時雨と紅葉。

十五話 理性と決壊

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「今回はしょうがないとして、これっきりだから」

 

 無断欠勤は、すんでのところで回避した。これまでであればこんな状況になっていれば目の前のあきのこと以外考える隙間なんてなかったのだけど、最近ようやくまとまっていた店のチームのことが、勤務開始寸前になってふいに浮かんだ。あきの元を離れて、茉優へ電話を掛ける。当然のごとく怒られたが、それでもこのことばで見逃したのは、おそらくあきの存在を知っているからだけではなかったのかもしれない。

 

 代わりにリョウタを出すから、どこかでリョウタとシフト交代するようにときつく言い聞かされて、いつもよりも短い小言の電話が終わった。耳を離して画面を見ると、ちょうど10時にさしかかろうとする頃である。

 

 携帯を切って、そういえば昨日ボロボロのあきを連れて帰ってきたっきり、自分は風呂に入っていないことに気づいた(あきのからだはどうしようもなかったので、時雨の手で洗ったが)。このままでは汗くさいだろうし、風呂に入っとくか。そう思っていたら、後ろでガッタンと何かが転げる音がした。

 

 振り返ると、寝室からこちらまで歩いてきたであろうあきが、ちょうどバランスを崩して前かがみに倒れ込んでいたところだった。一番近くにあるものを引ったくって着せたままの時雨のシャツはあきにとって大きく、だらしなく開いた襟や袖の隙間から赤や紫のあざになった肌がちらりと覗く。見えないふりをして、近づいた。

 

「なにやってんの、おまえ」

 

 ぽかんとした表情で、あきが時雨を見上げる。そうして、手を伸ばして時雨の服の裾を握った。まるで初めて会ったときのように表情が読みにくくなってしまっているが、小さな手が自分の服を握る姿が、強い不安を示していたことに気づかないほど鈍感ではなかった。

 

 電話で抜けた数分の間に、どうやら自分を追いかけてきたらしい。

 

「戻るぞ。からだ痛いだろ」

 

 服を握るのをやめさせて、細く脆いからだを抱き上げる。それは昨日と同じく、中身がなくなってしまったように軽かった。あきが落ちないように両手を回してきた。はあ、小さく吐かれた安堵のため息が、ふわっと耳に掛かる。
 はなれることを不安に思うのは、時雨も同じだった。ただそれを、あきに知られるのは癪だった。

 

『仕事は?』
「今日は休み」
『うそ。さっきでんわ』
「おまえ勝手に聞いてるんじゃないよ」
『ぼくだいじょうぶだよ』

 

 そういいながら、時雨はまるで片時もはなれたくないというように、時雨のからだに巻きつく。ことばと仕草がちぐはぐで、それがまた時雨に降り掛かっていた不安をさらに煽った。だから休みなの、おまえは関係ないから。そういって、あきをなだめながら再びベッドに入れる。転がりながら、あきはやはり時雨の服の裾をきつく掴んだ。
 
 
 
 夜中に帰宅して、家からあきの姿が消えていたのははじめてだった。デジャブのように、秋のあの雨の日の情景が浮かんで、すぐに来た道を引き返しながら、周囲を探した。明け方になるまで、あきは見つからなかった。

 

 はじめてあきが脱走した日、時雨はまだあの突拍子もなく得体のしれない小さな子どもの考えを理解しきれず、困惑しながら走った。だけど今は違う。あきの考えることが分かるからこそ、それはあきが勝手に家を出ることなどありえないという自信になり、最悪の予感となり、また的中した。

 

 壊れてしまったように生気のないあきを取り戻したとき、安堵と同時に、こいつはもう目を覚まさないのではないかという不安が募った。病院には行けない、まして警察にも届けられない――まるで人形のようにお行儀よく目を閉じたままのそれを眺めながら、時雨はただ言いしれない焦燥感に駆られた。

 

 傷だらけのあきを風呂に入れてきれいにしたから、何をされていたか想像に難くはない。ただ、その現実をあきが受け入れられるかはわからなかった。あるいは、未だになにが起こったかも整理出来てはいないかもしれない。

 

 あきは時雨の服の裾を掴みながら、なるべく近くにいたいというようにベッドサイドへ寄ってくる。時雨はされるがままになりながら、枕を移動してあきの頭の下へ挟んでやった。あきのやわらかい髪の毛が、肌をくすぐる。

