時雨と紅葉。

十八話 引っ越しと春終わり

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 引っ越しとは、なんと難しいことか。夕刻に差し迫った頃にあきの胸をいっぱいにしていたのは、とにかくぼくはもう引っ越しをしたくない、ということだけであった。

 

 荷物は重いし、ものをへんなところに置けば気づいた時雨からは「おまえ考えろよ、頭沸いてんのか」とイライラされるし、だから考えてからダンボールに手を伸ばそうとしたら「そっちはいいからこっち手伝え」だの「おまえは貧弱なんだからそんなの運べるわけないだろ」だの、とにかく小言がひどい。

 

 夏の訪れをほんのりと感じさせるような五月の生暖かさに、動き回るからだはすぐに火照っていく。小奇麗な服装で来てしまったあきは、熱さを逃すことが出来ずにじわじわと汗をかくだけだったが、時雨は白い半袖のTシャツに飾り気のないタオルを巻いて、テキパキと働いていた。

 

 作業をしながら盗み見る。時雨はすこし痩せた――というよりも、からだが引き締まったような気がする。Tシャツからのぞく二の腕が、いつか見たよりも筋肉質になった。なんだか、しっかり、というイメージだとあきは思う。

 

「はい、お疲れさん。おまえは引越し業者には絶対になれないね。他にもなれなそうな職業いっっぱいあるけど」

 

 ひと段落した居間でペタッと座り込んでいたあきに、最後まで嫌味を付け加えられてペットボトルが渡される。むっとしながら受け取ったら、買いたてのペットボトルで濡れたその手がくしゃっとあきの汗ばんだ頭を撫でてから離れていく。ひんやりと冷たい。それだけで、(しぐれはぼくが役立たずなんだ)とむくれていた気持ちがやわらいで、すこしずつ元通りになっていった。

 

 三階建てアパートの二階端っこ。広めの1Kはやや古びていて、時雨と過ごしたあの家とはずいぶんと様相が違った。居間の真ん中――潰したダンボールのとなりでペットボトルのキャップを開けたあきと距離を置いて、時雨は錆びかけのベランダの扉を網戸にしてたばこを更かしている。

 すでに夕日が翳っており、影のような赤い光が伸びるように部屋へ差し込んでいた。

 

(たばこ……)

 

 こうしておおっぴらにあきの前で吸うことは、あまりなかったというのに。

 時雨はベランダの外を眺めながら、疲れたからだを癒すように煙を楽しんでいる。

 

「あ? なに?」

 

 視線に気づいた時雨がそういうので話そうとして、この距離では話せないことに気づく。時雨のそばへ移動している途中に、時雨は吸い始めたばかりのたばこをあっという間に灰皿へ潰した。

 

『たばこ』
「今更だろ」
『そんなすう?』
「仕事変えてからイライラすることも多いからなあ。たしかに、量は増えたかもね」

 

 他人事のようにそういう。

 イライラすることが多い――そんなふうにいっているのに、あきはもう時雨がホスト時代よりもずっと仕事のことをペラペラ話すのを知っている。それに、仕事が、というときにすこし難しそうにしわを寄せる時雨の顔があきはすこしすきだった。同時に、自分の知らない世界を語る時雨のことは羨ましいし、さみしい。

 

 そばに寄ると、ホスト時代には知らなかった、汗とたばこのにじんだ匂いがした。

 

 ひさしぶりの、時雨。

 いつ行こうか……悩んでいたら、こんなに時間が経ってしまった。

 

 むくむくと湧き上がる、――会いたかったという気持ち。時雨にどう伝えて良いかわからなくて、こてんと、すこし逞しくなった方におでこを寄せる。

 

 だらんと開いていた手のひらに、さっきから気になっていたことを書き綴った。

 

「……しぐれしっかり、ってなに?」

 

 指で時雨の二の腕を指すと、ああ、というように納得する。

 

「あー、なるほど。太ったってことはないと思うけど。前は酒飲むだけだったからね」
『しっかりした』
「そうそう、しっかりした。おまえはあんまり変わらないね、細い」

 

 時雨が両手であきの胴を捕まえて、ずるずると引きずってくる。すこしくすぐったい。たしかめるように自然な手つきで確認するようにからだをさわられた。

 

