時雨と紅葉。

十五話 理性と決壊

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 玄関の施錠を解いて扉を開けると、真夜中にしてはほの明るい照明が、あきを寝かせておいた寝室からではなく、リビングから漏れている。なにしてんだ、と呆れながら、時雨は靴を脱ぎ捨ててリビングをくぐった。エアコンの効いた温かい部屋のソファに、あきはぽつんと座っていたが、時雨の足音に気づいてズルズルと顔を上げた。いつもよりも緩慢な動きであったことを考えると、眠りかけていたのかもしれない。目の前のテーブルには、ラップの掛かった一皿。

 

「寝てなっていっただろ」

 

 あきは頷いたが、動こうとはしなかった。こういうときのあきは頑固である。

 

「飯は明日の朝食うよ。とりあえず風呂入ってくるから、おまえはベッド行ってな」

 

 腹が減っていないわけではなかったが、そんなふうに嘘をついた理由は、あきの作ったご飯が食べたくなかったからではない。なんとなく、こいつは一緒にでしか布団に入ろうとしないことに気づいたからだった。

 

 全く時雨のいうことを聞かず、そのままの状態でソファに腰掛けているあきをよそに、脱衣所へ向かう。軽くシャワーを浴びて歯を磨くと、半分からだを濡らしたようなままで、帰ってきたときと同じようにソファにいたあきの元へ戻った。あきは時雨の姿を見上げてから、ようやくソファから立ち上がる。寝室へ歩き出そうとする背中を後ろから羽交い締めにするようにして抱き上げた。風呂上がりのからだに、小さなあきはひどく冷たく感じる。

 

「おまえ、からだ痛くないの」

 

 首を横に振っていたが、そんなはずはない。からだの具合を見ていた時雨に、そんなわかりやすいうそが通用するわけがなかった。あーそう、とつぶやいて、あきがベッドを抜けたままめくれている布団を戻しながら、自分も一緒に布団に入る。エアコンの名残だろうか、寝室をかすかな温かさが纏っていることを感じて、そのことにひそかに安堵した。

 

「おまえのあれ、チャーハン?」

 

 時雨と同じくからだを横たえるようにして向き合っていたあきが遠慮がちに頷いた。見えないでしょ、ぼくもそう思う。とでもいいたげに。

 

「へったくそ」

 

 明日の朝になったら、一晩立ってまた更に味が落ちているだろう。それを食べてから仕事に行くことをすこしだけ楽しみにしながら、時雨がそういうと、あきが「そうだね、ぼくもそう思う」というように今度は深く頷いた。

 

『もっと近くいきたい』

 

 あきの小さな頭を乗せた腕に、トントンと文字を書かれる。

 

「いるだろ、近くに」
『もっと』

 

 なかなか戻らない氷のように微動だにしない表情なのに、なぜか強い焦燥感が覆っているように思える。時雨はため息を吐くと、理性を総動員しつつあきのからだをこちら側に引きずって、閉じ込めるように抱きしめた。あきのからだからずるずると力が抜けていくのが分かる。

 

 折りたたむようにして閉じ込められた両腕が窮屈そうに、それでもまんざらじゃないというように動いて、時雨の服の裾をぎゅうぎゅう握るのが伝わってくる。

 

 ――谷口くんを引き取っていた5ヶ月、赤の他人の子どもを置いておくのは大変だったこととお察しします。行方不明になっても警察へ届けられない、病気になっても保険証はない、とね。

 

「おやすみ」

 

 小さな背中をぽんぽんと叩いた。

 目を瞑ると、あの男のことばが映画のワンシーンを巻き戻すように何度もよみがえる。考えても答えなんてないことだ、そう考えながらもさざ波だった胸は落ち着かず、明日も仕事だというのに眠れそうになかった。さすがにイレギュラー続きで、時雨にとっても身体的にも精神的にもしんどいのはわかっているから、眠らないとまずい。そう思えば思うほど、睡魔はやってこなかった。

 

「おまえ、くっつくなら動くなよ。寝れない」

 

 こともあろうか、時雨は寝れない要因をさっきからもぞもぞと動いている小さなからだのせいにして咎める。半分八つ当たりだったが、あきは素直に「ごめん」と時雨の胸に書いた。

 

「なに、寝れない?」

 

