時雨と紅葉。

十七話 春と少しの距離

52

 かえる。

 そういったあきの真意が、時雨はなんとなく分かる気がしている。

 

 前に進むということ、一歩おとなになること。
 変わることが、時雨とあきにとって必要なステージだったということ。

 

 変わることが心地よい環境にならないことも、必要だからという理由で振り切った。

 

 だから家族の元へと去っていく子どもは止めなかったけれど、もう一度あいつの中身の入っていなさそうな小さい頭を振ってやりたい。おまえ、いつまで姿を見せないつもりだ、それでおまえはなんともないのか? と。カラカラ音のしそうな頭をくしゃくしゃにしてやりたくなる。
 
 
 
     *
 
 
 
 働き詰めの日々が続いていた。久しぶりの休みだというのになにもする気が起きないまま、日が高くなっても浅い眠りを繰り返していた頃、どこからともなくカチャカチャとなにかをいじる音が聞こえてくる。連日の疲れで睡眠を欲していた脳が、それがはっきりと認識した刹那、それまでのだるさを忘れてぴんと覚醒したような気がした。

 

 布団から起き上がって、空耳かと思って再度耳をすます。やっぱりその音が、部屋の奥――キッチンから聞こえていた。起き上がって、乱れた寝癖とジャージをそのままに、リビングへと歩き出す。

 

 リビングの扉をそっと開けると、キッチンに相変わらず小さなほっそりとした背中がある。それは不器用な手つきでなにかをかき混ぜているけれど、――きっと卵だ。必死過ぎてこちらに気づく素振りすら見せない背中に近づいて、手を伸ばす。

 

「……っ」

 

 驚いたのか、びくっと震え上がって緊張したからだが、胸の中にすっぽりとおさまった。そういえばこいつはすこし前に強姦されたんだった。こういうのはビビるかとちょっとかわいそうに思い、上から覗き込んであきと目線を合わせてやる。驚いて目を見開いていたあきが、パチパチとまばたきをして、それからこくりとうなずいた。

 

 さしずめ、来たよ、というところだろう。来たよじゃねえよ、と胸の内で毒づいた。どんだけ待ったと思っているんだ。小憎たらしい能面を見下ろしながら、頬を引っ張る。

 

「おはよ。なにつくるの、おまえ」
『たまごかけごはん』
「全然進歩してない。料理の勉強サボってるんじゃないの」

 

 やさしいお父さんが、なんでも作ってくれんの? それとも大手企業の豪邸には家政婦でもいんの? ――嫌味のひとつでもいってやりたかったが、通じないのでやめた。

 

『ちがくて、朝だから、かんたんなのをつくる』

 

 回された時雨の肘にあきが文字を書いている。意味のわからない理由だ。

 久しぶりの噛み合わない会話になつかしさを覚えながらも、『うでのせいで料理できない』ともじもじしているあきに気づかないふりをしながら、小さなからだを堪能する。頭のてっぺんに鼻先をうずめてみると、知らないシャンプーのかおりがした。

 

「おまえ、くるの遅すぎ」

 

 春の盛りはとっくに過ぎている。うるさいくらいの緑が生い茂って、店も落ち着いた頃。連勤の疲れが、さみしさで紛らわせなくなってきた頃。あきがいなくなってから、一ヶ月が経っていた。

 

 以前はこうして抱きしめられることくらい日常茶飯事だったというのに、久しぶりだからか顔を赤く染めながら肘でぐいぐいからだを押される。そこに一抹の気恥ずかしさのようなものを感じ取って、ほんのりとした優越感に浸った。仕方ないので離れて、あきが料理を終えるのを待つ。

 

 こいつには久しぶりだから甘えたいみたいな可愛げはないのかと不服に思うが、時雨はいつも通り、結局あきのペースに合わせてやろうと思い直すのであった。

 

 リビングで座りながら壁時計に目をこらそうとして、そういえば壁時計はすでに外していたことを思い出す。携帯を確認すると、もうお昼時。

 

 向かいに座ったあきと一緒に遅い朝食を取った。相変わらず、時雨の分はたまごひとつに対して釣り合わない量の白米がこんもりと乗っている。

 

 目の前で、半分以下の量のたまごかけごはんを食べるあきを一瞥する。服は、見たことのないものだった。父親に買ってもらったのだろうか。落ち着いた色味のシンプルなものだが気品があり、グレーの色味が中性的なあきの顔立ちによく似合っている。憎たらしい。

 

