時雨と紅葉。

十四話 仲直りと嵐の予兆

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 吐きたいけれど、からだのなかは空っぽでなにもないような気がしていた。あきは深い意識のなかで、そう思う。

 

 ――大丈夫よ? じきに気持ちよくなるから。……あんたのなかに水商売が大好きだった淫乱な母親の血が流れてるなら、ね。

 

 真紅のくちびるが歪んで、ルリの顔はやがて霞のように消える。今度は知らない男たちの高揚した声が聞こえてくる。その声と手足は蜘蛛のようにあきのからだに巻きついて、縦横無尽に這い回る。からだが動かない。

 

 たすけて、

 

 ――おまえ、声が出せないんだって? 残念。声聞きたかったなあ。

 

 ああ、そうだ。僕のこと、だれも気づかない。助けてくれない。気持ち悪い、どうしてそんなところを触るのだろう。やめてっていいたいのに、このひとたちのからだが鋼のように重くてぴくりともしない。

 

 気持ち悪い。きもちわるい、きもちわるいきもちわるい。たすけて。

 

「……き。あき」

 

 からだをゆすられると、あの感触がすこしずつ遠のいていくような感覚に陥る。まだ沈んでいたい気持ちと、だれかが外側からひどく一生懸命自分を呼んでいる気がした。ずるずると引き上げられるように、うっすらと目を開く。同時に、あのやわらかいベッドの感触が戻ってきた。開いた双眸のすきまから眩しい光が入り込んでくる。朝か、昼か。とにかく太陽が爛々と輝いている。

 

 視界の中心に、時雨がいた。あきがこれまで見たことのない表情で、いつものベッドを見下ろして。その表情は、なんていうことばで表すのだろう。あきは目覚めて一瞬でからだを襲ったけだるさを全身に感じつつも、時雨の顔をぼんやりと見上げる。

 

「気づいたか。うなされてたから叩き起こした」

 

 そろりそろりと、周りを見渡す。昨日の朝、仕事終わりの疲れから深く眠っている時雨を横目に家を出たままの、ぐちゃぐちゃのベッド脇。スケッチブックが忘れられたように無造作に放られている。ものが極端に少ないせいで殺風景な部屋と、開け放たれたカーテンの隙間から、眩しく差し込んでいる陽の光。――まぎれもなく、時雨の部屋だった。

 

 起き上がろうとからだを動かしてみると、全身をひどく鈍い痛みと妙なけだるさが襲う。まとっている白い服は時雨のシャツだった。いつの間にか着替えていることに疑問を感じつつ、起き上がりながら手を出して時雨に状況を聞こうと思ったけれど、大きな手で背中を押さえられながら布団へと戻される。
こちらを見下ろす時雨を見上げた。衝撃をやわらげるようにしていた時雨の手が、あきの背中から出ていく。

 

 鈍い動きで腕だけをそろそろと起こすようにして、丁寧にしまわれていた毛布の隙間から伸ばす。時雨の頬の一番高いところを、そっと人差し指で触った。あったかい。でも、そこは濡れていなかった。泣いているひとは、こういう顔をすると思ったけれど、時雨は全然水っぽくない。

 

 どうして?

 どうして時雨はそんな顔をしているのだろう。時雨は痛くないのに、僕と同じ傷があるのだろうか。あきは枕に後頭部をつけたまま、時雨を呼んだ。声は出なかったけれど、くちびるの動きで察した時雨が、覆いかぶさるようにあきのからだを抱き寄せる。

 

 それから一瞬だけきつくあきを自分のからだとくっつけたあと、すぐに力を緩める。

 時雨があきの名前を呼んだ。やはりあきには、泣いているように見えた。

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