手が時雨を剥がそうと、両腕に絡みついた。そのまま引っ張られる。時折抵抗するように、『かえる』という文字が腕に書かれるが、無視をした。

 

「どうせ昔からそうやって自分だけ我慢して、言いたいことを言わないでいたから、喋らなくなったんだろう。今だっておまえ、話せなくてもいいと思ってんだろう」

 

 首が激しく横に振られる。

 

「違うじゃねえよ。そうやってずっと人形みたいになって生きるのか? 嫌なことがあっても無表情になって知らないふりして、本音もロクに言わないままなのか? だれにも伝えられないなら、おまえはこの先もずっとだれとも向き合えないし、理解し合えないのと同じだよ」

 

 向き合ったことのない時雨は、向き合った先になにがあるのかを知らない。時雨もこれまで、そうして生きてきたのだから。

 あきは時雨をきっと大切にしている。でも、それは当たり前だ。数ヶ月寝食をともにして、我が儘もたくさん聞いて、お互いのことがわかるようになった。

 

 でもまだ、あきはなに一つ、自分の気持ちを言葉にしてはいない。

 それが、あきを大切にしたい時雨にとっては、あまりにも苛立たしくて、歯がゆい。

 

 こんな子ども一人になんてざまだと、時雨は我ながら自分の必死さに呆れる。

 

「怒んないから、おまえが今なにに困ってんのか、なんで泣いてるのか言って」

 

 顔を地面に向けていたあきがすこしだけ動きを止めて、小さく震える。泣くのが苦しいのか、いつもはほとんど聞こえない息遣いが、ひどく荒い。はあ、と酸素を求めるように肩を上下させて、それから時雨を見上げる。

 

「頼む」

 

 ただ。

 

「心配なんだ、最近のおまえ見てると」

 

 自分の庇護下においておきたい。それだけだ。

 

 花火の明かりに照らされた濡れた目と目が合う。なにがかなしいのか、またあきの目からポロポロと壊れたように涙が溢れる。それは時雨の両てのひらに吸い込まれていった。

 

 戸惑ったように視線を左右にさまよわせていたあきが、はあ、と息を吸うようにしてくちびるを開く。そうしてまた閉じては、また開く。ひどく長い時間、涙をこぼしながらそれを繰り返した。

 

 あきは時雨になにかを伝えようと決心しては、また、躊躇するように口を閉ざす。まるで魚が呼吸をするみたいに、はくはくとくちびるを動かしていた。やがて、ぐっと時雨の腕を掴むあきの手のひらに、ぐっと力が増す。

 

 花火の光が差し込んで、また、涙でびしょびしょになったきれいな顔がチカチカと光る。

 くちびるが動くまで、いったいどれほどの時間が経ったのか。
 
 
 しぐれがすき。
 
 
 あきの音はない。代わりに、花火の轟く音と、周囲を流れていく風の音だけ。

 

 右手のひらが腕から離れて、代わりに時雨の腕に『やっとわかった』と、綴る。それから『ごめん』と。

 

「なんで謝る」

 

 喉元から何かがせり上がるように熱くなって、時雨はそれをぐっと飲み込む。

 

「俺は、とっくにそうなってる」

 

 またあきの目尻から涙が溢れるのが我慢できなくなって、閉じ込めるように抱きしめる。軽いからだはいとも簡単に時雨の胸へとおさまって、静かにわなないた。

 

『ずっと一緒にいたい』
「それも、俺はもうそうなってる」
『他のひとじゃいやだ、この気持ちは普通じゃない』
「普通じゃないから、特別なんだろう」
『でもいいたくなかった。お父さんと普通に暮らして、学校へいって、時雨とおなじになりたかったから』

 

 それは時雨も同じだった。

 

 あきと出会って、めまぐるしく苛立つほどに世界が変化した。生活を変えて、仕事を変えて、だれかに対する考え方もあきのせいでひっくり返った。自分は変わるつもりなんてなかったのに、この小さな子どものせいで勢いよくこれまでの時雨は変化した。

 

 一緒にいることの苛立ちも心地よさも覚え、寄り添うことの難しさも知った。

 

「待たせすぎ。おまえそれ早くいえよ……」

 

 いってしまった罪悪感なのか、興奮なのか、まだ息遣いの荒いあきの髪の毛を安心させるようにくしゃくしゃと撫でる。

 

「で、おまえ今日はどうしたいの?」

 

 こうしてこの子どもが素直なときに、自分がほしいことばをいわせようとするのは、時雨のずるい心だった。

 

『帰りたくない』

 

 温かいそれはとめどなく溢れて、時雨の肩をあっという間に濡らした。

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