時雨と紅葉。

十九話 梅雨入りと意地っ張り

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 狭いホールスペースを行き来して働いているときにはあんなにも長く感じる時間が、悔しいがあきと過ごす休日にはあっという間に過ぎていく。夕刻に差し掛かると、あきはベッドから抜け出して身支度をする。何度か邪魔しようとしたが、『やめて』といわれた。

 

 すこし慌てた様子でバタバタと身支度をするあきを、後ろから羽交い締めにするみたいに抱き寄せて顔中にキスをしてやったら、恥ずかしそうに顔を赤らめながらも頬をつねられる。

 

『しつこい』
「んだと? どうせおまえ門限ギリギリまで居すぎて焦ってんだろう。途中まで送っていくよ」
『くるま?』
「そう、あれ」

 

 あきは時雨の攻撃を避けようとしているというのに、鈍くさすぎてまったく避けられないでいながら、こくりと頷いた。時雨はようやくあきを開放して身支度をすませるのを見届けてから、家を出た。ジメジメした空気が、部屋の扉を開けた瞬間からむわっと二人のからだを流れてくる。急にざあざあと振りつける雨の音が大きくなった。すぐそこの駐車場から車に乗れば雨の影響などなにも受けないというのに、時雨は途端に面倒になり(やっぱりやめときゃ良かった)と顔をしかめる。そんな様子を全くわかっていないあきは、頭の上に「くるま、くるま」と音符をつけるように軽い足取りで、小さなビニール傘を持っている。

 

 駐車場に向かうだけだというのに律儀にも傘をさすあきがもたついているのを待って、歩き出す。あきが時雨の服の袖をグイグイ引っ張って、手のひらを捕まえた。時雨は傘をさしていなかったから、傘の意味もなくあきの手が雨の下に晒される。

 

『かさは?』
「めんどい」
『濡れたら寒いよ』
「なわけないだろう。こんな蒸し暑いんだから。……なんだよその顔は、じゃあ入れて」

 

 あき仕様の小さな傘は、なんと狭いことか。時雨は反対側の肩が濡れることは対して気にせず、あきが持っていた傘を攫うと同時に小さなからだを引き寄せて歩き出す。

 助手席に座ったあきは、何やら気恥ずかしそうにもごもごしていた。

 

「家どのへん? ……なにかいいたいことある?」
『あいあい傘』
「まあ、……数十メートルだけどね」
『恋人がするって、城田がいってた』

 

 こいつの情報源は“城田”ばっかりだと呆れる。「相合い傘は恋人同士がするんだ」とあきに教えている顔も知らない中学三年生の男は、時雨にとって妙に幼く思春期というイメージである。そんなことを改めていうなんて、なんだかモテなさそうでもあった。

 

 家の中じゃ当たり前のようにくっついているというのに、そんな他愛もないことがこいつの中では照れてしまうのかと考えると――ズレているといえばズレているが、それでも可愛いことには変わりない。

 帰したくないという気持ちを飲み込んで、時雨は「なんだそれ」といいながらあきの頭をくしゃくしゃ撫でた。
 
 
 車で送るといったのは、焦っているあきを目にしてから口をついて出た気まぐれであったが、雨の日に住宅街の人間が考えることはみんな同じだったらしい。途中渋滞にはまり、想定よりもいくぶんか時間を使ってあきの家のあたりに到着した。これまで時雨はなんとなくあきの家の場所を聞かないようにしていたが、「どのへんまで行けば良いの」と聞いたら、あきは自宅の住所を(おまけにマンションの部屋名まで)あっけらかんとした様子で伝えてきていた。別にあきのほうは特に意識しては居なかったらしい。

 

「ほら、そろそろ着くぞ」

 

 そわそわしているこいつを見ると、おそらく門限は七時といったところか。時雨は自分の中学三年生のときのことはなにも思い出せなかった(おそらくそんなものはない)が、とにかくその時間は家族があきをひどく大切にしている証のような気がした。

 

 途中あきが指をさすのを見ながら家の付近までいくと、目視で住宅を確認する前に、道路付近で傘をさしている男が目に入った。先程まで道端で歩いている人々とは明らかに異なる雰囲気で、すぐに外人だとわかった。

 男はすらっとした体躯に合った大きめのビニール傘をさしながら、感情の読み取れない妙な表情で左右を見回している。あきがあっと気づいたのを見て、父親だと確信した。

 

「下ろすぞ」

 

 こくんと頷かれるのを確認して、時雨は車を停める。あきは慌てたようにシートベルトを外して、不器用な手つきで車のハンドルを開ける。時雨が開けてやる隙もなく、小さなからだが車を飛び出した。ハンドルが開いた刹那、またあのうるさい雨音が耳を騒がせる。

 

 あきを見つけた男が、安堵したように笑う。はっきりと、――高村に見せられた写真の中と同じ、不思議なヘーゼルの双眸が顔をのぞかせた。男の方まで一目散に走っていったあきが、時雨のほうを指さして、なにか伝えようとしていたが、リュックに入ったスケッチブックを取り出す暇を与えずに、男がやさしげな口調でなにかを語りかける。

 

 頷いたあきが男の傘の中に入って、自分の小さな傘を閉じた。すらっとした長い腕があきの方に回って、雨から守るように小さなあきを引き寄せる。

 

 時雨はふたりの背中がマンションへ向かうのを確認して、そっとアクセルを踏み込もうと目の前に向き直る――ふいにもう一度ふたりの親子の背中を追うと、男に肩を抱かれながら顔だけをこちらに向けたあきと、目が合った。

 雨で濡れた窓のせいで、ただでさえ読み取りにくいあきの表情はまったくわからない。たっぷり数秒視線を絡ませたあと、あきは緩慢な動作で時雨から目を離した。

 

(あれがあいつの親か)

 

 水商売をしていた谷口若菜と十数年前に出会い、谷口若菜はそのときに授かった子どもを産んだが、短期間の出向中だった男はすぐに国へ帰る。それでも谷口若菜とその子どもであるあいつのために、日本に居られるところへ異動し再び戻ってきた。

 

 金持ってそうだった――と考えると、自分の見た目に無頓着なあきが、最近は妙に小洒落た格好をしているのが分かる。

 携帯が振動していることに気づいて、取り出した。

 

『おー藤野。おまえ今どこだ? バイトの鶴見さん体調不良、よっておまえは夜から出勤ね』
「無理、今日休み」
『いいから早く来いよ』

 

 なにかと思えば、新山からの非常出勤命令である。頭の中で店回りの駐車場を確認しながら、時雨はアクセルを踏んだ。

 

 どうせ今日は雨だし日曜日だし、客数はそんなに多くないはずだ。あきといるときだって常に無音の中にいるはずなのに、ひとりでいると激しく窓を叩く雨は妙にうるさい。

 

 大企業勤めで、外国人で、本当に血の繋がった金持ちの男――理想の塊のような父親に連れられながら、これまでろくな職にもつかず適当に生きてきた男を振り返って、何を思うというのだろうか。濡れたガラス越しに見えたあきの表情が、頭からはなれない。

 

(相合い傘は恋人同士がするんじゃなかったのか)

 

 煙草に火をつけてふと思った。あきがいる間にはもう、ほとんど自分が煙草を吸わなくなっている。

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