時雨と紅葉。

二十話 夏祭りの静かと涙

62

『ぴかぴかしてる、きれい』
「きれいねえ。俺はまさか小学生でもないのにこんな夕方早くから祭りに来るなんて思ってなかったけど」

 

 呆れたような時雨の様子とは裏腹に、あきは城田からしか聞いたことのなかった景色が実際に目の前へと広がっている様子に、さっきよりもご機嫌そうにからんからんと下駄の音を立てながら歩き回る。あたりをせわしなく見渡すと、まだ明るい夕日のなかに、薄明るいちょうちんがどこまでも道なりに連なっている。赤や黄色や青といった色とりどりの灯りが穏やかな風に乗ってすこし踊っている。

 

 あきとそう変わらない身長のふわふわとした帯を閉めた子どもたちが、ふたりの間をきゃあきゃあいいながらすれ違う。その手に握られた風船のような丸いなにかを見ていると、「あれね」と時雨があきの視界を遮って指をさす。

 

「おまえ、ヨーヨーも知らないの」
『よーよー』

 

 くちびるを動かす。時雨が正解というように頷いた。

 すこし先で、いけすのような小さなプールの周りに輪になってしゃがみこんだ子どもたちが、夢中になって水に浮かぶそれらをすくい取っているのを見る。カラフルで様々な模様のそれらは、ぶよぶよと揺れたりぶつかったりしながら、不思議なほど軽々しく浮いていた。

 

「ほしいの? やってみる?」

 

 ほしい。やってみたい。

 

 うなずこうとしたけれど、ヨーヨーの周りにいる子どもたちよりもずっと華々しい浴衣の女のひとたちが、すれ違いざまに微笑ましそうにあきと時雨を振り返ったのを見て、動きが止まる。あの女の子たちとは違う、硬くて重そうな帯を綺麗に締め上げ、スラッとした体型の浴衣には紫陽花の花が広がっている。飾られた髪の毛と、花のようなお化粧だ。

 

「きょうだいかなあ」
「あんまり似てないけど、可愛いね」

 

 あきはヨーヨーから目を反らして、横を通り過ぎるようにからからと歩きはじめる。

 

「いらないの? はじめて見たんだから買ってもいいけど」

 

 ――どうしてぼくは胸がいたくなったんだろう。あきは自分の気持ちがわからずに、下を向いた。斜め後ろから鷹揚な足取りでついてくる時雨の気配を感じて、いらないとばかりに首を横に振る。

 

 きょうだい。城田とお姉さんの馴染んだ姿を脳裏に思い浮かべる。自分と時雨もそんなふうに見えているのかと思ったら、それはすこしいやだった。どうしてだろう。

 

 ふいに目の前に影が差して、うつむいていた顔を上げると、ずいぶんと目の前に知らないひとがいて、あっと思うと同時に後手を掴まれて引きずられた。

 

「こら、前見ろおまえは。ばか」

 

 バランスを崩した背中は、時雨になんなくキャッチされる。目の前にいた大柄な浴衣のひとは、苛立たしげにあきへ向かってなにか言おうとしたが、連れの時雨が先に注意をしたことで興味をなくしたようにすれ違っていった。

 

「祭りって、もうそれだけで信じられないくらい人間いるから、わかった?」

 

 こくりと頷いた。

 時雨はため息をついてあきの頭をくしゃくしゃ撫でると、引っ張った手のひらをつなぎ直すようにして歩きはじめた。あきはゆるく繋がれた手のひらと時雨の顔とを交互に見つめる。つないだ手をひらひらさせたら、黙ってくれといわんばかりにぎゅうっと握り込まれた。

 

 手をつながれていると、あきは時雨に話しかけることができない。だから、時雨が何を考えているかわからないのである。それでもどうしても聞きたくて、もう一方の手をくるりと回して、つないだ時雨の手の甲に文字を書く。

 

『どうして手をつなぐ?』
「おまえ携帯ないだろう。こんなクソみたいな人だかりではぐれたらオシマイだから」
『きょうだいも手をつなぐ?』
「知らないけど、こうやってつないでんの見たことある?」

 

 あきは時雨の視線に従って、自分と時雨の手を見つめてから、キョロキョロとあたりを見回す。小さな子どもは、みんなだれかと手をつないでいる。ひとつになった影が色んなところで溶けあっているから、すぐにわかった。みんな手と手をふわっと重ねている。

 

 あきは繋がれた手と周囲をつぶさに観察をしてから、なにかに気づくとすこしだけ顔を赤くして、それでも離すまいとするみたいに時雨の手のひらをぎゅうっと握った。

 

 手と手を重ねるんじゃなくて指が絡むのは、きょうだいじゃない?

