時雨と紅葉。

十六話 やすらぎと萌芽

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 時雨が休みの日は朝が遅かったから、その日に帰ろうと思った。春休みも目と鼻の先という最後の一週間のうちの一日に、とても久しぶりに寝坊の平日を過ごした。時雨に帰ると離してからほんの一週間経つか経たないか――その間、時雨はすこしも態度を変えなかったから、必然的にあきの方も変化せず、ただ普通の日々を過ごした。

 

 これまでが特別だ、これまでが異常だといわれても、あきにとって時雨との生活は自分の知る世界のほぼすべてだったから、“なくなる”という感覚は一向に訪れなかった。

 

 今朝だって、時雨のほうが先に起きていて、寝転がったまま頬杖をついてあきを見下ろしていた以外は、いつもどおりだった(最近の時雨はいつも眠そうなほど疲れていたから、一度ベッドに入ると休日は特になかなか目が覚めなかった)。

 まだまだ、春の陽気は顔を出しそうにない、ずっと布団に入っていたいようなつめたい朝。

 

「おはよ、おまえよく寝るね」

 

 時雨はあきが起きたことに気づくと、なんの感情も読み取れない無表情であきの頭をぐしゃぐしゃ撫でて、リビングへ向かう。気だるそうなその背中を見ながら、「時雨にはいわれたくない」と文句をいいたくなる。

 

 お別れの朝ではない。

 

 会えなくなるのではなく、あきの生活の拠点が別のところに移動するだけだ。いつだって会えるし、それは時雨にとっても普通なのかもしれない。あきは鈍い頭でそう解釈し、おなかをすかせて時雨を追った。

 

 ――きみたちの友好関係は、この生活を終えたら解消されるというものでもないはずです。

 

 確かに、あの高級なスーツを着た男は、あきにそういった。あきはそれを信じた。時雨と暮らさなくなるということが、自分自身にどのような変化を及ぼしていくのか、あらゆる想像力が欠如した頭ではっきりとイメージすることが出来るはずもなかった。

 

 そうして、パンを食べるときも、歯磨きするときも、着替えるときも、時雨は同じだった。

 ただ、着替えていたときにふと思い出したように「よく着るもんは持っていきな、あっちいったら困るだろう」といった。あやふやになっていた感情のピントがだんだんと合っていくように、なんとなく知る。そうか、一緒に暮らさないというのは、一緒に寝て起きることはないから、着替えることもないのだということ。

 

 あきは不思議な違和感に気づいて、さっと胸をさすった。

 これまであまり感じたことのないなにかが、たしかに心に宿った気がする。

 

『はみがきは持っていくの?』
「別にどっちでもいいよ。使わなきゃいつか捨てるけど、来るんだったら使うこともあんだろ」
『バスタオルは?』
「それ、元々俺のね」
『くつは?』
「普通に履いていく。何で外出ようとしてたの」

 

 おまえやっぱり頭弱いよね。

 毒を吐かれているのにいやな気持ちがしないのは、ことばの奥底にあるのが嫌悪や憤りではないから。

 

 入れるもの、入れないものを整理している。しばらく色々と聞いていたら「うるさい」と呆れられて、タバコを吸いにベランダへ出ていかれた。仕方なくあきは、俗にいう荷造りをそれとは知らずに続けた。

 

(一緒に暮らさないって、変わらない? ほんとうに?)

