時雨と紅葉。

十八話 引っ越しと春終わり

55

 また、高村に捕まってしまった。

 校門を出たら当たり前のように周囲と溶け込まないツルッとしたスーツを着こなす細身の姿が見えて、あっと逃げようとしたが遅かった。


「お茶でもどうですか? スイーツもつけますよ」といわれて、逆らうことが出来なかったのである。

 

 自分の名誉のためにいいわけをすると、決してスイーツということばに惹かれただけというわけではない。父親と暮らし始めてから約一ヶ月半ぶりの高村との再会だったので、すこし懐かしくなったのである。

 

 ひょこひょことついてくるあきを見て、高村がへんな顔をした。見上げると、「子どもってわからないですね……僕のこと、怖がってたはずなんだけどな」と、ボソボソとした独り言をいっている。

 

 高村が黙ってさえいれば時雨とずっと一緒に暮らせたのに――お父さんと暮らしはじめた頃はそう思ったこともあったが、同時にお父さんと暮らすことを決めた自分に、高村があれこれと世話を焼いてくれたこともよみがえった。つまり、あきはこの真面目で融通の利きそうにない堅物な男が、そんなに自分にとって悪い人間ではないことを、もうすでに知っているのだ。

 

(校門にいたら、怪しいけど)

 

 以前も高村と来たカフェに入ると、コーヒー豆の匂いが鼻をくすぐったが、あきにはそれがなんのかおりなのか判別出来ず、すん、と何度も周囲の匂いをかいだ。

 

「なにしているんですか? 動物ですか? ……きみ、前のカフェラテでいいの?」
『上に泡がついているやつがいい』
「甘いのは好き? チョコレートは?」
『すき』
「そう、わかりました」

 

 高村はメニューの前ですこし考えるようにしてから、「ブレンドと、チョコレートフラペチーノ。両方ともトールサイズでお願いします」とオーダーした。あきはショーケース内に飾られているスイーツを覗き込む。これが、高村のいっていたスイーツだろうか?

 

「これからくる飲み物はスイーツなので、ケーキまで食べたら太りますよ」

 

 え……ケーキを買ってくれるっていうから、ついてきたというのに、これはだめなのだろうか?

 

「……なんですか、その目は。わかりましたよ、いいですよ。ひとつ選んでください。ああ、あからさまに目がキラッとしましたね」

 

 あきはショーケースにペタッと貼りつくようにして、中身を凝視する。後ろのすこしきれいな男女が、あきを見てそれから高村を見てから微笑ましそうにひそひそと談笑していたが、当の本人は気づくことなく、たっぷりと時間を掛けてシフォンケーキを選んだ。ふわふわしていて、美味しそうだったのが決め手である。

 

 オーダーを終えて支払いを済ませた高村がため息を吐いた。

 

『高村さん、ため息。お金が高かった?』

「うちの事務所なめないでください。そうじゃないです。きみのせいであらぬ誤解をされていました」
『誤解ってなに? それは高村がため息つくことなの?』
「きみは慣れるとよく喋りますね。声が出ない以外はまるで普通の子どもだ。いい加減同情する気もなくなってきました」

 

 ――おまえ、カワイソウだよね。おまえは普通に生きているのに、同情されて。
 ――しぐれは“どうじょう”しないの?
 ――しねえよ、なんでだよ。おまえばか天然だけど、普通に暮らしてるし図太いし食にがめついし、普通の子どもだろう。

 

 以前、時雨にも同じようなことをいわれた。時雨はあきに同情をしないということ。それと感覚が似ているのだろうか。

 

「なんとなく、きみが藤野さんのところで居心地よく暮らしていた理由がわかる気がします」

 

 時雨はあきを特別扱いしない。悪いことをしたら怒るし、なんなら自分がイライラしているときは八つ当たりしてくるし、お父さんみたいにやさしく包んで守ろうという意図は感じられない。これまでの時雨との生活が当たり前過ぎて、大切にされすぎることには慣れていないのかもしれない。

 

 神妙な顔つきになって考えはじめたあきを、カウンターから飲み物とシフォンケーキを受け取った高村があごでしゃくった。さしずめ、席を取れということだろう。あきは周囲を探してあいている席に座ろうとした。

 

「そこ、『予約席』って書いてあるから、こっちね」

 

 結局過度に探し回っているうちに、先に高村が座った。

 

「見ているだけで胸焼けします。……シフォンケーキとフラッペチーノなんて、今はいいかもしれませんが将来は太りますからね」
『高村さんが食べたら太る? 時雨も?』
「僕たちは確実に太りますよ……年いってますからね。年取れば取るほど太ります」
『高村さんは何歳?』
「今年で三十三になります」
『時雨はにじゅうはちだ。高村さんの方が太る』
「はいはい、本題に入れないんでさっさとケーキ食べてください」

 

 軽くあしらわれて、目の前にふわふわしたシフォンケーキと、太いストローの刺さったチョコレート色のフラッペチーノを差し出される。そしてフラッペチーノの上には……泡ではないけど、ホイップクリームが乗っていた。あきは甘そうなそれに目を輝かせる。

 

