時雨と紅葉。

十五話 理性と決壊

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 時雨が新しく勤めはじめた昼はカフェ、夜はバルになる喫茶店というには小洒落た勤務先は、その日の昼も十八席というこぢんまりとした席数をゆうに満たし、ご丁寧に待ちの人数まで現れていた。あと二時間はこの小さな空間をぐるぐると回り続けるだろうと思うと脱帽するが、そんなことを考えているならこの席数をいかに捌くかを計算した方が生産性があるというものだった。

 

 茉優に紹介された時雨がこの店に来てから採用されるまでの時間は、わずか十数分。フランスにかぶれたようなこのレストランでは、ブランドを担うための整った顔立ちが必要だったかららしい。茉優から隠すことなく「顔採用なのよ、良かったわね」と嫌味でもなんでもなくいわれたとき、ようやく合点がいった。

 

 未経験でも良い。ただし最低限普通に働いてくれ。提示された条件はそれだけだった。

 

 三十路に差し掛かった妙な経歴の男がそんなふうに働き口を見つけられることが当たり前でないことなど知っていた。ので、時雨は今日も必須にして唯一の条件“最低限普通に働いてくれ”を実行した。

 

 実際、時雨はこの仕事がそんなにきらいではなかった。人が絶え間なく出入りするので忙しないものの、愛想を振りまく必要も特別媚を売る必要もない。笑顔を無理やりつくることもしない。飲食業なんだからニコニコしなさいよ、と文句垂れた茉優をとどめたのは、オーナーのほうだった。一度笑顔を作ったらそれが当たり前になるから、いつも一定のテンションでいればいいよ、と。というわけで時雨は、今日もだれに媚びるわけでもなく涼しげな表情で仕事をこなしていく。内心は、早く帰りたくて仕方なかったが。

 

 金曜日の浮かれたサラリーマンたちが、次の日が休みだからといつもより長居する。きっちり閉めたが洗い物や片付けが残ったため、店を出たのは十二時を超えてからだった。引き止めてなにかを話しかけようとするスタッフをよそに、時雨は足早に店を出る。時雨は自分のつれない習性をとっくに心得ているスタッフが、苦笑いしながらも愚痴る様子は見せないことを知っている。

 

 明日、あさっても仕事。時雨は早足で歩きつつ家で過ごせる時間を数えた。あきの学校はもちろん休ませた(本人は一人がいやだからと行こうとしていたが、なだめすかした)。明日、あさっては休日であり、学校自体がないから、おそらくひとりで過ごすだろう。

 

 夜の深い住宅街を、等間隔に電灯が照らしている。やわらかい光を何度もくぐると、それは長らくだれとも温度を共有していないひとのように、ひやりとつめたかった。

 

 ここの住宅街にしてはやや高層なマンションは、一晩中照り輝く明かりのおかげで、他よりもずっと明るい。その該当のしたに、茶色い厚手のトレンチコートを纏った男がひとり、待ちくたびれたように入り口のとなりに寄りかかっている。

 

 時雨は当然のようにそこを通りすぎたが、それは違った。向かいから歩いてくる時雨をためつすがめつ眺めて、寄りかかっていたせいで斜めに傾いていたからだを起こした。

 

「藤野時雨さんですね」
「だったらなに」

 

 浅く頭を下げた男が、時雨を見据える。怜悧そうな切れ目が印象的な顔立ちだった。質の良さそうなトレンチコートの下は、灰色のスーツと濃いブルーのシンプルなネクタイ。時雨の目には、日の目を見ながら出世街道をまっすぐに通ってきた立ち姿の典型のように見えた。

 

 どうしたった自分と関わり合いになるタイプではない。時雨はほんの数秒で目の前の男から目をはなし、マンションの入り口を抜けようとする。

 

「谷口若葉さんのお子さん、あなたの家にいらっしゃいますね」

 

 足を止めた。ずいぶん久しぶりに聞いた響きだった。
 谷口若葉のお子さん――知らない言葉のようで、ゆっくりと頭の中で繰り返した。

 

 男はスーツの内側から名刺入れを取り出して、流れるような所作で高そうな厚手の名刺を差し出した。一瞥したが、手はポケットに突っ込んだままだった。男は顔色を変えずに名刺を引っ込める。

 