 以前と比べても軟弱そうなからだは変わりないが、これといって痩せこけたり顔がこけたりはしていない。

 大切にしてもらっている――というよりも、さてはこいつ、やっぱり金持ちの家に行きやがったかと思う。

 

「おまえ一ヶ月なにしてた」

 

 遅い食事を続けるあきを、先に器をすっかりからっぽにした時雨が聞く。あきはちらっとこちらを向いたが、マイペースは健在らしく、

 

「今食事中だから、スケッチブック使えません」といわんばかりに答えずに食事を続けた。美味しかったというようにからっぽにした器を置いてから、脇に置いていたスケッチブックに答えを書きはじめる。

『中学3年になったよ、学校いってた。お休みはおとうさんと家にいた』

「あーそう。おとうさんね。おまえ大丈夫なの、トロいけどイライラされてない? 俺はいらっとしてたよ。今でもたまにするし」

 

 あきが「大丈夫」というようにうなずいた。さらっと心配と嫌味を交ぜてみたが、あきはそれ以上答えず能面のまま。結局一ヶ月も部屋に来なかった理由はよくわからなかったが、しつこく聞くのもアホらしいと思い、時雨は早々にちゃんと会話することを諦めた。

 

 並んで皿洗いをしてから、リビングへ戻る。あきが時雨の袖を捕まえて、手のひらを指でなぞった。

 

『にもつまとめてる、なんで。へやがしずか』

「殺風景ってこと? 使わないいらない荷物は送ったんだよ」
『ぼくのソファもない』
「おまえのじゃないけどね。それに、ちょうどよかった。――おまえ、渡した鍵返せ」

 

 弾かれたようにあきが顔を上げて、じっと時雨を見る。しばしの沈黙のあと「やだ」と首を振った。そうして背を向けて帰ろうとした。捕まえたけれど、腕のなかで暴れられる。

 

「違う、違うから怒るなって……面倒だな。おまえに来ないでっていってるんじゃなくて、その鍵はもう使わないの」
「……?」

「引っ越すってこと」

 

 抵抗をやめたあきが、「引っ越すって、なあに?」という目で時雨を見上げる。こてんと小首を傾げられて、そういう仕草がいちいちかわいいなと思いながらも、湧き上がってくる欲を抑えて、小さな頭に手を置くようにして撫でる。子ども子ども。こいつはまだ無垢で幼稚な生き物なんだから、と、頭を撫でることによってへんな感情を規制した。

 

「ちょうどいいから、おまえも手伝って。引っ越し作業するから」

 

 ぽかんとしていたあきが、それでも時雨が「もう会わない」といっているわけではないことを知ると、一瞬だけ甘えるようにぎゅっと抱きついてから、『なにするの』と聞いた。

 
 
 ――お父様とはうまくやっているようですよ。

 

 腹立たしいのは、あきから自分の暮らしを報告するよりも先に、あきが去った二週間後に高村が現れ、おせっかいにもあちらの暮らしをペラペラと喋ったことであった

 

 まだ夜は冷え込む時期だというのに、ご丁寧にもマンションの前で待ち伏せをされた。出来ることなら無視したかったが、あきの不器用さは折り紙つきだったので、そのあたりは悔しいが気になっているところだったので、立ち止まってつい聞いてしまった。

 

 ――事務所ってひまなの?

 ――報告の義務はあるかなと思いまして。あちらのお父様はご連絡をよこさないでしょう、せっかく戻ってきた息子さんのことですから、かなりご執心だったようですし。

 ――あっそ。うまくやるってことくらい知ってるよ。

 

 あいつは前を向いて、ここを出ていったのだから。
 高村は怜悧な双眸をすこしだけ緩めて、ことばにしなかった時雨の思いを読み取ったようだった。

 

 ――ホスト上がりの半端者かと思いましたが、意外に頭いいんですね。

 

 差別や嘲笑の入り混じったことばを選ばない実に不躾な物言いだったが、高村は深く頭を下げて去る。それ以来、高村がマンションへ訪れることはなかった。

 

 引っ越しの手伝いにこき使おうという浅はかな考えは、すぐに打ち破られた。なぜかというと呆れるほどにあきは使えなかった。まず重いものは持てない、この時点で戦力不足は明らかだったが、おまけに何をするにもひどく不器用で要領を得なかったため、ダンボールにものを詰めるのも仕分けるのもとにかく下手である。

 

(こいついないほうが早く終わるんじゃないのか?)