 

 あきの表情は、特に何を語るわけでもない。最近はすこしずつ柔和になっていたというのに、元の能面に戻っていた。それなのに、溶けるようなヘーゼルのせいで、引き寄せる力の妙に強いふたつの瞳は、さっきから時雨の一挙一動を追っている。まるで逃さない、どこにも行かないでと懇願するように。

 

「ちょっと、寝ろ。疲れているだろう」

 

 あきが首を横に振る。シーツにこすれた髪の毛が、ばらばらに散らばる。時雨の服の袖は、すでにあきの握りこぶしに合わせるようにしてしわしわになっていた。せめてしわのならないところに、と思って途中ではなさせたら、動かない表情筋の奥にある瞳がひどく不安げに揺れた。温まった手のひらを包むと、それ以上の強さで返してくる。

 

 もう片方の手が、あきをすっぽりと包む時雨の手の甲に、なにかを書きはじめる。

 

『しぐれきた』

 

 遅かったけどな、と衝動的にいおうとして、思いとどまった。

 なにが、しぐれきた。だ。

 おまえは俺とルリの取るに足らないいさかいに、ていよく巻き込まれたんだ。もっと怒れっつうの。

 

 あきが自分の前で心を解いていることへ反射的に湧き上がる喜びと、その喜びをはるかに凌駕する罪悪感とが、時雨の頭をぐるぐると占領していく。自分があきの立場だったら、どんなに目の前の男を憎んだことだろうか。

 

「おまえ、俺のせいっていわないの」

『しぐれなにした?』
「おまえは俺とあの女の痴情のもつれとやらに巻き込まれたんだぞ」
『ちじょ……なに』

「あー……喧嘩だよ喧嘩。それもくっだらない」

『ルリとあった?』
「んだとこら、怒るぞ。会うわけないだろう、殺すかもしれない」
『あいたいってわらった』

 

 こいつなにいってんだ。内心ではこんなこというこいつも面倒だと思いながらも、時雨はあきの顔をしげしげと見下ろす。基本的にあきにはこどばが足りない。本心を注意深く読み取ろうと、ひどく秘密主義な顔色を注視する。ことばよりもはるかに流暢なのは、さっきからまばたきもしないといわんばかりにこちらを見上げる双眸。それは試すように、それでも何かを求めるようにゆらめく。

 

「なんでそんなこと聞くの」

 

 沈黙のあとで、そう問いかけると、あきは目をしばたかせて、おずおずと時雨の手に指をかける。

 

『あうのはいやだ』

 

 こいつはまだ、自覚していないのだ。どれだけ何を思われているのか。自分が目の前の男に対してどんなに邪な思いを抱かせていて、またその一方で、どんなに庇護下においておきたいと苛立たせているか。時雨は目の前の子どものいじらしさに頭がおかしくなりそうになる。

 

「会わないよ。――おまえが、会ってあいつ殺せっていわない限り。もーなんなのおまえ」

 

 誰かと深く想いやることは難しいけれど、それ以前に自分の深い想いがだれかに伝わることさえ、こんなにも難しい。

 

『なんで、ぼく、こんなこと思うのかな』

 

 それどころか、自分の中に芽生える気持ちすら、あきはうまく解釈できない。

 あきよりもわずかに敏感だった時雨は、本人よりも先にあきの中に渦巻く“嫉妬”という感情に気づいて、それはふんわりと自分の心を温かくした。当の本人は、そんな時雨の胸の内など知る由もない。
知るか自分で考えろ。

 

 そっけなくいい放って、もうこの話は終わりだといわんばかりに、あきの頭をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。まだ能面のような表情は戻りきらなかったけれど、あきはされるがまま時雨の手のひらに頭をこすりつけた。

 

 腹の中がずぐりと熟れた果実のように響いたけれど、いっそ辟易するほどあっという間に首をもたげるさわりたいという欲望をなんとか抑えた。

 

 昨晩と同じことを、目の前のくたびれきったからだにぶつけられるほど、図太くはない。なにより、同じと思われたら――自分の気持ちも時雨の気持ちも理解していないあきが、その行為を“同じもの”と思う可能性は十分にあった。

 

 今あきが時雨を前に安心しきっているのは、時雨に対する信頼や親愛の気持ちがどうやったって強い。

 この先あきに求めるものは、あの男たちも自分も同じだ。でも、同じじゃない。

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