 

 恥ずかしくなって、時雨の腕に頭をそろりそろりと寄せる。肌と直にあたる髪の毛がこそばゆいのか、時雨はくすぐったそうに身をよじった。
 
 
 
 あきの機嫌が直り、やや夕刻が過ぎて外が暗くなりつつある頃、時雨がすきなものを食べて良いとあきにごはんを選ばせたが、道を通るたびに変わる屋台の景色にあきの食い意地は追いつかない。見たことのないものばかりを通り過ぎながら、あれも美味しそう、これも美味しそうと悩んでいるうちにあっという間に時間が経って、「なんでも好きなものを選べ」といったにも関わらず決めきれないあきに苛立った時雨が、一番近くにあった焼きそばを買った。

 

「おまえ、優柔不断すぎ。さっさと選ぶんだよこういうときは」

 

 なんとも短気で横暴である。あきはむっと頬を膨らませたが「なにむっとしてんだ、可愛くない」と時雨に頬をつねられた。

 

 道路脇から空を見上げると、赤と黒が混じり合った群青色の空には大きな星のように吊り下げられた提灯が、さっきよりも明々とあたりを照らしている。ずっと向こうに見える山の端は、そこだけ燃えているようにまだ赤かった。先ほどまで小さな子どもたちばかりだったあたりに、時雨と同じくらいの男のひとや、さっきすれ違ったきれいな女のひとたちが増えてきた。

 

 そんなふうにあたりを見回していると、時雨のほうから鼻をくすぐる温かい匂いがして、振り返ると焼きそばのビニールを開けたところだった。あきの視線に気づいた時雨が「ほんとう意地汚くなったよなあ」とおかしそうに笑って、割り箸をくれる。刺激のあるソースの匂いをかぎながら、時雨の持つ焼きそばに手を伸ばす。

 

「ピンクのは辞めといた方がいいぞ、紅生姜だから。おまえ刺激あるのだいたいだめだろう。あーそう、そのへんそのへん」

 

 ピンクの細長いものを避けて、口に入れてみると、温かいソース味のそれが広がる。いつもお父さんに出してもらうどんな料理とも似つかない味。あきはヘーゼルの瞳をきらっと揺らして、何度も箸を口元へ運んだ。

 

「おまえ意外とこういうジャンキーなのすきだよね」

 

 ジャンキーとはなんだろう。ソース味のことだろうか。口をもぐもぐと動かしていると、箸をかっさらわれて、あっという暇もなく今度は時雨が食べはじめた。

 

「なんだよ、その目は。まだ色々食べるんだから、ここで腹一杯にしてももったいないだろう」

 

 そうか、そう考えるとそうかもしれない。あきは「早く箸返して」と抗議するのをやめて、おとなしく時雨が満足するのを待った(とはいえ、まだ焼きそばに満足していなかったので、結局箸を返してもらってきっちり半分たいらげた)。

 

 その後次は何を食べるかと聞かれ、見事に反省を活かしたあきは待っていましたといわんばかりに時雨を連れて、ずいぶん前に通り過ぎていたチョコバナナの屋台を目指した。時雨は見るのもいやだとへんな顔をしながらも、あきの分だけ一本を買ってくれた。「通り過ぎる前に言えよ、距離がおかしいんだよいちいち」と嫌味を言われながらではあった。あきはバナナにかかったチョコの上に、一番たくさんカラフルな飾りがかかっていたものを、時間を掛けて選ぶ。

 

『時雨いらないの? ひとくちいる?』
「いらない」

 

 即答だった。仕方ないのであきはひとり、はじめてのチョコバナナを楽しむ。固まったチョコレートとバナナが美味しかったけれど、やっぱり時雨は「一本食うのにどんだけ時間掛かるんだ」とまた苛々していた。

 

『いつも食べるものとちがう』
「まあ、おまえいいもん食ってそうだからな。こういうからだに悪そうなの出てこないだろう」
『美味しい』
「からだに悪いものはだいたいうまいからな。酒とかな」

 

 それはあきにはわからない感覚である。

 ともあれ、なんだかほんとうに美味しい。それはなんとなく、最近味わっていないような感覚だった。

 

 いくつかのものをふたりで一緒に食べたけれど、あきにとってはじめてのそれらは、どれもひどく安っぽくて美味しい。熱すぎるたこ焼きのせいで舌を火傷したけれど。

 

『あれ、なあに?』
「あー金魚すくい。ヨーヨーみたいなもんだよ。見てみるか? つってもそろそろおまえ帰さなきゃだから、ちょっとだけね」

 

