時雨と紅葉。
十八話 引っ越しと春終わり
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「絶対間違えるなよ」と耳にタコが出来そうになるほど口酸っぱく時雨から指定されていた駅を、無事に下りたところまではよかった。ただ、駅からその場所までの地図を読み取ることが、あきにとっては至難の業だったのである。細かくメモをもらっていたはずであり、さらにいえば徒歩五分圏内だったはずだというのに、結局ガラス張りのそのお店が見えてきたのは、駅を下りてからたっぷり十五分以上経ってからだった。
この通りから一本先に出たところに、有名な桜並木が続いているらしく、お花見ラッシュが大変だったと時雨はぼやいていた。あきはなぜか散りきって生い茂った桜並木の方へ出てしまって、(これがあの……噂のさくら……)と妙に納得してしまった。すっかり緑づいた通りだったが、ここが一面桃色に染まっていたらさぞや美しい景色になっていたことだろう。
通りに面した店内がガラス張りになっていたせいで、中の様子がよく見えた。こぢんまりとしたイタリアンレストランは、当然あきにとって馴染みのないもの。おしゃれな席ではそこそこの人たちがお茶の時間を楽しんでおり、ゆったりとした雰囲気だ。夜はお酒を飲むところになるみたいだが、奥の方にあるあのカウンターでお酒が注がれるのだろうか。
ちょうど入り口あたりがレジになっており、よくよく目を見張ってみると、無愛想な姿が映った。見たことのない格好で、女性二人組のお客様となにかやりとりをしている。店内へ入るという選択肢が頭からすっぽりと抜けてしまい、あきはなぜか伺うようにガラス越しに時雨の姿を見つめる。
何やら難しそうなボタンの並ぶレジを操作する時雨の手つきは、こなれているようだ。仕事をはじめてから数ヶ月経ったからか、時雨はお店の雰囲気にすっかり溶け込んでいる。あきにとってすれば、あまり見慣れないけれど。
スラッとした女性ふたりに何やら話しかけられていたらしい時雨は、ピクリとも笑わずに小さくくちびるを動かしている。また何か問いかけられて、口を開くと同時に斜め下を向いていた顔が正面へ向く――あっという間に、パチッと目が合った。
あ、眉間のしわが増えた。
そう思った刹那、レジ前と女性二人組をかき分けてこちらに向かって歩いてきた時雨が、お店の扉を勢いよく開いた。
「おまえ、おっそいんだよ!」
リン、という来店を知らせる涼し気な音とともに、あきの頭上に雷が落ちた。そのまま引っ張られて店内へ招かれる、というよりは引きずられる。
「どこで道草食ってたんの、まっすぐ来いっつっただろ」
あきは開口一番にいわれるであろうこのことばについては、(こんな怒鳴られるとは考えていなかったが)突かれるだろうと心得ていたため、電車の中で書いたスケッチブックを取り出して時雨に見せる。
『高村さんがチョコレートフラッペチーノとシフォンケーキくれたから、カフェに行ってた』
「ものでつられてんじゃねーよ……しかも食い過ぎだろう。もーなんなの、約束は守れよ」
『ごめんなさい』
スケッチブックを持っていた方の手首を引っ張られて、奥の方にある目立たない席へと連れて行かれる。途中何度も視線が刺さることに気づいて、時雨に隠れながらそっと周囲を見渡すと、周りのお客様だけでなく、フロアにいた他の店員さえも時雨とあきとを交互に注視しているようだった。
(時雨、怒鳴ったから?)