 

 時雨がぶっきらぼうで面倒くさそうに接してくるのは、いつもとなにも変わらない。

 

 しかしあきはお腹の上あたりにすこしずつ湧き上がる違和感に、能面をほんの数ミリ程度歪めて眉を寄せる。だが、結局その正体がわからないまま時雨に「いく」と伝えた。時雨は頷いて、すこし膨らんだリュックを背負ったあきが歩く数歩後ろをついていきながら、玄関まで送ってくれる。

 

(すこし前まで、外へ出ていく時雨をずっと見送ってた)

 

 そのときの感情と今の感情に、なんとなく同じ名前があるような気がすると、あきは思う。ただ名前は、思い出せない――というよりも知らないというほうが正しい。

 

「おまえ、あの変なスーツのやつに会ったの?」
『へんなスーツ?』
「高村」
『……へんな笑顔のひと。あった』
「能面がいうな。てか、それいつよ。……拉致られてんのに懲りないね」
『カフェオレくれた』
「あーそ。おまえの父さんガイジンだろ? 英語できんの? おまえ、日本語も全然だめだけど、英語なんてますますだめだろうなあ」
『日本語できるって。あったことないからわかんないけど』

 

 あーそう。と、自分から聞いてきたくせになんの興味もなさそうな声を最後に、時雨がこちらを見下ろしたまましゃべらなくなる。しんと静まった玄関に、あきが靴をつま先までいれるトントンという音だけがこだました。振り返って、時雨を見上げる。

 

 いつもの時雨だった。
 あきはこういうとき、なんていったらよいのかわからない。

 

『時雨』
「ん」
『こういうときはなんていうの?』
「知らないよ。なんでもいいよ」
『そっか、わかった』

 

 時雨は「不器用」と悪態をつきながら、あきが巻いた下手くそなマフラーを巻き直した。されるがままになる。

 自分の家を出るときに“いってきます”ということ、帰ってきたら“ただいま”ということをあきは知っている。でも時雨とそのことばを交わしたことはない。いってきますとただいまは、自分の帰る場所を相手に知らせる約束だけど、あきは時雨も自分もここがその場所だと知っているから、ことばはいらなかった。

 

 でも、この玄関口を出たら、ここはもう帰ってくる家ではなくなるんだ。

 

『ずいぶん急だね。そりゃもちろん最終的にはお父様と暮らしてもらうっていうのはお願いするんだけど、最初は外で会ってみるだけでもいいんだよ』

 

 対面だと冷たく見えた声は、電話口だとややマイルドだった。それとも、あきの下した決断が早くて拍子抜けしてしまったのだろうか。高村から預かった連絡先の一つしか入っていない携帯でメールをすると、あっという間に電話がかかってきた。父親のところへ行くというあきは結局その意思を曲げず、ひどく長い一方通行の電話のあとに『時雨と同じになりたいから』と打ったメールには、短い文章で『依頼人の子どもにいうことじゃないけど、きみはすっごく頭が良いかどうしようもないばかかどちらかだね』と帰ってきた。

 

 ――将来をお考えなさい。

 

 ずっと“同じ”で一緒にいたいなら、ここにいるのは間違っている。それが分かるから自分の足でここを出ていくのに、しこりのようななにかがずっと心に転がっている。それはどんどん肥大化して、いたみを増していくのだ。

 

 こういうとき、なんていうんだろう。あきはことばを探した。そうしてこたえのようなものを見つけて、掴む。

 

『いってきます、時雨』

 

 これはなんだろう。
 ここを離れたら、いたくなくなるだろうか。

 

 時雨がくちびるを開く、その前に踵を返して、重たい玄関の戸口を押した。時雨の姿が視界から消えて、そのまま進もうとした刹那――もう慣れた、昨日と同じ二本の腕が外へ出ようとするあきのからだを捕まえる。

 

 一瞬のことだった。

 

 覆いかぶさってくる時雨との間で、暮らしの痕跡みたいにぐちゃぐちゃに詰まったリュックが潰れる。外に一番近い玄関口は特に冷たさが冴え渡っているというのに、時雨に抱きしめられたところから熱い温度が広がって、あっという間に沸騰しそうになる。

 

「おまえ、もう前みたいにここへ帰ってこないの、わかってんの?」

 

 頷く。
 これだけ近くにいたら、どれだけ小さく頷いたって届くことを、あきはもう知っている。

 