 火傷した舌が麻痺している感覚が珍しくて、すこし舐めるようにくちびるを動かしながら歩いているときに、それ――プールのような池に浮かぶ赤と黒の影を見つけた。あきは時雨の手を引っ張りながら、後ろからそれを覗き込む。

 

 灯りに照らされたキラキラの水面が、すこしずつ動く金魚の群れによってゆらゆら波紋を立てて揺れる。ぱしゃんとだれかが小さなあみで金魚をすくい取る。

 

『なにしてるの?』
「すくったら、家に持って帰って飼うの」
『だれを持って帰ってもいいの?』
「すくえたら、だけどね」

 

 一緒に暮らしてくれるひとを待っているというのになぜかあみから懸命に逃げようとする、小さな金魚たちをじっと見下ろす。それらは尾をひらひらと左右に振りながら、素早く小さなプールを移動していた。

 

(一緒に帰る子を、みんな探してるんだ)

 

 すいすいと自由に泳ぐ金魚は、宝物のように光っていてきれいだった。

 

「……おまえもやってみる?」

 

 首を横に振った。でも、時雨にはきっとそれが、あきの本心でないことがわかっていた。

 

「うちに置いておけばいいよ。おまえんちはどうせ無理だろう。ほら、前空いたからしゃがみな」

 

 時雨に両肩を掴まれて、ぐいっと半ば強引に膝を折られる。されるがまま腰を下ろすと、水と魚独特の、川のような湿ったかおりがした。

 

「一回お願い」

 

 時雨が手早くお金を渡すと、怖そうな面構えのおじさんがにこり(というか、にたり)と笑って、小さく脆そうなあみとお椀をくれる。あきは反射的に、ゆっくりとした仕草でそれを受け取った。

 

 後ろからしゃがみこんだ時雨が、あきの体を挟み込むようにして腕を回し、ブカブカとした浴衣の袖をまくる。あきはその意図が分からずされるがままになりながら、むき出しになった白く細い腕をプールの上へと出した。影におびえてか、金魚があちこちにあきの腕から散っていく。

 

「おまえ、トロいの得意なんだからゆっくりいきなよ。怖がらないようにそーっと近づいて、すくうんだ。どれ捕るの?」

 

 あきはしばらく悩んでから、小さな赤い金魚を遠くから指差す。

 

「あれね。なんでこう、はぐれてんのが好きなのかね」

 

 後ろから掛けられる声を頼りに、ゆっくりとその金魚を自分の手元に誘導していく。そっと金魚に向かってあみを傾けて、一気にすくい上げる――。

 

「はい、遅すぎ」

 

 金魚は(そんなの、捕まるわけないよ)といわんばかりの様子で、すいすいっとあきの手元をすり抜けた。手元に残っていたあみは溶けるように大きな穴が空いている。

 

「おじさんもう一回ね」

 

 見かねたおじさんが苦笑いで何かをしようとするのを静止して、時雨がお金を渡す。
 新しいあみを受け取ると、あきの小さな手に時雨の右手が重なった。

 

「……で、どいつだっけ?」

 

 逃げた金魚を指差すと、あきの手を強引に動かしながら、金魚を手元へと誘う。あきの肩口から顔を出すようにして、時雨が金魚を覗き込んだ。

 

「こうだろう。で、素早くね。じゃないと、また穴空くから。……はい」

 

 あきの手は時雨に操られるようにして、狙った金魚があっという間にお椀の中にすくわれてしまった。金魚が暴れたのはほんの一瞬で、すぐに狭いお椀の中をくるくると元気に回りはじめる。

 のんびりとしていたあきにとっては全部が一瞬のことで、ぽかんとお椀とプールとを見た。

 

「どうする? 一匹だと寂しいんなら、もう一匹連れて帰るか?」

 

 こくりと頷いた。ひとりはきっと、さみしいだろう。

 あきはまたプールの隅々に目をやり、狙った金魚を指差す。時雨が頷いて、またあきの手を操るようにして取ってくれた。次は自分でやりたいといって、時雨をどかして三匹目に狙いを定めたら、やはり動きが遅いらしくひらひらと上手にかわされてしまった。後ろの時雨が鼻で笑うのがわかった。

 

 ボロボロになったあみを片手に放心している間に、おじさんが二匹の金魚を小さなビニールに入れて持たせてくれる。プールよりもずっと狭いそのビニール内を、二匹の金魚はすいすいマイペースに泳いでいた。

 

『きんぎょ、ずっとここにいるの?』
「まさか。かわいそうだろうこんな狭いの。仕方ないから明日ホームセンターにでも行って水槽買ってやるよ。でもまあ今日一晩はこのまま」

 

