時雨と紅葉。

十六話 やすらぎと萌芽

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 ――『知らないひとについていくな』、これ常識ね? わかった?

 

 あきには一般常識の大半が見事に欠落しているが、自分が信用を置いているひとの意見は素直に聞く。このことばもそうだった。

 

「お待たせしました。カフェラテで良かったかな? 砂糖も持ってきたから、甘いのがお好みなら入れてください」

 

 あきはピカピカしたこのスーツの男の執拗に自分を追いかけてくる不気味さよりも、この場面を城田に見られてまた頬を叩かれることを恐れていたが、相手は自分に怯えていると勘違いしているらしく、先ほどから笑顔を浮かべている。あきがいえることではないけれど、慣れない表情筋を使っている――といわんばかりの、なんとも微妙で下手な笑みだった。

 

 キリッとした面持ちと落ち着いた所作、しわひとつなく着こなされるスーツが実年齢よりも幾分か老成して見える。

 それでもあきは、白いふわふわと茶色の混ざるふわふわの浮かんだそれへの好奇心を抑えることが出来ず、おずおずと手をつけた。食べ物を目にするとまったく自制が効かない。

 

「飲みはじめましたね、では本題です。きみがおとなしくしてくれるなら、ここは僕のおごりです」

 

 なにやら相手の策略にはまっているようだが、鈍いあきは躊躇しつつも頷いた。なんとも苦かったので、男が持ってきた砂糖を3つ溶かす。くるくると混ぜると、上に乗っている泡がどんどん消えていってしまって、ああもったいない、と心のなかでしょぼくれる。

 

 三月に入って、あと二週間すれば春休みというところだった。あきからすれば、自分の存在を異物からどうでもよい存在へと変えた教室とも、馴染みはじめた城田との仲もあと数週間というと、(せっかくちょっと、仲良しになったのに)と寂しい。まだ冬の冷たさが残っていたので、いつまでも同じ日々が続くような気がしていた。

 

 目の前のこの男のひとは、通報されない程度に――実際はけっこうな頻度で現れた。その度に無視をして通り過ぎていたけれど、今日は逃げ切ることが出来ず、なぜかカフェで対峙している。

 

 あきは周囲を二、三回見渡す。女子高校生やサラリーマン、世間話をするおばさんまで様々だが、店内にはまばらにひとがいる。ほっと息をついて、カフェラテをずずっとすすった。

 

「きみは普段どうやって会話をするんですか?」

 

 あきは黙ってスケッチブックを取り出した。
 手のひらコミュニケーションは、なんとなく知らないひとにはしたくない。

 

「そうですか、では問題なくお話できそうですね。単刀直入にいうと、お父様のもとで暮らしてみる気はないですか? 正真正銘血の繋がった父親です。名前は――」

 

 聞き慣れない横文字の名前の名前とともに、一枚の写真が差し出される。カメラに向かって微笑んでいる外国人を、あきは知らなかった。

 

「元々は彼の母国であるイギリスの会社で働いていましたが、日本に子会社を構えている関係で、最近東京へ来ています。もちろん日本語も堪能なので、コミュニケーションも普通に取れます。働いている先についてはここでお伝えすることは出来ませんが、とても安定した大きな会社なので、きみひとりを養うことは造作もないでしょう。なによりも元々血の繋がりのある、家族ですから」

 

 知らない単語、聞き慣れないフレーズがあまりにもあって、あきは一言聞いただけではなんの理解もできなかった。男――たしか高村という名前である――はそんなあきの様子には気づかずに、写真の外国人の経歴や現在について流暢に語る。

 わかったのは、生まれてこのかたすれ違ったこともなさそうなこの外国人が自分を産んだ若葉の片割れであること、そして自分と一緒に暮らしたがっていることだけだ。

 

 だとしたら、あきにとっては話が早い。

 

『ぼくは普通に暮らしているから大丈夫』

 

 たっぷり数分の話が終わったあと、あきは途中から書き始めていたそれをクルッと回して高村へ向けた。高村の利発そうな目つきがスケッチブックを眺めて、それから首を横に振った。

 

「小さい頃に別れたそうだからね、きみがこの方を他人と感じるのはわかります。でも、親子だ。馴染むのは時間の問題ですから。ほら、瞳を見てください。そっくりですよ」

 

 このひとはうそを吐いている、と、あきは目を逸らす。
 簡単に馴染むって、なんだろう。だって、リョウタとも時雨とも城田とも、簡単に心を通わせることが出来たわけじゃない。たとえ血が繋がっていたとしても、寄り添うのは難しい。