手首には遠慮なく力が込められていて、痛かった。
しばらく歩いたところで時雨が立ち止まって、あえなくその背中に激突しそうになりながらも慌てて立ち止まった。
「はい、来た。大遅刻だけどね」
「相変わらずマイペースねえ、あきは」
「……っ!」
女性としてはややハスキーで落ち着いたその声に、ひょこっと時雨の背中から顔を出す。数ヶ月ぶりの茉優が、久しぶりと仕方なさそうに笑った。あきはぽかぽかと数回時雨の背中を叩いて、茉優の前にいそいそと座った。
「今なんでこの子は時雨を叩いたの?」
「いってなかったから、早くいえって拗ねたんだろう」
『まゆ、ひさしぶり』
久しぶりに会う茉優は、いつも時雨の家にくるときのような地味な色のそれではなく、今日は真っ白のトップスに薄い水色のカーディガンと、女性らしい服装である。薄い化粧が茉優のはっきりとした顔立ちによく似合っていた。
『いつもよりかわいい』
「そう? あんたと会ってたときとあんま変わんないと思うけど、ありがとう」
『平日ひまなとき連絡して、うちの店来い』といわれたのはちょうど一週間前に時雨の家にいったとき。指定があったのはそれだけだったから、まさか茉優がいるなんてすこしも思っていなかった。
久しぶりの茉優の姿に、嬉しいという気持ちがたちまち胸の中に広がっていく。
『まゆ、元気?』
「それはこっちのせりふよお。ついに時雨に愛想つかして出ていったっていってたけど、今は元気にやってるの?」
「そんな理由じゃないから」
いつの間にか水とメニューを持ってきた時雨が、あきの前にそれらを置いていく。あきはそれを眺める前に、時雨の腰辺りにひっついていた布をペラペラと引っ張って、それから目の前を通り過ぎようとした腕を捕まえて文字を書く。
「違う、なにいってんの。サロンっていうの、ほら、後ろはちゃんとジーンズ履いてんだろう」
「あきはなんて聞いたの?」
「『なんでスカート履いてるの』って」
茉優が笑った。あきは時雨と茉優にばかにされていることなど気にせずに、疑問が解決した後も興味深くそれをひらひら手のひらで遊ばせていた。
「なんか飲んでいいよ」
『フラッペチーノある?』
「ねえよ。つーか、さっき飲んできたんだからデブになるだろう。おまえどうせコーヒーは無理だから、カフェラテね。砂糖も持ってきてやるから」
『泡のついたやつ?』
「そうそう」
茉優が「相変わらずねえ」と笑う。相変わらずとはどういう意味だろうとあきは首を傾げるが、時雨は「別にそーでもないよ」と言い返して踵を返していく。あきは残ったメニューを覗き込んで見る。日本語で書いていれば読めるのだが、なぜか下に小さく英語も書かれている。
『ここのお店は、外国人もくるの?』
「まあこないこともないけど、おしゃれよおしゃれ」
……おしゃれかあ。あきは首を傾げながら、ところどころの漢字を飛ばしてメニューをじっと見つめる。聞いたことのないカタカナがたくさんありすぎて、見た目の想像もつかなかった。
ふいに、茉優が半ば呆れたようにあきの方を見つめた。あきは「なあに?」というように首を傾げたが、茉優が視線を送る先はあきの顔付近とは妙にズレていて――どちらかというとすこし上の方……。
「だあーれだ」
明るく太陽のような声とともに、目の前の視界をバッと覆われて、その声色と手の感触ですぐに分かる。リョウタ!と答えようとして、答えるすべがないことに気づき、両目を覆われたまま左右をキョロキョロする。
「えーあき、さてはおれのこと忘れちゃったの?」
「答えられないんじゃない?」
「あ!そうかあ、ごめんごめん」
ひょいっと手を離されると同時に上を向くと、時雨と同じ格好をしたリョウタと目が合った。目を細めると同時に思い切り歯を出して笑う、懐かしいリョウタの笑い方に、あきの表情筋もつられるようにすこしだけ動く。
「久しぶり、あき」
こくこくと頷いて、スケッチブックに手を伸ばす。
「『リョウタ、ひさしぶり』って、それさっき茉優さんにやったやつ、上から消しておれの名前書いてるじゃん!」
『ごめんなさい』
「それ……おれさっきひと通りあきと時雨さんのやりとり見てたからわかるけど、時雨さんにやったやつだろう……すげー使いまわし……」
