時雨と紅葉。

十九話 梅雨入りと意地っ張り

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(痩せたな)

 

 差し出した上でに寄りかかる頭の重さ……ではなく、昨日抱き寄せたときにからだに当たった胴体や腕、足の肉づきを感じながら、なんとなくそう思う。出会ったときは木の枝のようだったからだが、一緒に暮らして食に意地汚くなっていくうちにすこしだけふっくらとしてきて、それでももうすこし太らせる前に姿を消したと思ったら――またこれである。

 

(木の枝……ほどじゃないけど)

 

 時雨は自分の腕を敷きながらそばで眠りこけている小さなからだを見やる。全く起きる気配がない。さきほど久しぶりに部屋へ来たと思ったらあっという間にソファでうつらうつらしていたので、抱き上げてベッドに寝転んだ瞬間これだ。

 

 あわよくばさわろうと考えていた時雨の期待は一瞬にして砕かれた。毎度のことながら、自分に対して欲望を丸出しにしているおとなの前だというのに、こんなに警戒心なさげに寝られると返って拍子抜けしてしまう。

 

(疲れてるか)

 

 おそらく慣れない生活なのだろう。あきは時雨と暮らしはじめた当初あまり良く寝られない表情をしていることがあったから、想像はつく。面倒くさがりな時雨と金持ちできっちりしてそうな外人のオッサンとの暮らしぶりが百八十度異なるだろうということは間違いない。

 

 顔に色濃く映る疲れた表情を、哀れに思うと同時にどことなく優越感、そしてもうすこしすればその生活に慣れていくだろうことへの苛立ち。相反する様々な感情が時雨を襲った。

 

 出ていったのは、桜もまだ蕾な春の入り口。既に桜は散り、茂っていた緑も気温が上がるにつれて暑苦しいものになっていく。この梅雨が明ければあっという間に夏である。

 

 あきは合鍵を渡したにも関わらず、二週間に一度ほどのレベルでしか顔を見せない。生きているのか死んでいるのかわからないから携帯に定期的に連絡を入れるよう強い口調で伝えたら、3日に一度は固定電話から無言の連絡が来るようになった。とはいってもしゃべれない人間と電話でどんなコミュニケーションも取れるわけがないので、すぐに切るが(そもそも時雨は仕事をしていて出ない日すらある)。

 

 電話が来る時間は、夜中だったり朝早くだったり、夕食時だったり。

 

(父親に見つからない時間にやってんだろうな)

 

 あきはおそらく、自分の存在を時雨に話していない。時雨はなんとなくそのことを理解していた。訪れる頻度がすくないことが、自分を好いていないこととイコールになるとは考えない。一緒にいて、相手が自分をどう思っているかの予想くらい、目の前の人間の姿を見ていれば分かることである。

 

 午前中にあきが訪れたときには、体力が残っていればどこかへ連れて行こうと考えていたが、午後を過ぎてもすぴすぴと寝こけているわあいにくの雨だわで、部屋から出ようという気持ちはとっくに消え去った。

 

(へんな夢でも見てんのか)

 

 あきの眉間に皺が寄っていることに気づいて、そこに触れようと人差し指を差し出した。

 

「……っ」

 

 ぱん、という音が聞こえたのは一瞬のことだった。張り裂けるような音とともに、あきの目が不自然なほど急激に見開かれる。あきは目が覚めているのかまだ夢と区別がつかないのか、目をパチパチさせながら時雨と――自分が手のひらで打った時雨の手とを交互に見つめた。そうして能面には珍しく、困惑したような表情になる。

 

『ごめん』
「はよ。こわい夢見た?」

 

 小さな頭をシャッフルするみたいに、ぶんぶんと首を横に振る。そしてもう一度同じことばを時雨の腕に書いた。時雨は表情を崩さずに、どうしてよいかわからずにいるようなあきのからだに両手を伸ばして、はたかれないと分かるとずいっと自分の胸に引き寄せた。

 

『ごめん、しぐれ』
「なにがだよ、手叩いたこと? 別にいいよ」

 

 時雨は考えていることをさとられないように、何度もあきの背中を撫でた。はたいたのは自分だというのに、あきは時雨の腕の中で安堵するように徐々にからだから力を抜いていく。ぎゅうっと抱きつくようにして、あきが小さなからだを押しつけてくる。

 

「へんな夢でも見たか」

 

