時雨と紅葉。

十八話 引っ越しと春終わり

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『長く海外で暮らしていたんだけどね、きみときみのお母さんが忘れられなくて、グループ会社へ行って日本常駐の仕事をもぎ取ったんだって。日系企業の管理職だから、衣食住は心配ないどころか、最高品質な暮らしが約束されているってことだけど、……わかりますか?』

 

 わからないが、うなずいた。何度か高村の話を聞いているが、わからないというと高村なりに難度を下げた話をするが、それもまるでわからないのである(こういうとき時雨は「おまえにはわからないから」とさじを投げるのだが、どっちもどっちだ)。

 

 高い細身のスーツを着こなし、エリート街道まっしぐらという面構えで機械のように接してくる高村の話は、一般常識が著しく欠如しているあきにとって常に語りかけられる話の半分以上が知らない単語で埋め尽くされている。

 

 理解したことといえば、お父さんはお母さんと結婚したわけではないけれどあきのことだけ残していて、だから僕の名字はお母さんの名字のままになっていたこと。お父さんは日本をはなれたあと二度結婚したが結婚生活は順調に行くことはなかったこと、そしてその理由はお母さんのことが忘れられなかったということ。ぼくの存在はずっと知っていて、日本で仕事をすることになったら必ずお母さんとぼくと暮らしたいと思っていたこと。

 

 高村に連れられてたどり着いた高層マンションの十数階で、あきはすこしも馴染みがないというのに透き通ったヘーゼルアイがよく似たお父さんと再会した。マンションは賃貸の仮住まいで、これからは一軒家を買ってそこで暮らそうといわれたが、意味がよく分からなかったので曖昧な表情で頷くにとどまった。

 

『きみにずっと会いたがっていた、きっとうまく行くよ。それでも、もしもなにか不都合が起きたら、遠慮なく僕に相談してください』

 

 高村の名前の書かれた名刺をもらうが――下の名前は読めなかった。あきはうなずいて、それをカバンに仕舞う。

 お父さんはあきの名前を何度も読んで、ガイコクジンらしい大きなからだでぎゅうっと抱きしめた。血の繋がりなんて微塵も感じない、はじめて会うようなぞわぞわした緊張感が訪れたが、ヘーゼルアイとやさしそうな目元が印象的で、ついからだの緊張を緩めてしまう。このひとがお父さんだということを、心は知らないけれどからだは知っているみたいだった。

 

『ああ、本当に久しぶりだね。今日から一緒に暮らせるなんて夢のようだ』

 

 流暢な日本語は、お母さんのために覚えたのだろうか。

 こくりとうなずいた。お父さんはあきが話せないことをすでに承知しているような面持ちで『大丈夫だよ、話せなくたってきみのことは僕が守ってあげよう。なんたってかわいい一人息子なんだからね』と頬ずりをする。

 

 そうして、あきの小さく細いからだを抱き寄せながら、感慨深い様子で続けた。

 

『――こうしてそばにいると、よく分かるよ。ますます若菜にそっくりだ。若菜が戻ってきたみたいだよ』

 

 お父さんは、お母さんが大好きだった。それは、高村から聞いていた。だから、どこかへ行ってしまったお母さんの代わり、というように、お父さんの背中にゆるく手を回してみた。倍以上の強さで、抱擁が帰ってくる。
 
 
「おかえり、遅かったね。きみにとっては珍しい外出だ」

 

 息を切らして玄関口をくぐると、すでに帰宅していたお父さんが、ネクタイを緩めたまま仕事帰りの姿でリビングからこちらへ向かってくる。走って飛び込んだマンションのエレベーター内で急いでスケッチブックに書いたガタガタの字を見せるのと同時に、ガバっと頭を下げる。

 

『七時、間に合わなくてごめんなさい』

「いいんだよ。もともと七時というのは、私が心配なだけだからね。それよりも、無事に帰ってきてくれてよかったよ」

 

 高村いわく『ガイジンの挨拶はみんなそう』という熱い抱擁と頬へのキスを受けてから、あきはほうっと安堵して息を吐く。お父さんの後をついていくように、靴を脱いで玄関口を抜けた。

 

『どこへ行っていたんだい? 藤野さんのところ?』

 

 ――いいかい? きみはお父さんの前であまり藤野さんの名前を出さないことだ。会いに行くかどうかは別として、そのことも口出ししないほうがいい。そのせいできみのお父さんが、またきみが外へ出てしまうのかと不安になるかもしれないからね。

