時雨と紅葉。
十六話 やすらぎと萌芽
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決心がついたら連絡をください。あまり長く待てませんので、なるべく早めにいただけると。
そういい残して、男はコーヒーを飲み干すと席を立っていった。あきも三分の一ほど残った甘すぎるそれを飲み終えて、席を立つ。カフェは先にお会計を済ますものという概念のなかったあきは、(おごるっていったから、このまま出ていっても良いんだよね……)と心をざわつかせながら、妙な後ろめたさを残してカフェを出る。後ろから店員さんが「お客さん、お代」と追いかけてこなかったことに安堵しながら(あきはお代を支払わなかったことはないけれど、そんな場面を昔に見たことがあった)、雑居ビルの隙間をぬって、いつもは城田と帰る道のりをひとり歩いた。
家へ帰る頃には、空気の冴えた空を夕暮れの橙色が空を覆っていた。扉を開けると、薄暗いマンション内はすっかり冷えていて、慌ててエアコンをつける。
あと六時間。時計を見ながら、あきはため息を吐いた。
お風呂に入ると、湯立った浴室内に自分のからだが浮かび上がる。元々あざだらけだったからだに最近新しくついていた細かい傷痕は、時雨がすぐに施した看病もあっておおかた消えようとしている。それなのに、時間が経ってもあきにふれる時雨の手は、いつもどこかやさしかった。
(さむい……)
あきは逆上せる寸前までお湯に浸かり続けた。季節は春をさしているというのに、まだあたりは真冬のように冷たい。
思っていたよりも、時雨が家に帰ってくるのは早かった。あきがキョトンとしている横で時雨は、「なんか、最近連勤だったから早めに帰れって。だったら明日休みにしてくれって思ったけど」と独り言のようにつぶやく。あきはこの“連勤”ということばの意味を時雨が新しい仕事に就きはじめてから知ったけれど、同時にあまりすきになれなくなっていた。
“連勤”はつまり、時雨があまり自分のそばにいないことだったから。
『ごはんつくる』
「あーそうだな。今日は食べようかな」
時雨はあきの手をするりと撫でて、ソファへ寝転がった。あきがご飯をつくるのを、待ってくれているときのそれだ。いつもよりも一時間早く帰ってきてくれるだけで、心が踊る。あきはコンビニで買ってきた卵と冷凍してあったご飯を取り出した。茉優が遊びに来なくなってから、レパートリーは一向に増えないが、そのぶんチャーハンの質は格段に良くなってきている。
また、飽きるということばを知らないため、今日も注意深く卵の殻の行方を確かめ、かきまぜ、ご飯と混ぜ合わせる。早く手を動かすことは出来ないので、弱火で炒めるようになってから、焦げたり味つけがまばらになったりすることがなくなった。
(ビールと麦茶はどっち飲むかな)
悩みながらビールと麦茶を出そうとソファへ近寄ると、時雨はいつの間に眠っていた。誰かに連絡をしようとしていたのか、携帯を握ったままの手がゆるくなっている。あきはそっとUターンして、飲み物を元の場所にしまう。それから、炒めたチャーハンをお皿に映してそのままにした。あとで、サランラップを掛けておけば、朝になっても食べられるから。
目を瞑ったまま肩を穏やかに上下させる時雨へ近づいて、そばに座り込む。残念ながらソファはからだの大きな時雨が占領するとあきの入る隙間は全くない。むしろソファから長い脚が飛び出しているくらいなのだ。
(時雨、今日も疲れてる)
――藤野さんはまだ若く、働き盛りだ。きみひとりを養うことが、これからは難しくなりますよ。きみがこれからも学校へ通い続ければお金がかかります、衣食住さえも時雨さんの今の仕事ではいずれ厳しくなります。
(時雨は、はたらきざかり?)