『しろたがいってた、成長期がくるって』
「今中学三年生だっけ? ……まあ、そろそろ来てもおかしくないかもね」
『そうしたら時雨みたいになる?』
「ならない。遺伝子っつーもんがあるわけよ。……あ、でもおまえの父さん結講がっしりしてるようなイメージだったか、若菜さんは細かったしなあ」
『いでんし?』
「おまえが成長するかは親がどうだったか次第でもあるってこと。おまえは絶対に若菜さん似だからね」

 

 ――若菜にそっくりだ。

 

 それは、再開したお父さんにもいわれた。時雨のところへ行く前までは何年も一緒に暮らしていたというのに、正面から顔を見ることが極端に少なかったせいで、細く華奢だったからだつきくらいしかろくに頭に残っていない。たしかに母は小柄だったとあきは思う。

 

『ぼくは、おかあさんに似てる?』
「あー……からだつきはね。性格とかは全然。むしろどうやっておまえのその意味不明に純粋な性格は出来たんだろうね、突然変異?」
『とつぜんへんい』
「いきなりそうなるってこと」

 

 ぼくの性格って、意味不明なの?

 

 たしかに城田にも、「おまえへんだね」って口癖みたいにいわれることを、思い出した。あきはすこし考えて、でもやはりよくわからずに首を傾げる。おまえはそれでいいよと、時雨が目を細めてすこしだけ笑った。

 

(笑った……)

 

 ――昔紅葉の散るころに、へんな体制になっていたおとなに持っていたペットボトルを渡した。お母さんがああなると、お父さんではない男のひとがたまにそうやってお母さんにペットボトルを渡すところを見ていたから。錆びた公園の水道で、ペットボトルとあきの顔とを見上げたあの淀んだ瞳は、もうどこにもない。

 

 あきは、時雨とおなじになりたい。と思った。

 家を出て普通の家族のかたちを取り戻したら、前を向き始めた時雨と、もっと対等になれると思っていた。

 

 それなのに時雨は、自分を置いてどんどん遠くへ行ってしまう――そんな気がして、ふつふつと焦燥感が沸いていく。手のひらから人差し指を抜いて、あきはこてんと時雨にからだを傾けた。

 

 今、ことばが出なくて良かった。と、あきは思う。

 ことばは、想いが口をついて出てしまう。だからときには、時雨の迷惑になることを口走ってしまうかもしれない。でも、伝えることを自然と出来なければ、それが我慢になる。あきは時雨に置いていかれたくなかったけれど、それ以上にキラキラしていく時雨が何度も振り返るような、足かせのような存在になりたくはなかった。

 

(しぐれが、遠い)

 

 こんなにも近くにいるのに。あきだけが、地べたから生えた草木が足にからみついて邪魔をしているように、同じ場所から動けない。そんな気がした。

 

 時雨とあきの影法師が伸びて、やがて暗がりと一緒に溶けてしまおうとしている。

 あきが立ち上がろうとしたら、それよりも早くに伸びてきた時雨の腕がそれを阻止するみたいに捕まえる。ぎゅうっと抱きしめられて、時雨の匂いがいっそう近くなった。

 

 ――もう帰るから。

 

 そんな意味を込めて時雨の胸を押したけれど、ぴくりともしない。

 

「おまえ、家族とうまくやってんの?」

 

 時雨の唇があきの耳元へ寄せられたせいで、耳がくすぐったい。それに、からだを包み込むように抱きしめられたせいで、時雨の呼吸や胸の鼓動までが伝わってくるようで、自分のものも伝わると思うと、急にからだがそわそわした。

 

 うなずいた。うまくやっている――、やらなければいけない。時雨とおなじになりたいから。

 

「おまえ、コミュ障なのに、コミュニケーション取れんの?」

 

 もう一度うなずく。

 

 もっぱらスケッチブックをフル活用して……だが。時雨とだけコミュニケーションを取っていた頃には知るよしもなかったが、リョウタや茉優、城田と話すようになってから、基本的にコミュニケーションはスケッチブックが良いことに気づいていた。時雨であれば問題なく進むあきなりのジェスチャーや手のひらコミュニケーションは、なぜか他のひとだとずいぶん難しいのである。

 

「あー、そう」
「……」
「どーせ、帰るんだからどけとでもいいたいんだろう」

 

 そういいながらも、時雨はあきを通せんぼするかのように、腕にちからを込めている。これまでも歯が立たなかったというのに、“しっかり”になった時雨にかなうはずもない。

 