 

 久しぶりの来訪だというのに早くもイライラしたが、一生懸命「てつだう」という意思表示は見て取れたので、「ばか」「のろい」「そっち持って」とちょこちょこ動くそれに指示を出しながら、なんとか業者の手配を済ませ、持っていけるものは最近めっきり使っていなかった車に積んだ。

 

 ベッドだけは後から持ってこようということで、置いたままにしたが、それ以外はすっかり物が消え、ガラガラの状態になる。

 

『ちがう部屋みたい』
「あー、そう。ちなみに次の新しい家は狭いよ。おかげで家具をいくつか捨てる羽目になった。おまえのソファもね」
『せまい部屋に引っ越すの? なんで? ぼくがいないから?』
「あほだね、おまえなんかいたって何の場所も取らなかったんだから関係ないっつの。俺は今、ごく普通のサラリーマンなわけ。こんなあほみたいな家賃の部屋に住めないの」
『ふうん』

 

 全くよくわかっていないらしい。

 別に狭い部屋でも、一緒に寝ればいいだろう。といおうとして、やめた。そもそもこいつには現在帰る家があるのだから、一緒に寝ることなんてないのだと。

 

 あきから名残惜しげに渡された鍵を受け取り、一緒に部屋を出る。

 

『時雨と暮らした部屋』
「ん?」
『なくなっちゃった』
「新しい家に来ればいいだろう」

 

 くしゃっとあきの髪の毛をかきまぜる。それでも後ろ髪を引かれるような気持ちがなくならないのか、手を引っ張られながらも何度もあの部屋を振り向いた。半年間を過ごした部屋はいつの間にかこいつの心深くまで馴染んでいたらしい。さみしそうにふたつの澄んだヘーゼルアイを揺らしているあきを見ていると、そのさみしさが不思議と電線してくるように、時雨も名残惜しくなってくる。

 

 駐車場に置いてあった車のそばまで連れてくると、あきがあの顔をした。

 

「さてはおまえ車乗ったことないだろう」

 

 あの顔――はじめて見たものにひどく興味をそそられつつも、怯えたように遠巻きに見る、期待と不安が入り混じった表情。こくりと頷かれる。

 

『運転する?』
「俺が、ね」
『できる?』
「なにを心配してんだ。俺、免許持ってるよ」
『めんきょ?』
「運転出来る資格」

 

 中学三年生にもなるというのに、免許ということばすら馴染みがない子どもなんているのだろうか。こういうところで時折見せる常識のなさには、さすがにこいつのこれまでの生活に憐れみの気持ちが浮かばないでもない。

 車を前に戸惑うあきを助手席に乗せてやる。シートベルトの仕方を教えながらやってやると、落ち着かないようにそわそわとあたりを見回していた。さみしさに濡れていた目が、純粋な好奇心で輝いていくのがよくわかる。

 

 ばか素直。

 

 時雨は心のなかでそうつぶやいて、無造作においておいた眼鏡を掛ける。普段の時雨は特段視力が悪いわけではないけれど、運転するにはやや足りない。シートベルトやハンドル部分ばかりをしげしげ見つめていたあきが気づいて、時雨の顔を覗き込んでくる。

 

「なに、珍しい?」

 

 あきが両手を顔の前にかざして、人差し指と親指で輪っかをつくった。そしてまた、こてんと首を傾げる。「ちょっとだけ目が悪いの」といったら、わかっているのかそうでないのか、神妙な面持ちで頷かれた。

 

「あ、あとおまえ……これ渡しとくわ」

 

 先ほど部屋を出る前に、チラシの端を切り取って書いた紙切れをあきの手のひらに押し込む。あきはきょとんとしながら、紙に書かれたそれと時雨とを交互に見る。

 

「俺の電話番号。とはいってもおまえしゃべらないからあんまり意味ないと思うけど。ま、こうやってトントンって叩いてくれればおまえってわかるだろう」

 

 時雨はパーにした手のひらを、もう片方の指で爪を当てるようにトントンと叩いてみせた。

 

「今回みたいにあんまりにも来ないんなら、たまには連絡しろよ。死んでたらいやだから」

 

 時雨の、電話番号。

 前に茉優やルリ、リョウタと電話しているのを聞いたことがあるはずだ。ああして時雨の携帯を、この番号を押せば鳴らせることは、さすがになんとなくわかるであろう。あきはじっとその紙に書かれた十一桁の電話番号を見下ろしている。

 

 時雨はどこからか沸いてきた言い知れぬ恥ずかしさに蓋をするように、アクセルを踏んだ。

 

「ま、じゃあ行くぞ。ちなみにはじめての車で舞い上がってるところ悪いけど、近くだから二十分もしないで着くぞ」

 

 ほんとうに、すぐに着いた。二十分も掛からなかったのではないか、というくらい。

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