 

 高村からのアドバイスどおり、首を横に振った。

 

『学校の帰りに、城田と一緒に遊んだよ』

 

 本当は学校へ行かずにあの部屋へ向かったのだが、お父さんのやわらかい顔立ちがくしゃっとますますやわらかくなる。穏やかな笑い方をすると、普段は若々しいお父さんの姿に、すこしの老いが重なった。

 

「そうかい、それは良いことだね。だけど、あまり遅くなると心配だ。きみは若菜に似てとても可愛らしい顔立ちをしているからね、だれかに攫われたらと思うと、気が気でないんだ」

 

 お父さんは心配症だ。普段は鈍感なあきでさえそのことに、早くから気づいた。だからなるべく心配させないために、早く帰っていたし、時雨のもとへいくのも気が引けていた。

 

 お父さんに余計な心配を掛けたくないと我慢しつつ、一方で時雨に会いに行く機会を伺っていたものの、お父さんは仕事へ出ていても必ずといってよいほど七時前に帰宅するため、良い日が見つからずにいた。

 

 ――探り探りのうちに、どうしても会いたくなった。学校も振り切って飛び出すのに、一ヶ月も掛かってしまったのである。

 

 日によって遅くなったり早くなったり不規則な時雨と違い、お父さんの仕事はひどく規則的だった。

 

『あんまり心配しないで。来年には高校生になるんだから、大丈夫だよ』
「そうだね。ご飯の準備をしておくからお風呂に入っておいで」

 

 うなずいて、浴室へ向かった。そうして、お父さんと二人で向かい合って、食事を取る。はじめこそあきの食の細さに心配をしていたお父さんだったが、なんでもないように暮らすあきを見るにつれて食事量の少なさには納得したらしく、今ではあきの食べられる量しか盛られていない。色とりどりのキラキラした野菜やお肉で彩られた美しい食事は、時雨といるときに食べていたものと全く様子が違った。美味しいというのに、たまに茉優の作ってくれるたまごや時雨と一緒にキッチンへ並んだカレーが懐かしくなってしまうのは、贅沢なことなのだと我慢する。

 

 食事中はお父さんの問いかけにイエスかノーで答えるしかすべがない。たまに小難しい回答が必要になると、家にいる間はあまり気にせずどこかへ放っておくのとは異なり、いつでもそばにおいているスケッチブックに書き込んで、それを見せた。

 

 コミュニケーションは円滑だった。だけど、時雨とならもっとうまく話が出来るのに。

 今日あったばかりだからか、時雨なら、時雨なら、ということばが頭をよぎって、もう会いたくなる。

 

「おやすみ、明日は土曜日だけど、お父さんは仕事なんだ。朝は起きなくて良いから、いい子にしていて」

 

 挨拶と同時にキスをされる。同じように返すように教わってからというものの、習慣のようにキスを返して、自室へ向かった。どっと疲れて、ふわふわとした寝室へずるずる滑るようにして潜り込むと、いつの間にか緊張していたからだがベッドと溶けて交わるようにからだが緩まる。

 

 一緒に暮らしはじめて、一ヶ月。お父さんは、まるで砂糖菓子のようにふわふわとやさしい。

 

 この部屋も、お父さんがすべてそろえてくれた。一人には大きすぎるふかふかのベッドも、勉強机も全部。黙っていてもキラキラのご飯が出てくるし、お風呂はカビ一つなく綺麗に整えられている。至れり尽くせりな生活だった。

 

 ――最高品質な暮らしが約束されているってことだけど、わかりますか?

 

 その意味は、なんとなくわかってきた。

 この家は、なにひとつ不自由なものなんてなくて、あきを守るように作られている。

 

 なのに緊張するのは、時雨との暮らしに慣れてしまったせいだろうか。

 

(時雨と一緒は、へんなことされるといやだけど、緊張したりしない)

 

 お父さんと上手に暮らさなきゃいけない、本当の家族なのだから仲良く暮らさなければいけない。なにより、やさしいお父さんのために、いい子でいたい。

 

 目を瞑ると、あっという間に眠気が襲う。

 引越し作業をしたからだろうか、からだの疲労も手伝って、いつもより早く夢の中へ誘われる。
 
 
 夢を見る。お父さんが、やさしく微笑んでぼくを見下ろしている夢。

 

 しあわせなはずだ、ぼくは一歩一歩進んでいる。

 はやく、時雨とおなじに。

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