「カフェラテの泡は甘くないですよ。このホイップクリームの方が何倍も甘いですから」

 

 こくこくとうなずいてから待ちきれないとばかりにフラッペチーノに手を伸ばしたが、あっと思い立ってスケッチブックを手に取った。
 まずは先に、こっちである。

 

『ありがとう』

 

 急いで書いたからか、いつもよりも汚いその文字を見て、高村がやや刮目する。すこしの間を置いてからうなずいたのを確認すると、あきは素早い速さでフラッペチーノへと再び手を伸ばし、冷たいそれを持ち上げてストローに口をつける。

 吸い込むと、ひんやりとしたものが口の中に入ってきた。濃いチョコレート味に時折チョコチップが交じったそれは、とても甘くて美味しい。しゃりしゃりした、ゆるいアイスのよう。冷たい。美味しい、甘い。

 

(これ、はじめて)

 

 ひとしきり堪能したところで、シフォンケーキにも手を伸ばす。うまくフォークを差し込めずにケーキを思い切り引き倒してしまったが、なんとか大きめの一口サイズをフォークに乗せる。口の中に入れると、しっとりとしたケーキの甘さがじんわりと口の中に広がる。

 

(ケーキ、美味しい……)

「よくそんな甘い物ばっかり食べられますね」

 

 スケッチブックに手を伸ばす余裕はないくらい目の前のスイーツに夢中だったため、悠長に感想を述べる余裕はなく、ただ相槌を返すにとどめた。

 

 ケーキを完食し、フラッペチーノも残り半分以下になってきて、(もうちょっとでなくなっちゃう……)と考えてから食事の速度を落としたあきを見計らって、目の前で砂糖もミルクも入れずに苦そうなコーヒーを飲んでいた高村が口を開いた(コーヒーは時雨が飲んでいたし、あきも遠い昔に舌をつけた記憶があるので知っている)。

 

「お父さんとの生活、どうですか?」

 

 あきはここから本題であるということを露ほども思い当たらなかったが、欲求が満たされたため、スケッチブックを取り出して、書き出す。

 

『よい感じ。お父さん、やさしいよ』
「そうですか。なにか藤野さんのときと違って、困ったことはありませんか?」
『困ることない。お父さんの家は時雨の家よりも広いし、ごはん美味しいし、お父さんはいろんなものをくれる。やさしいよ』

「藤野さんの家は、結講いいビルだったでしょう」
『ちょっと前に引っ越した。お金がすくなくなったって』
「ああ、なるほど」高村は意味がわかったようで、考えるようにうなずいた。「ということは、きみ、最近藤野さんに会いましたね」

 

 そうだ、高村にいわれたんだった。あんまり会わないほうが良い、そして、会ったことをお父さんにはいわないほうが良いって。一瞬高村にもうそをつこうと考えたけれど、やめておとなしくうなずいた。

 

「頻繁に会っているのですか?」

 

 それは、違う。首を横に振った。

 

「お父さんのそばは、藤野さんのそばにいることと違うでしょう。それがきみのストレスになっていないかが、すこし気がかりだっただけです。その証拠にきみはお父さんを“やさしい”というでしょう?」

 

 だってお父さんは、やさしい。
 それのどこがいけないというのだろう。

 ぼくに不自由がないように、ひどくやさしくしてくれる。

 

 仕事明けの休日でも時雨みたいに昼まで寝ていることはないし、ぼくにご飯を作り忘れることもなければ、帰宅が深夜を回ることも、まして酔っ払って帰ってくることもないのである。

 

 ぼくは普通に暮らしている。間違っていないはずだ、と、あきは思う。

 

「“やさしい”は悪いことじゃない、でもそれだけだよ。やさしいことだけが、きみがお父さんをすきになったり、大切にしたいと思ったりできる理由にはならないからね。……まあ楽に暮らせているのなら良いんだけどね」

 

 ふいに、楽ではないと、今スケッチブックに書いたら、高村は仕方ないとつぶやいてぼくを時雨のところに戻してくれるだろうかと考えた。だけど、書きかけた文字を頭の中で消去して、別のことばへと変換する。まだ、自分が子どものままでは時雨と一緒にはいられない。

 

 お父さんの作ってくれるごはんは、レストランで出てくるそれのように彩りよく食卓に並ぶ。

 

 家には必要なものはなんでも揃っていて、部屋は綺麗に整頓されている。起きたままの形で放っておいた布団も、夜寝る前にはきちんと元の状態へ収まっている。

 

 お父さんはやさしくぼくを抱きしめて、おはようとおやすみのときにキスをくれる。同じ色の瞳にぼくの姿を映しては、かわいがってくれる。

 

 不自由なことなんてなにもない。やさしい世界。

 

 ――“やさしい”は悪いことじゃない、でもそれだけだよ。やさしいことだけが、きみがお父さんをすきになったり、大切にしたいと思ったりできる理由にはならないからね。

 

 それはどうして?

 

 あきは小さな頭の中でぐるぐると考え続ける。アイスが溶けるようにどろどろになっていくフラッペチーノをすすりながら、頭がお父さんと時雨との生活を巡った。

« | »

スポンサードリンク