「あーそう。あんまりにもいつもと変わらないから、おまえいつもみたいに色々頭足りてないんじゃないかなって思って」

 

 淡々としていたのは時雨の方だったじゃないか。
 抗議の意味も込めて、首元に回っている時雨の腕をつねってみせる。

 

「で、そんな目までしてて、おまえ自分が寂しいことに気づいてないの?」

 

 ぼくは寂しいのだろうか。寂しいなら、どうして寂しいのだろうか。

 

『そうなの?』
「そうなの。おまえ泣きそうだよ。そんな目してるの、はじめて見た。それなのにからだだけは飄々として出ていこうとするから、こいつやっぱり頭沸いてるわって思って」

 

 よくわからないが、なじられているのは間違いなさそうだった。だったらそうやってばかにすればよいのに、時雨の腕はまるで手に入れた宝物を離すまいとするみたいに、自分に巻きついている。

 

 顔のどのパーツがどう動いていて、どうして泣きそうに見えたのか、自分の顔を両手でさわってみたけどわからなかった。

 でも、これは“寂しい”ということなのだろうか。

 

 あきはそのとき、気づいたことがあった。長い夜はからだを向け合って目を閉じて、太陽の光とけたたましい目覚まし音とともにボサボサの髪の毛で起きて、眠いって思いながらけだるいからだにムチをうってパンをかじって、無言で外の世界へ飛び出して、それでもその日のうちに必ずもう一度その玄関をくぐるのは、当たり前じゃないんだ。

 

 そうかあ、さっきから胸がどこかざわざわして落ち着かないのは、寂しいと感じているから。

 

 一瞬の隙をついて腕の拘束をとき、そのままくるっとからだを回して、目の前のお腹にぎゅうっと飛び込むと、リュックサックがなくなった分、時雨との距離はゼロになる。驚いたようによろけたからだ。

 はあ、とため息をついて、時雨はあきをもう一度抱きしめた。

 

「あと、これ持ってきな」

 

 手のひらにつめたいなにかが押しつけられる。見えなくても、手のなかに収まる感触で、それがなにかあきはもう知っている。

 

 風のように吹き敷く寂しさと、温かい嬉しさとが一緒になって、あきの表情筋がふわりと歪む。

 

 時雨がなにかをつぶやいた。

 

 それを聞きそこねたまま、あきは手のひらに捕まえたそれをゆっくりと開く。もう何度も施錠してはまた開けた、このマンションの鍵だ。飾りひとつついていない、大切にするのを忘れてしまえばどこへでもなくなってしまいそうなそれ。
 
 
 ――キスってのは、すきなひととしか自分からしちゃいけないの。わかった? もーなんで俺こんなことおまえに教えなけりゃならんの。
 
 
 ぶつかるように時雨に向かって近づいて、そうして、ふれたのは一瞬だった。

 

 不器用なあきには距離感を掴むのが難しくて、最初に思い切り当てる――というよりも激突させたのは頬骨のあたりで、それからもう一度狙いをこめてそこに自分のくちびるを合わせる。

 

 足の爪がぴんと張っていて、自分のほうに向いている腕を手すりにするみたいな、へんな体制だった。

 

 あっという間に時雨との距離がゼロになるのに、どうしようもなく心がぎゅうっとなる。

 

(また、いたい)

 

 されるのは恥ずかしいけれど、するのは、もっと恥ずかしかった。
 
 
 それからは、あんなに“寂しい”と思っていた玄関を一気に駆け抜けて、これまで“当たり前”だって思っていたまったく違って目に映る世界を横目に走る。

 

 一瞬のすきをついたキスに、時雨は目を見開いたまま固まっていた。

 

 冷たい空気を切り裂きながら、見慣れた路地を息が切れるほどに走り、あきは思った。

 

 ああ、ぼくは早く、時雨と同じになりたい。

 恥ずかしさと寂しさと温かさで心が爆発してしまいそうになりながら。

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