 

 修復の出来ない心の距離が母親を狂わせたことが、記憶の底から鮮明によみがえる。

 

『かぞくと思えない』
「……なるほど、すこし特殊な環境に身を置きすぎているようだけど、きみのその感情は世間一般からするととてもいびつだ。ひとは大人になるまで、血の繋がった家族と過ごす。これが普通だ。きみはさきほど“普通に暮らしている”といったけれど、その錯覚こそきみの今の環境のいびつさを物語っています」

 

 トクシュ、サッカク……あまり聞かない単語が多いなか、あきの何かを強く否定する意思は真っ直ぐに伝わってくる。

 

 先ほどまでちびちびとしか飲めなかった熱いカフェラテが、ちょうど良い温度になってきた。飲めば飲むほど下の砂糖が濃くなって甘くなるそれを感じながら、あきは静かに高村を見上げた。

 

「きみのお父さんは藤野時雨さんに非常に感謝しているようだ。きみをお母さんの元から引き離すだけでなく、他人の君をかくまって衣食住の面倒を見てくれたんだから。きっと警察に突き出せばまたきみが怖い想いをするという善意で、きみを助けてくれたんだろう、とね。だから、裁判沙汰にはしたくないという強いご要望をいただいています」
『さいばんは、どういうこと』

「藤野時雨さんが法に裁かれるということ――ああ、これだとわかりにくいですね。罪を追って逮捕されるということです。このままきみと一緒にいると」

 

 どうしてそうなるんだろう。あきはぐるぐると考えたが、意味がわからずに首を傾げた。

 

 どうして、時雨が逮捕されるの。

 時雨はぼくを助けてくれた。一緒にいてくれた。

 

 それだけなのに、さいばんはぼくと時雨の、なにを許してくれないんだろう。

 

 あきはスケッチブックになにかを書こうとしたけれど、なにも思い浮かばずにただ固まった。時雨がなぜそんな目に遭うのか理解することはできなかったが、目の前でコーヒーを飲むこの男が冗談でことばを口にしているわけでもなさそうだった。

 

「怯えないでください。きみのお父さんは、ただ、きみと暮らしたいだけです。失ってしまった十数年は取り戻せませんが、また家族として頑張りたいとおっしゃっています」

 

 背筋が凍るような感覚と同時に、一点の温かさが広がる。

 

 ――家族として。

 

 それはあきが知らない暮らしだった。一瞬、それに惹かれたのは、血の繋がりを持った家族との温かい家庭を知らないあきにとって仕方のないことだったのかもしれない。

 

 あきの目が続きを促すようにわずかに変化したことを、高村は瞬時に見て取った。

 

「よく考えてみてください。藤野さんときみは家族ではありませんが、きみが家族の元へ帰ってからも会えるんです。それに、藤野さんはまだ若く、働き盛りだ。きみひとりを養うことが、これからは難しくなりますよ。きみがこれからも学校へ通い続ければお金がかかります、衣食住さえも時雨さんの今の仕事ではいずれ厳しくなります。きみたちはいずれお互いが重荷になる」

 

 カフェで出すにはやや淡々としたことばたちは、機械から繰り出されるように色を持たない。 それでも、高村の今度のことばにうそはないとあきは思った。

 

 ――重荷になるというのは、時雨にとって迷惑になるということ? いらないということ?

 

 それはいやだという気持ちが、胸の中にじわじわと広がっていく。

 

「きみたちはまだ若い、将来をお考えなさい。きみたちの友好関係は、この生活を終えたら解消されるというものでもないはずです」

 

 夜深く、仕事終わりに疲れ切った表情で帰ってくる時雨の表情が浮かんだ。冬にはしょっちゅう見かけていたそれが、出会った頃にはなかった。それまで時雨は、自分にもその人生にもどこか投げやりになっていて、ただ覇気のない顔で夜の仕事へと繰り出すだけだった。

 

 それでも時雨は今、新しい仕事を見つけて前に進んでいる。

 

 ぼくにとって、前に進むとはどういうことだろう。あきは考える。

 

 今の生活が“普通の暮らし”でないのなら、普通の暮らしをしはじめた時雨とどうしたら対等にいられるだろう。

 

 ――将来をお考えなさい。

 

 答えのおぼつかない難題が、あきの心深くに棲み着いた。

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