リョウタはあきの頭に手を伸ばしたが、「いけない、仕事仕事」といって手を引っ込める。
「時雨さんがいってた時間よりもだいぶ遅かったから、どこで何してるのかと思ったぞ。おまえやっぱり時雨さんを怒らせる天才だよなあ」
「あいつ今日どんどん機嫌悪くなってったもんねえ」
「そうそう! 終いには店頭で怒鳴らせるんだから、おまえやっぱり大物だよなあ」
ふたりが楽しそうに話をしていることの半分も理解が出来なかったが、どうやら時雨が怒っていたことだけは理解した。
変わらない、ふたりの姿。そう思って、気づく。
(でも、茉優はすこし髪の毛が伸びた。それに服がカラフルでひらひら。リョウタ、ぽかぽかしてるけど、髪の毛の色が変わってまぶしくなくなった)
その真実が、あきの胸をツンと動かした。あきは意味がわからずに胸をひと撫でして、それから難しそうなメニューへと目を凝らす。一気には読めなさそうな不思議な響きの名前は、どんな料理かという想像すら出来ない。
「あき、おまえ飯食ってくの?」
首を横に振った。
『気になっただけ。帰ったらお父さんがいつも用意してくれる、それを食べるから』
「あーそっか。おまえ今家族と住んでんだもんなあ。おまえと同じ目をした親父だろ? とんでもない美形なオッサンなんだろうなあ」
お父さんの姿を想像して、コクンと頷いた。花のような美形というよりは、大柄で逞しい様相だったが、それを表現するすべはなかった。学校で美術の授業があったが、出来上がった作品を見た城田が顔をしかめて「おまえ、一生理解されないピカソ」といったほどだったので、まさか絵を書くことも出来ないのである。
「にしてもあんたが普通の家で暮らしてんのかあ。なんか、変わったわねえ」
茉優がすっきりとした人の良い顔をわずかにほころばせて、あきを見る。曖昧な顔で頷いた。
(ぼくはなにも変わっていない)
変わらなきゃいけないのに、環境に心がついていかない。そこに理由が見いだせなくて、また心がすこしだけもやもやしてくる。
「ほら、どうぞ。メニュー満足した? 下げるぞ」
時雨は最初からあきがなにも食べないことなど知っていたかのように、カフェラテとメニューを交換するみたいにする。手を伸ばそうとしたが「んな勢いよくさわるな。熱いぞ、火傷したって知らないから」と釘を刺されてノロノロとスピードを緩めた。
伺うように時雨を見上げると、その後ろに時雨とは違う人の影があることに気づく。体格の良い時雨にギリギリ隠れきらないそれに首を傾げたら、吹き出すような声が聞こえてきた。
「シェフ、なんでいるんっすか」
リョウタのそんな声とともに、ひょいっとその影が姿を現す。
「んー? いや、藤野を怒らせてるやついるって思ったから見に来た」
藤野、は、時雨のこと。
ずっと一緒にいたというのにここ一ヶ月で知った時雨の名字を復唱して、頭の中で『時雨を怒らせてるやついる』と変換してみる。
ぼくのこと?
(時雨が怒るのは、いつものこと)
イライラすればするほど、すぐにあきに当たるのである。のろま、ばか……そんなのがもっぱらだけれど。時雨とそのひとを交互に見ながら、あきはそう思った。
あきから見た新山は、時雨の部屋でつけっぱなしのテレビにほんのいっとき目を向けたときに見えたアニメのコックさんの姿とは妙に異なる様相だ。何やら高級食材を扱う雰囲気をふんだんに醸し出す全身真っ白の服、細長いへんてこな帽子と、極めつけは左右対称にSの字に映えるひげ――そんなイメージだったのである。だが新山は、コックさんよりもずっと若々しいし、黒いテロっとしたシャツに時雨と同じ黒いサロンを巻いているだけで、ひげもSの字に生えてはいない。時雨よりはおじさんに見えるけれど。
「見すぎだよ、おまえ」
「もしかしておれは珍しいの? 穴が空きそうだなあ……」
時雨の呆れた声と、まんざらでもなさそうな新山の声で、ようやくあきは自分が新山をずいぶん長い時間を掛けて観察していたことを知る。たしかに城田にも「おまえ、花とか草とか見たことなさそうなもん見るとき、すっごい集中するよな」といわれたことがある。なんで初めて見たかどうか分かるのかを聞いたら、「いやわかるだろう。小学生みたいな露骨な観察の仕方だもん」とこともなに続けるのだ。
