時雨と紅葉。

十七話 春と少しの距離

51

 春は最悪な季節だ。最近の時雨は勝手に社員だからと短縮された三十分しかない休憩を、愚痴ばかりで過ごす。タバコをゆっくり吸う時間すらないと愚痴った。ただし心のなかで、である。なぜなら忙しすぎる店内は二人同時に休憩を出す暇がないから、だれになにをいうわけでもないのだ。

 

 春をきらいな理由。

 

 まず、歓迎会だからなのかなんなのか、とにかく団体客が多い。所得の高そうなおじさんの騒がしい掛け合いとおばさんの高らかな笑い声を聞いていると腹立たしくなってくる。歓送迎会なんかめったに使われないような風貌の店なのに、春はなぜか容赦なくそんな客が訪れる。

 

 次に通常の客も多い。普段はひっそりと経営しているというのに、この施設の裏手に桜の名所があるためか、ドバドバとひとが訪れる。微妙な距離があるから自分たちの店から桜が見えることはないので、妙にやるせなく、仕方ないと思うこともできない。行きと帰りに店を往復する際に、風とともに舞ってきた桜の花びらを踏みつけるだけで、特に癒しの恩恵を授かるわけでもない。そもそも時雨が花にこころを癒やされるようなたちでもなかった。

 

 とにかく、冬頃よりも忙しいのである。だから春はきらいだと勝手に解釈しているが、夏も秋もこの調子だったらどうしてやろうかと考えていた。

 

「藤野すまん! 出てくれ」

 

 三十分は休憩させてくれるんじゃないのか。

 

 時雨はうんざりしながら、半分ほど残ったまかないをそのへんに置き、不機嫌さを隠すこともなくスタッフルームを出た。途端に春以外ではありえない、午後三時過ぎのさざめきが耳のなかへぶり返してくる。

 

 他のスタッフが時雨のような表情で客前に出れば一発アウトだが、時雨はそもそも笑いも怒りもしないため、よしんばイライラしたとしても顔的には通常運転である。ただ、既に多くの時間を時雨とともにしている周囲のスタッフだけが(機嫌悪い……)と思っていることであろう。

 

「えー……ねえ、あのひと見て!」

「やばい……あたし通っちゃおっかなあ」

 

 会計を待つ後列からひそひそ声で聞こえてくる慣れた自分の顔への興味に、特に顔色を潜めたり笑顔になったりこともなく、その日も休憩十五分のからだに鞭打って、淡々と仕事をこなした。

 いつもは小洒落た店内が、その日もまるで居酒屋のように喧騒まみれである。帰っても何の癒しもないことも合わさって、最近の時雨はいやにイライラしていることが多い。

 
 
「いやあ、……時雨さんってホスト時代から薄々気づいちゃいましたけど、本当になんでも出来るんっすねえ」

 

 日付をまたいでも閉め作業の終わらない店内を、閉めることを諦めたのと疲れ切っていたのとでグダグダと力の抜けた様子で掃除しているリョウタが、ふいにつぶやいた。

 時雨はレジを閉めていたので、話しかけられると気が散るといわんばかりに無視を決め込む。

 

 リョウタはそのへんの気が全く利かないのと、時雨に無視されることには慣れきっているため、またもやペラペラと話し出す。

 

「時雨さん休憩入るとなぜか忙しくなりますもん。仕事が早いんっすよ、時雨さん」
「それは時雨がいると店に客が寄り付かないからじゃなくて?」
「違うんっすよ、茉優さん。ほんとうにそうなんっすよ、ひろちゃんも言ってました」
「だれ? ひろちゃんって」
「学生のバイトの子っす! 最初は昔の俺を見ているようでいやだったですけど、見た目のわりに真面目でいいやつなんで」

 

 なぜか閉店後も居座っている茉優が茶々を入れるので、得意になって話が止まらなくなってきたらしい。掃除しろ――といいかけたところで、「おーいリョウタ! ペラペラしゃべってないで掃除しろよお」という間延びした声がキッチンの入り口から飛んできた。ういっす! という反省しているんだかそうでないのか分からない声で返事をし、リョウタはテーブル拭きをはじめる。

 

「時雨、もう一杯同じのちょうだい」
「……あとでレジ閉めんの面倒なんだけど」
「あらあ、この私に金を払えと?」

 

 時雨はため息を吐いてパントリーに入ると、先ほど磨いたばかりのグラスと茉優が飲んでいる赤ワインのボトルを取り出す。規定の分きっちりとついで差し出すと、茉優は「はいありがとう」と、もう何杯か飲んでいるというのに顔色ひとつ変えず、しっかりとした手つきでグラスを受け取った。

 

「それはそうと、時雨、評判みたいじゃん。新山さんもこの間いってたよ」
「あーそう」
「そうそう、いいよお藤野は。笑顔はゼロだけど、淡々と機械みたいに働いてくれるし、はええし、頭いいんだろうなあ」

 

 ひょこっと顔を出した新山は、三十半ば過ぎという若さながらうちのキッチンの全指揮を取るシェフである。褒められているのか貶されているのか全くわからない。若いときに海外を転々としながら料理の道にはまり込み、現在のこの店に至るというわけであった。

 