 金魚のビニールを持つ手とは反対の手を時雨とつなぎ直す。時雨は既に携帯で何かを調べているようだった。

 

「うわ……金魚って意外に手間掛かるな。しかも水道水じゃだめって……面倒だな」

 

 七時半になろうとしていて、あきがなにか言う前に時雨の足は帰途へと向かっている。

 

「シロタくんちはどっち方面?」

 

 場所を告げると、時雨は了解とつぶやいて携帯で電車と道を調べてくれた。あきと重ねていない方の手で器用に携帯を操作する時雨を見上げる。

 

 さっきまで近くにいる時雨の声も聞こえなくなりそうなほどの喧騒の中にいたというのに、帰途につけばあたりが静かになるのはあっという間だった。お祭りがきらきらと夜道を照らしてくれるのは、ほんのすこしの場所だけだ。

 

 すこし香ばしいにおいだけが、残り香となって鼻を撫でる。他には、生温かい夏の風だけが名残のようにあきと時雨の間をひゅうっと通った。

 提灯のせいで見つけられなかった星がいくつか空に散って、その真ん中に中途半端な形の月が浮かんでいる。

 

「あき、こいつら結講手間だぞ。おまえうちきたときは掃除とかしなよ。俺は面倒だからね」

 

 時雨のことばを、こころの中で反芻する。

 不意に、想像した。

 

 あきの手のひらに吊るされたビニールのなかで泳ぐ金魚は、今日時雨と一緒に帰るのだ。時雨の部屋へ。そして、自分だけが時雨と一緒じゃなくて、他の場所へ帰る。

 

(どうしてぼくは、だめなんだろう)

 

 普通の家庭に戻って、時雨とおなじになりたい。何度もそう思った。でもその想いと一緒にいつも別のことを考えていた。どうしてぼくは、時雨と一緒にあのまま暮らせないのだろう。

 

 ぼくも金魚だったら、ずっと時雨のそばにいられるのだろうか。

 

「どうした、掃除の仕方なら教えるけど……おい、あき」

 

 あきのなかで何度も同じことを考えては、そんなのは違うとかき消していた気持ちが、急に飽和するように溢れていく。

 

 どうして金魚は時雨と一緒にあの家へ帰れるのだろう。

 

 どうしてぼくは家族の元へ帰らなければならないのだろう。

 

 どうして別々に大人にならなくちゃいけないのだろう。

 

 どうして、一緒にいちゃいけなかったのだろう。

 

 そう思うのと同時に、あきの視界が急にぐにゃぐにゃと歪んだ。瞳におかしな膜が貼ったみたいに、時雨をうつしていたはずの視界がどんどんぼやけていく。

 

 からんからんと、同じリズムで歩いていた足が止まる。境界線の曖昧になった時雨の輪郭がこちらを振り返って、見下ろした。

 

 時雨がつないでいた手をそのまま顔の位置まで上げて、あきの手の甲側をぺたりと頬へくっつける。

 

「おまえ、気づいてる?」

 

 そこはなぜか、雨の日のあとのように、でも雨よりもひどく温かいなにかで濡れていた。

 

「泣いてるけど」

 

 まばたきをすると、さっきよりかは幾分か鮮明に、時雨の表情が映った。あきはもう一度、確かめるように時雨と繋がれたままの手を動かして、頬や瞳をさわる。

 

「なんで?」

 

 これはなんだろう。目頭が熱い、鼻先がつんとして、視界がぼやぼやしてしまう。

 

『わかんない』
「なんでだよ……それは俺も意味わからないって」
 
 時雨らしくない、困惑したような表情が映る。携帯を持ったまま腕を回した時雨に身を委ねるようにして、ぎゅうっと腕を背中に回した。

 

 時雨との当たり前がなくなってから、あきはいくつか気づいたことがあった。

 

 一緒に過ごすとその場所全部が、心地よいと感じるわけではないこと。

 

 一緒に食べるものぜんぶが、美味しいと感じるわけではないこと。

 

 そばにいるひとだれでもと、一緒にいたいと思うわけではないこと。

 

 時雨との当たり前は、あきにとってぜんぶ特別だった。

 

 そうして、あきはやっとわかった。

 

 

 時雨がすきだ。

 

 

 ――帰りたくない。ずっと一緒にいたいと思えることは、普通じゃない。

 

 でも、自分のわがままを時雨に伝えてしまったら、きっと時雨は遠くから、あきをすくい上げに戻ってきてしまうことを、あきは知っている。

 

 小さなカフェで働く背中や、面倒くさそうながらもお店のみんなと話す姿、日焼けした肌が、頭の中を駆け巡る。

 いえない。時雨はあきよりもずっと、ずっと前を進み続けているのだから。

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