 悪態をつきながらもそう聞くと、あきは素直に頷いた。胸に埋められた顔色は伺えないが、おそらくあの能面だろう。

 

 まあ、当たり前かとも思う。あんなことがあってもグースカ眠れるほどこいつの神経は図太くないだろう。屈辱を味わった男と同じ人種というのに、こんなにも自分の近くにいたがるのは、信用の証か。

 好かれているという甘美なしびれと、そんな信用はいらないという、相反する気持ちが交錯する。

 

『もっとちかく、いきたい』
「これ以上近くなったら、おまえ潰れるけど」
『おねがい』

 

 離れまいとするように、あきの折れそうな手が時雨の背中にぎゅうっと回る。いつの間にか小刻みに震えだした子どものからだに、隠しようのない欲が首をもたげる。

 

「どーいう意味でいってんの」

 

 ふざけんな、と、思考の鈍くなる頭で考えながら、うつむいたままのあきのつむじにくちびるを落とす。もっと近く――そのことばのせいにして、頭からつま先までめちゃくちゃに食いつきたくなる。

 

 キスをされた――わかった途端、お願いをしたのはあきの方だというのに、からだが怯えたようにぴくんと跳ねる。今これをしているのは時雨なのに、それを有耶無耶にするみたいに、あきのからだは反射的に拒絶していた。

 抱きすくめていたからだ隙間から腕を忍ばせて、あきの顎を掴んで上げた。長い間眠れなかったせいで目慣れた暗闇のなかに、あきの顔立ちが浮かび上がる。ヘーゼルアイの双眸は一見いつものあきと変わらなかったが、その奥には怯えと焦燥と不安とが静かに同居していた。

 

「俺がこわいか」

 

 首を横に振るけれど、からだはガタガタと震えている。だけど、すこしでも目の前のこのからだの拘束を解こうとするなら、あきはそれに縋りついて抵抗するのだろう。

 

 ことばなどなくたって、時雨はあきが自分になにを求めているのかが手に取るようにわかる。

 しかし、時雨にとってあきのお願いは拷問に近しい。

 

 どうする――動けないでいる時雨の顔を見上げて、あきがくちびるを動かした。

 

 しぐれ。

 時雨を呼ぶ。音を響かせずに吐息だけが耳に届いた刹那、時雨のくちびるはその吐息すら飲み込もうとするように、深く薄いくちびるに合わさった。

 

「……っ」

 

 仕掛けたのは自分のくせに、怖気づいて逃げようとされて、後頭部を掴んで固定する。泣こうが喚こうがもう遅い、というように。息が出来ない、というようにあきの手のひらが時雨の胸を押したが、最低限短い呼吸の隙を与えながらも、時雨の拘束は解けなかった。

 

 何度もくちびるを合わせながら、探るように時雨の舌があきのそれを捕まえる。生き物のようにぬるりと口内へ侵入してきたそれに、あきのからだがさらに震えた。

 

「しっかり目を開けて見てろよ」
「……っ」
「俺がおまえにしてることは、おまえを襲った男たちと同じだよ」

 

 激しいそれについていけず、あきのくちびるから唾液がこぼれ落ちる。シーツに染み込んでいこうとするそれを舐め取りながら、時雨はいった。

 

「でも俺は、おまえを怖がらせたくない」

 

 俺を見ろ。

 麻痺しながらもガンガンと警笛を鳴らす理性を脳裏に感じながら、時雨はあきの頭をやわらかく撫でた。

 

 苦しさのせいか目に涙をためて、浅い呼吸を繰り返しながら、あきがなにかに答えようと舌を出す。捕まえて吸うと、幼いからだには大きすぎる快感にぴくりとからだが跳ねた。からだはさっきから震えていたが、もはやあきの目に時雨しか見えていないのは一目瞭然だった。

 

 ふれているという安らぎと芽生えた小さな欲が、あきの怯えをゆっくりと凌駕していくのが、濡れた瞳からしっとりと伝わる。固まったパソコンのような能面がとうに崩れて、赤く上気した頬と薄く開かれたくちびるが、壮絶な色気となって時雨のからだを貫いていった。

 

 しぐれ。

 荒い吐息を重ねながらも自分を呼ぶくちびるの動きに、これ以上はだめだという理性と、めちゃくちゃにしたいという欲望がせめぎ合う。

 

「あき」

 

 それでも時雨は、どうしようもなく、あきを大切にしたかった。

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