 首が横に振られる。スケッチブックを取ってなにかを書くかと思ったが、あきはなにも語ろうとしないまま、ただ時雨の腕の中でじっとしていた。

 はたかれた腕が、じわっと熱を持っている。時雨はあきがどんな夢を見たのか、だれと自分を混同したのか知りたかった。でも、あきはなにもいわない。なにか自分の怖いものが過ぎ去っていくのを見送るように、ただ小さくなって時雨の腕の中にいた。

 

 ――いえよ、だれと間違えた。

 

 何度かそういおうと考えたが、やめた。

 最近の、この強情でかわいくない小さな子どもに訪れた変化。

 

 それは、思っていることを素直に表現することがなくなった。なにか明確な含みを持ったり、隠し立てをしたりするようになったこと。今日のように。――それが時雨は気に入らない。

 以前に口が滑ってそのことを茉優やリョウタの前で話したら、

 

『あの子今年で中学3年生でしょ? 保護者に話したくないことの一つや二つ、あるに決まってんじゃない』

『むしろ今まであんなに可愛かったのが普通じゃないっすよね。まああいつ隠し事しててもそれはそれで可愛いけど。……もしかして、遅れてきた反抗期っすか?』

 

 といわれた。

 どちらも自分を親、あきを子どもと見立てた意見だったのが妙に気に食わなかったが、そういうこともあるものだと思うことにしている。

 

 一緒に暮らしていた頃は、あきは世界に対するどんな自分の感情も、隠し立てすることなく時雨へとぶつけていた。

 

『ま、おとなになろうとしてんのよお。あの子も。おとなになると隠しごとが多くなるのよ』

 

 気に食わないものは気に食わないが。

 

(いえよ)

 

 我慢するなよ、いやなことはことばで示せよ。

 ぎゅうっと、さっきよりも深く抱きしめると、それに合わせるようにあきが時雨を抱きしめる力を強めた。

 

「おまえ、最近全然自分のこと話さないんだな」

 

 意識しないでそれとなくいおうとしているのに、苛立ちがいつもより低い声となってことばになる。違和感に気づいたあきが顔を上げたのを見計らって、顔をくしゃくしゃに撫でて噛みつくようにキスをした。

 一気にからだが緊張で固まったことに気分を良くして、呼吸をさせる暇もなく矢継ぎ早に舌を絡ませてやる。あきの手がぎゅっと服の裾を掴むのがわかった。これは「苦しい」という抗議だったが、苛々していたので無視して時雨のペースで小さな口内を蹂躙する。

 

「……っ」

 

 きれいなヘーゼルの瞳からは生理的な涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのと、顔を赤くくしゃくしゃにしているのと、息を荒くしながらも稚拙な様子で応えてくるのに、たまらなくなる。時雨が明確な意図を持ってキスを仕掛けるようになってから、人形のような小奇麗な風貌が徐々に気持ち良いところを見つけて乱れてはじめているのを見ると、この瞬間だけは、――もうおとなではないか、とすら錯覚する。

 

 理性の檻がバラバラと砕け散りそうになるのを感じながらも、苦しいという抗議の腕が力をなくしはじめたのを感じて、顔を話した。

 

「……ハア……っ」

 

 うめき声のような息をして、涙を零したあきが呼吸を整える。そのまま組み敷きたいのを抑えて、時雨はぽんぽんと頭を撫でた。熱っぽい昂ぶりを抑えながら、(こいつはまだ子ども)と、何度目かわからない呪文を唱える。

 

『したいこと、ある』

 

 一瞬ピンとこなかったが、「おまえ、最近全然自分のこと話さないんだな」に対する答えであることを、なんとなく察した。

 

「なに」
『しぐれ、一緒にきてくれる?』
「いやだ……んな顔すんなよ、嘘だよ。考えてやるよ」
『夏になったら、おまつり』

 

 城田が教えてくれた、と、そのあとに以前学校の話をしていたときに非常によく出てきた名前(というよりも、その名前以外は聞かなかった)を出しながら、じっと見上げられる。そういえば、夏になればそんな行事もあったかもしれない。時雨は何年も行っていないその場所を連想してみたが、うじゃうじゃと人がいる様子しか思い当たらない。

 

 そんな人ごみ絶対にゴメンだ――といいたかったが、「いいよ」と頷いた。よりによってなんでそんなに人ばっかりいるところに行きたがるんだ、と思ったが、すこし考えて『教えてくれた』ということは、おそらく一度も行ったことがないのだろうと妙に納得してしまう。

 

 ――親父と行かなくていいわけ?

 

 意地悪な質問をして困らせてやろうと思ったが、やめた。あきがゆるりと口角を上げて、不器用に笑ってみせたからだった。

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