時雨がなぜ仕事を変えたのか、はじめはよくわからなかった。今でも理解が難しいが、なにかを考えて時雨が一歩、また一歩と進んでいるのは事実だ。きっと前の仕事のほうが楽だったというのに、時雨は「うざい」「面倒」「行くのだるい」といいながらも、仕事へ向かう。そしてその愚痴さえも最近は薄れてきている。
時雨はあきの知らない新しい世界に、なにかを見出しはじめていた。あきは置いていかれてしまうような一抹の寂しさと同時に、拗そうになったこともある。あのままだったら、今の生活よりも、もっとずっと一緒にいられた。
――将来をお考えなさい。
あきは学校へ行きはじめ、時雨は仕事を変えた。紅葉が散ってあたりが雪化粧して、それから雪解けとともに草木が芽吹く――季節が変わるように、なにかが緩やかなスピードでうつろっていく。
「……何してんの」
こいよ、と命令しながらも、先に伸びてきた両腕にからだを引き上げられて、時雨に乗り上げるような体制で抱きすくめられる。いつのまに起きていたのだろう。重くなったと、時雨が眠そうな表情のまますこし笑った。
(笑った)
こんな表情も、すこし前には知らなかった。
『ごはん』
「あー、無理。もう眠いから明日食う」
自分勝手で気分屋なのは変わらない。作らせておいて、というようにじっとりと睨んだがすげなく無視された。
向き合ってぴたりとくっついていると、時雨の心臓の音がやわらかく聞こえてくる。それはわずかに早鐘を打っていて、聴診器みたいに耳を当てたら、時雨に髪の毛を引っ張ってやめさせられる。口でいえばいいのに。
時雨と居ると、どきどきすることも多いけれど、同時に安心するのはなぜだろう。
さっきは引っ張っていた髪の毛を今度は梳くように撫でられ、くるくると巻くように弄ばれた。
「おまえ、料理すんのすき?」
ふいにそう聞かれて、首を傾げる。どうだろう。
「あ、そ。ま、いいんだけど。今日店いってて、おまえが出した料理をお客に出すってどんな気分なんだろうって思った」
『チャーハン?』
「チャーハンだけじゃなくて、その他にも色々。おまえがすきなら、作った料理を色んなひとに食べてもらうって気分いいんじゃないかなって。あの店におまえがいたら、……まああの店じゃなくてもいいんだけど、おまえと店やったらって考えた」
じい、と見上げていたら、見るなといわんばかりに額を抑えつけられた。大きな手のひらから垣間見えた時雨は、なにいってんだ俺は、って顔をしてそっぽを向いている。
『つくれるようになるかな』
「どうだか。おまえ不器用で下手くそだから、周りの何倍も練習しなきゃ無理だろうけど」
昼間にいたカフェを思い出す。
あたりは笑い声や真剣そうな声色のおしゃべりで溢れつつも、ひとり俯いて分厚い本と横線の入ったノートとを眺めながら鉛筆を走らせるひと、パソコンをさわるひと、ぼんやりと何かを考えるひと。そこにはコーヒーと食べ物。
もしも小さなお店で、ぼくが作ったキラキラの食べ物を時雨がお客様の元へ運んでくれたら……想像がつかなかったけれど、想像してみたい。あきは時雨が額を抑え込むのに抗議するようにジタバタした、時雨が痛いと頭を叩く。
『それって、どうやったらなる?』
「知らん、自分で考えて。あと、別にちょっと思っただけだから」
『チャーハンをもっと作る?』
「いいんじゃないの」
最後の方はずいぶんと投げやりで(自分からいいだしたのに)と不満だったが、それが時雨の照れ隠しだったことを鈍いあきは見過ごしてしまった。
隣を歩きたい。同じになりたい。
あきのなかに、はっきりと芽生えた気持ち。
時雨と対等でありたい、対等に会いたいということ。それは、この居心地の良い空間を一旦終わりにすることなのだと、なんとなく理解する。
すこし、時間を置いた。数日経って『かえる』といったら、時雨は短く「ああ」と頷いた。
おまえがなに考えてんのかってことくらい、わかる、と。
くしゃっと頭を撫でられた。
“かえる”のがこの場所でないこと、そのときが決して遠い日でないことを、時雨は知っているのだろうと、あきは考える。
当たり前のようになったふたりの終わりは、ひどくあっけない。