 マンションの明かりが煌々と照らした名刺には、あまり馴染みのない文字が涼しげに印字されていた。

 

「それにしても、遅いですね。いつもこんな時間に? 谷口くんはひとりで待っているのですか?」
「……別にどうでも良いだろう。で、なんの用事?」
「では単刀直入にお伝えします。お父様から、谷口くんを引き取りたいというお話を預かっています。それをお知らせし、同意をいただきにきました」

 

 ――同意をいただきに。やわらかい敬語の底には拒否権などまるでないといわんばかりの、したたかな意味合いがたっぷりと含まれている。

 

「母親だけだよ、あいつと暮らしてたのは」

 

 リョウタと二人、荒い金遣いの谷口若葉をとっ捕まえにボロいアパートへ向かったつい数ヶ月前を、遠い昔の記憶を手繰り寄せるように思い起こす。谷口若葉といえば若作りしたうるさいおばさん――それに、悪趣味な服やアクセサリ。派手な男漁りを繰り返すような女だった。もちろん、旦那がいた影など微塵もない。

 

 どうやら、長い時間待ちぼうけを食らっていたのだろう。その真実は同情を誘ったのではなく、事態のややこしさを彷彿とさせ、時折勲章のように繰り出される白い息は時雨の癪に障った。

 

「婚姻は結んでおりません。お父様は昔仕事の関係で日本へ来ましたが、そこで谷口若葉さんと出会った。しばらく国へ戻っておりましたが、最近日本での常駐業務につき、今はこちらに勤められております」
「で、あんたは誰?」
「私はただ、昔付き合っていた女性の息子を探すという依頼を引き受けたにすぎません」

 

 なるほど、と、名刺に記載されていた肩書に合点がいった。

 

 男が依頼人という男の写真を渡す。光沢のあるそれは明かりに照らされて一瞬反射する。ヘーゼルの光がキラリと光ったような気がした、体格の良い中年の外人はこれまですれ違ったこともないようなエリートの様相をしていたが、目の色だけがあの子どもと酷似していた。他のなにも似ていなかったが、何度もあきの双眸を間近で覗き込んできた時雨にとって、それは血の繋がりを証拠づけるものとして決定的に思えた。

 

「谷口くんを引き取っていた5ヶ月、赤の他人の子どもを置いておくのは大変だったこととお察しします。行方不明になっても警察へ届けられない、病気になっても保険証はない、とね」

 

 紅葉の季節にあきが突如として迷い込んだことや、つい先日には忽然と姿を消し、暴力に巻き込まれたことが脳裏をよぎる。ぼろぼろな姿を見つけても、家で介護するしか手段がなかった。痛々しい傷は、病院に駆け込んだらもっときれいに治せるかもしれない。証拠を掴んで届け出を出したら、法に従って相手をもっと苦しめることが出来たかもしれない。でも――警察にいったらまず自分たちの関係が他人同士であることを訝しまれただろう、病院へいっても治療を受けさせることは出来ないかもしれない。

 

 自分のなかで、もうひとりの自分は常に警笛を鳴らしていた。現実逃避のようなぬるま湯に浸っている時間が長くは続かないと、どこかでわかってはいた。だからこそ、時雨は驚くことをしなかった。

 

「ああ、そういえば大変だったかもね」
「谷口くんは近いうちにこの家を出ていくことになるでしょう。そのときは、どうか今までのことは大目に見て、ご迷惑をおかけしたことは水に流してあげてください」

「あ、そ」
「あとは、きっと時が解決するんですから」

 

 時が解決する。

 

 なにに向けて放たれたことばだろうか。ちっとも感情の読み取れない機械のような双眸と、一瞬だけ視線が絡む。時雨はその視線を振り払うように足を進めて、マンションへ入った。背中には、いつまでも不躾な視線が飛んでいる。

 

 頭ではわかっていたが、――心はどこかで自分たちの時間は永遠に続くと過信していた。

 今でも時雨は確信している。他人に対して心を開けないあきが、おそらく十年以上顔を合わせていないだろう地のつながった他人を求めて、ここを出ていこうとするはずはない。知り尽くしているからこそ、わかる。そして時雨もまた、あきを手元から離したりしない。

 

 それでも、あっさりと紐解くように、自分たちを引き離すだれかがいるかもしれないのだ。

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