「はじめまして、普段はこの店にいるけど、一応オーナーの新山です。きみのお噂は藤野、茉優、リョウタあたりからかねがね」
「俺はなにもいってないから。こいつらがおしゃべりなだけ」
すっと大きな手を差し出されて、あきは(これは握手? 手を差し伸ばすのが正解かな?)と思いつつも緩慢な動きで手を伸ばすと、ぐいっと握られて軽く上下に振られる。顔には全く出なかったが、あきは握手という行為そのものに珍しさとうれしさを噛み締めた。
新山の手はひんやりと冷たくて湿っている。
「俺仕事戻るけど、ゆっくりしてきな。……いや、一応おまえが時間どおりに来るって信じてその時間に休憩入れてたからおまえのせいだよ」
もう行くのといわんばかりの顔をしたあきが、スケッチブックになにか書く前に、不機嫌な声が帰ってくる。あきは仕方がないと思い、反省の意味も込めてコクリと頷いた。
「あと、今日ディナー混むから油売ってないで、とっとと仕込みしてくださいよ」
「ちょっとだけだよ」
軽口を叩きあいながら、新山と時雨の背中が遠くなっていく。
ちょうど何名か華やかな春の服装をした女性が入店した。時雨は笑顔ひとつ浮かべず「いらっしゃいませ」とお客様の元へと早歩きで向かっていく。あきは引き留めようとスケッチブックに手を伸ばした姿勢のまま、見慣れない時雨の姿を追った。
「……え、なにあいつ、エスパーなの?」
「時雨さんはあきに関してはエスパーっすよ。おれ全然わかんないときあるっすもん」
「まあ、そこは否定出来ないわね。一緒にいた時間も長いし」
近くで交わされる会話は、あきの耳をただの音として抜けていく。店内を回る時雨に合わせた視線は、不思議なほどあちこちへ動く。ときにはお客様のオーダーを受けて手元のメモに何かを書き込んだり、レジ前でお会計をもらってはあきが到底さわったことのないような機械を手早く操作したり、新しく入店したお客様を空いている席へと案内したり、時雨と同じ服装のスタッフに何かを指示したり。
「店員さんのおすすめありますかー? それがいいなあ」
「モテそうですよね? 彼女とかいるんですか?」
「こんにちは、また来ちゃった。ここのコーヒー美味しかったんです」
時折織り交ぜられるきらきらした女性たちの声をあしらいながら、涼しい表情でテキパキと働く時雨は、知らないおとなみたいだ。よくよく周囲を見れば、あきほど遠慮ないほどではないが、チラチラと時雨に視線を送る女性が、店内にたくさんいる。
(時雨が、ぼくをすきっていった)
――しぐれがさっきいった。キスはすきなひとしかしない。
――だーかーらー。今、してんだろ。
でもあれは、まだ空気の冷たい冬の真ん中だった。時雨は新しい世界にいってから、すきなひとがぼくから変わってしまったらどうしよう。きれいな女性と毎日あんなふうに接していて、キスをしたらどうしよう。
急に、これまで感じたことのない不安があきの頭をよぎった。
女性に囲まれて接しているという日常なんて、時雨にしてみればこの店に来る前――ホストとして働いている頃から変わらないことなのに、急にその現実を実際に目の当たりにした刹那、寂しさと不安がぐちゃぐちゃになって膨らんでいく。
新しいことが楽しいことを、あきは知っている。
城田と並んで帰るようになってから、あきはこれまで知らなかった道端の花に目を向けるようになった。最初きれいだと感じていた花があっても、次々にきれいな花が見つかれば、以前に見つけた花にそんなに目を向けなくなってしまうことはある。
(新しい花を見つけたら、ぼくはいらない?)
時雨が持ってきてくれたカップを両手に持つと、それはすこしぬるくなっていた。砂糖を入れずに口をつけると、舌にふれたそれはひどく苦い。
早く、ぼくはお父さんと家族になりたい。普通の暮らしを、普通に出来るようになりたい。
だって時雨は、いつの間にかぼくの知らない世界をどんどん広げて、いろんなところを歩いている。それが、とても不安で――。