時雨と紅葉。

二十話 夏祭りの静かと涙

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「どうかした? 美味しくなかったかい?」

 

 前を向くと、シチューを食べ終わりそうにしているお父さんが、あきを心配そうに見下ろしている。食べ終わらないのは、あきが食べ進めるスピードが遅かったからだろう。気遣われていることに胸がいたくなって、慌てて食べ進める。

 

「そんなに一気に食べたら喉に詰まってしまう。ゆっくり食べなさい。……なにか、考えごとがあったんだろう?」

 

 父親と過ごす夕食の時間は、きっちりと決められている。十九時半からちょうど一時間、他愛もない話をしたり、テレビを見たりしながらゆったりと過ごす。それはここ数ヶ月で絶対的な親子間の約束になっている。時雨と一緒にいたときは、お腹が空いたらその都度ふたりでどうするか決めていたから、百八十度真反対の生活になったというわけである。

 

 正直あきにとっては、両方が両極端すぎて、どちらが普通なのか検討がつかなかった。

 

 そんないつもの夕食時――これを逃したら言い出せないと感じながらも、一時間のタイムリミットが刻一刻と迫っていくのに焦りを感じながらも、切り出せないでいた。美味しくなかったかと問いかけられたのは、ちょうどその折だった。

 

(今しかない……)

 

 あきは大きく頷いたあと、シチューを慌てて喉に駆け込んで(もちろん良質な素材を活かして作られたそれらが、美味しくないはずがなかった)、空っぽになった食器たちの隣りにあったスケッチブックを手に取った。

 

「おかわりはいる?」

 

 書きながら、首を横に振る。

 

「そう。きみは中学三年生ととんでもない食べ盛りのはずなのに、いやに少食だね」

 

 でも、美味しいよ。そういおうと思ったけれど、もうスケッチブックに別のことを書きはじめてしまったから、消して別のことを書いてしまうと、経験上相手の混乱を招いてしまう。コミュニケーションは難しいということを、あきはお父さんと暮らしはじめてから何度も感じた。

 

「『クラスの子とお祭りに行きたい』っていうのは、いつも話してくれている城田くんのことかな?」

 

 曖昧に、だけどはっきりと頷いた――うそをついた。
 ほんとうはお祭りには、時雨と行くつもりだった。

 

「ああ、そういえばきみの学校の近くにあるのかな。結講このへんじゃ、大きいお祭りだもんね。それに、城田くんなら安心だ」

 

 ――きみは藤野さんとまだ、会っているんだね。どうして?

 時雨のことは、いえない。いったらきっと、お父さんは許してくれないのだから。

 

(お父さんに、うそ、ついた。ごめんなさい)

 

 あきはスケッチブックになにかを書くふりをして、目の前で朗らかに笑うお父さんから目をそらした。

 

「ただ人が多いからね。はぐれないようにしっかりと城田くんと行動するんだよ。ちなみに、城田くんの他には、だれかと行くの?」
『いかない。城田とだけ』
「そう、わかった。帰りは時間になったらお迎えへ行くよ――といいたいところだけど、七時までじゃさすがに遊びきれないよね」
『八時まで、城田とお祭りいってもいい?』
「いいよ。夜ご飯はお祭りで食べておいで。でも、心配だから八時になったら近くまで迎えに行こうか」

 

 すこし迷って、頷いた。こういうときのお父さんは、絶対に譲らないのだから。

 

『ありがとう』
「クラスメイトと遊ぶことも大切だからね、楽しんでおいで。ただ、やっぱり、携帯がないとどこにいるのか分からないから困るね……まあ仕方ないね」

 

 あきは一度だけ、お父さんに携帯をねだったことがあった。お父さんがいない間に家の電話から時雨のダイヤルを鳴らしていたころ、城田が使うのを見たからだった。城田が「おまえ、今どき携帯も持ってないってやばいよ」といわれて焦ったことと、いつでも自由に時雨と連絡が取れると感じたことからだった。

 

 お父さんはやさしく笑って「いつか、必要になったら用意しよう」とだけいった。

 

 ――私のところではなく、藤野さんと暮らしたいと、まだ思っている?

 

 あきは、自分が信用されていないことを知っている。だからお父さんは――。
 ぼくが時雨に会いたいと思うことは、お父さんにとって裏切りなのだろうか。どうしてお父さんは、ぼくを時雨と会わせたくないのだろう。あきには、父親の気持ちがわからないでいたけれど、あの夜以来時雨のことは口にしなくなっていた。

 食事を終えて一緒に皿洗いをし、歯を磨くと、用意された広い自室へと向かう。

 

「もう寝るのかい?」

 

 すこしも眠くなかったけれど、今日は学校の宿題もない。勉強の遅れを取り戻すべく学校から与えられた課題は、暇を持て余すうちにすべて終えてしまった。

 

「おやすみ」

 

 おやすみなさい、唇を動かして、頭を下げる。そうして、二階への階段を上がった。

 

 ――おやすみ。

 お父さんのことばを、繰り返す。

 

 電気を付けずに、暗闇の中を泳ぐようにして広いベッドにうつ伏せになって倒れ込む。頭まで布団をかぶって、ぎゅっと目を閉じた。それなのに、眠気はいつまで経ってもやってこない。

 

 ――きみは藤野さんとまだ、会っているんだね。どうして?

 

 時雨があきを家の前まで送ったあの日、お父さんはあきの小さなからだを覆うようにして、雑踏のように激しい雨音に交じる中、あきにしか聞こえない声でそういった。梅雨の雨のようにしっとりとした、生温かい空気に交じったそれは、なんとも形容しがたい声色だった。反射的に時雨の方を向いたけれど、車は雨にかき消されるみたいに、遠く遠くなっていった。

 

 肩を抱くお父さんの手が、リュックの中にあるスケッチブックを取ろうとするあきを阻んでいるようだった。まるであきのことばは必要ないみたいに。見上げると、強い雨からあきのからだを守るようにこちらを覗き込んだお父さんの瞳は、なにやら茫洋としていて――ここにはないなにかを見ているみたいだった。

 

 ――私のところではなく、藤野さんと暮らしたいと、まだ思っている?

 

 そのすぐあとに、お父さんが掠れた声で名前を呼んだ。でもそれは、あきの名前ではない。
 
 
「若菜」

 

 あの雨の日と同じ温度で、縋り付くように、今日もお父さんはその名前を呼んだ。
 あきのからだはその刹那、まるで石のように硬くなって、冴えた頭を心から切り離して眠りについたふりをする。

 

 包み込むというよりは、支配するように、それは丸く硬くなったあきのからだをがんじがらめにするように絡め取って。

 

「若菜、やっと戻ってきた。私の若菜」

 

 わかな。わかな。わかな。

 お父さんの声は、夜半の間じゅうあきのからだに降りかかる。

 

(これは夢だ)

 

 短い眠りを繰り返すような、全く眠れないような、そんな日が続いていた。

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