『もんげんが、しちじ』
「……早くないか? おまえ小学生だと思われてるだろう」
『おとうさんがしんぱいって』
「なんだそれ、過保護かよ。でもおまえ、結講いい暮らししてるみたいだしなあ。服とか、これ高いだろう」

 

 シャツを掴まれて、これ、といわんばかりにひらひらされる。

 

「高い服はさわり心地がちがうからなあ……」
『しぐれ、さわり心地良いほうがいい?』
「ん。さわり心地は良いけど……これは、脱がせたい」

 

 最後のひとことに怪しい雰囲気を感じて、あっと感じて急いで距離を取ろうと思ったが――遅かった。いうやいなや、それまでもてあそぶようにしていた手のひらが、服のなかに我が物顔で忍び込んでくる。からだを引こうとしたがもう片方の腕で固められ、背中を生暖かい手が直に擦る。

 

「……っ」
「警戒しないおまえが悪いよ」

 

 時雨の黒々とした瞳が妖しげに揺れて、あっという間におとなの表情へと変わる。見つめられて、逃げるように顔をそらしたら、目尻についばむようなキスをされる。何度かいたずれた感覚があっという間によみがえり、条件反射のようにからだが熱を持った。

 

 七時までに帰らなきゃといったそばから、それを破れといわんばかりに拘束をしてくるのだから、時雨はやっぱりいじめっこだ。

 

「……帰りたい?」

 

 時雨のからだをぐいぐい押しながら、何度も頷く。そうしていると、若干力を緩めた時雨がはあっとため息を吐いて、「あーそう」と気だるげにつぶやいた。すねたような口ぶりに、バタバタしていた手足を止めて、時雨を見上げる。

 

「かわいくないね、おまえ。さみしいとか思わないわけ?」

 

 それは、時雨がさみしかったということだろうか?

 怒っているような、不安なような、呆れたような……いつもはあまり見ない微妙な時雨の表情に、あきはパチパチとまばたきをする。時雨、どうしたんだろう。自分をじっと見下ろす時雨と視線を合わせて、首を傾げる。

 

 ぼくがかえるっていったらいじわるしていたけれど、それはもしかして――。

 あきは自分の中に浮かんだひとつの仮説をたしかめるように、時雨の顔に手を伸ばす。

 

「なに」

 

 先ほどと同じ、すねたようなそれ。
 時雨の目元にふれ、それから両手で顔を挟み込んで、微妙なその表情をじっと見上げる。

 

『しぐれ、さみしい?』

「逆におまえはなんでそんなに飄々と帰ろうとしてんの。一ヶ月ぶりなのに」
『ぼく、あいたかったよ』

 

 きょとんとしながらもそう伝えると、時雨の表情がへんなふうに崩れた。それは、あきの不確かな語彙力ではいい表せないような、複雑なものだった。

 一ヶ月ぶりの時雨との再会を、あきなりに緊張して、それでも楽しんで過ごしたのは事実だ。それなのに時雨は、つまりもっとさみしがれといいたくてむくれているということだろうか?

 

『しぐれ子どもみたい』
「うるさいよ。一ヶ月も待たすおまえが悪い」

 いつも時雨がするみたいにくしゃくしゃと髪の毛を撫でたら、ぎゅうっと抱きしめられた。

「本当は帰したくないけど、こういうふうに帰されなくなるのがいやだったら、……もっとこまめに顔を見せなよ」

 

 こくりとうなずいた。そうして、今度はあきも力いっぱい時雨のからだを抱きしめる。

 そうしていると、安心する。時雨のとなりは、いつも落ち着くのだ。

 

『しぐれ、かぎちょうだい』
「いいよ」
『勝手にきていい?』
「連絡手段ないからな。携帯の電話番号は教えてるけど、おまえ喋らないし。勝手に来れば」
『たまごつくっていい?』
「俺がいるときにして。危ないから」

 

 あきは時雨がやさしいことを知っている。

 本当は、自分で運べない重さのダンボールを、憎まれ口を叩きながら自分が変わってくれることも。あきがそばに寄ろうとしたら、もったいないって素振りもなく火をつけたばかりのたばこを潰したことも。

 

『くちびるにしていい?』
「なんでそこだけ下向きながらなの」

 

 呆れたような声とともに、後頭部に回された手に導かれる。

 わがままが叶うなら、この狭くて古臭い部屋で時雨とずっと一緒にいたかった。でも、今は我慢しなければいけない。だって、あきは時雨とおなじになりたいから。

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