 堀の深さと伸ばした髭の様子を総合的に見ると風貌は決して柔和とはいえないが、こちらが脱力してしまいそうなおっとりとした喋り方が親しみやすい。が――リョウタは「いやあのひとは絶対タダモンじゃないっす、こええひとっすよ」と本能でビビっている。周囲の社員もそうらしい、時雨はそういうことをあまり考えてはいない。

 

 それにしても、“この間”とはどの間だろうか。時雨は自分よりすこし年上の元セフレである茉優とこの新山が、時折こうしてただならぬ関係を匂わせると、妙な気持ちになる。別に特段知りたくもないけれど……、茉優が時雨を店に入れる際に口添えしたのは十中八九この新山であろう。

 

「おまえ、本社に連れて行きたいけどなあ……っていうの、茉優の前でいうのもあれだけど」

「新山シェフ……俺のことは?」
「おまえはばかだからなあ」
「ひどい! 頑張ってるのに、大学行ってたのに!」
「おまえはほんとうに、口かからだかどっちかしか動かねえなあ」

 

 リョウタがギャーギャー喚いている。

 

 元々この飲食店を営む会社は二年前くらいに起業されたらしく、茉優はその本社にいるらしい。現在はこの店を入れて三店舗を都内に出店しており、新山シェフいわく「飲食店経営としては、外食産業落ち込みどきなのに、イケイケだよねえ」らしい。

 

「ああ、時雨。そういえばルリちゃんの件だけど、ちゃんと叱っておいたからもう来ないと思うよ」

 

 この際茉優が何者なのかはもうどうだっていい。

 茉優がこういう言い方をするときは、ほんとうにそうだ、というときだから。

 

「あー、そう。ありがと、助かったよ」
「まあこんな終電もない時間まで残業させているのにいうことじゃないけど、早めに帰ったほうがいいよね。あの子、すぐひとを信じてフラフラしちゃうから」

「あー……そういや、あいつ出てったんだわ。帰った」
「は?」
「……まじっすか?」
「え、なになに? 時雨の恋人の話―? おじさんも聞こうかな」

 

 茉優、リョウタ、新山の順に反応が返ってくる。時雨は顔色ひとつ変えずに「そう、出てった。三週間くらい前」といいながら、レジ閉めに戻る。

 

「え……ちょ、ちょっと待って待って。帰るったって、あの子どこに帰るってのよ! おいちょっとこら金数えてないでこっち来なさい、レジなんてどうでもいいからとりあえず飲むわよ! 新山さんつまみ持ってきて!」
「そうっすよ、え、あきどこ行ったんすか!? 探すのなら俺手伝いますって!」
「とりあえず俺は、おつまみ探すぞお」

 

 拭き掃除もそこそにリョウタに引っ張られて、なぜか茉優とリョウタに挟まれてカウンターに座らされる。リョウタはすばやくパントリーへ滑り込み、時雨と自分のビールをサーバーからつごうとしたが――すでに先程時雨が閉めていたため、そこは空気を読みつつワインの残数を確認してから適当なものを注いだ。ついでに新山の分も用意したらしい。

 

「あいつ、家族いたんだよ」
「家族? いまさら何の用事なの? ホスト貢ぎおばちゃんの母親?」
「や、父親。おんなじ目の色のガイコクジン」
「その父親が殴り込みにきたってこと?」
「あいつが自分で決めて帰ったよ」
「まじっすか。あきが……もう会えないのか、あんなに可愛かったのに。ああ……もっとあいつと会っときゃ良かった」

 

 もう会えないかどうかはわからないが。といおうとするが、リョウタが喋り続けているので、とりあえず口を開くのはやめた。そんなことをしているうちに新山から出されたつまみを四人でつつき始める。

 

 いつの間にか新山も聞いていたが、なんでこいつ知っているんだ……と問いただすのは野暮だ。おしゃべり女め、と、横の茉優を睨んだが、涼しげな顔で「なにか?」と返された。

 

 なぜかリョウタにしつこく慰めながら(「それで最近機嫌悪かったんっすね」とか「元気だしてください。あいつまた来てくれますよ」とか。時雨はなんとなくむかついたのでほとんど無視した)、その日は始発まで飲み明かすことになったが、時雨に早く帰る理由はなかったので、なんでも良い。

 

 自分でいっていてはっとしたが、――そういえばもう三週間。春の到来を知らせる桜が散り終えば、店も落ち着き、あのからっぽな家へ帰る時間は早まるだろう。

 渋い赤ワインの舌触りをたしかめながら、いつまでも聞こえるリョウタや茉優、新山の話もそこそこに、あの日のくちびるの感触を思い出す。ぶつけるような拙いそれとともに、渡した鍵は小さな手のなかに握り込まれて、走り出した背中とともに去った。

 

(おまえ、次はいつ来るんだ)

 

 あのからだを抱き込んで眠らなくなって、三週間。毎日の長さに辟易としている間に、春は新緑の季節へなろうとしている。

 

「まあ、元気出して頑張りなよ。色々と進みはじめたってことでしょう」

 

 ひと通り聞き終えた茉優が、静かにそういった。

 

「ということは、子連れじゃなくなった藤野は働き頭だなあ。いやあ、使おう使おう」

 

 新山もやや赤くなった顔で、気持ちよさそうに笑う。

| »

スポンサードリンク