時雨と紅葉。

十四話 仲直りと嵐の予兆

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*やや残酷で暴力的な描写が含まれますので、閲覧は自己責任でお願いいたします。
 
 
 
 その日、あきは日課のように城田と並んで下校して、いつも通り電車へ乗るところで別れて、それからはひとりだった。はじめこそ標識を見るなどという器用なことの出来ないあきには、ホームや改札など迷う要因で溢れかえった電車通学だったが、コツを掴めばどうということはない(というより、行き・帰りのホームから並ぶ場所まですべてを記憶したという方が正しい)。

 

 いつもどおり電車を降りて、時雨の住む高級マンションへと向かう。最近の時雨が休みの日以外で夕方から家にいることは皆無なので、あきの足取りもどことなくゆったりになる。だれも待っていない、暖房のないつめたい家に帰るのだから。

 

 時雨、もう一週間おやすみない。

 

 以前にそれをいったら、今はお店の立ち上げの時期で、おやすみはどうしても不定期になるんだって。あきは“立ち上げ”の意味を知らなかったけれど、そのことばがきらいになった。

 

 冬休み明け、二月には学校がざわざわしていた。城田に理由を聞いたら、「知らないよ。……バレンタインデーだからじゃないの?」と。城田、知らないっていったのにちゃんと知っている。なんでへんな嘘ついたのだろう? じい、と顔を覗き込んだら、面倒くさそうにそっぽ向いて距離を取られた。

 

 すきなひとにチョコレートを渡す日なのだとか。でもそれは、女の子からじゃないとだめだから、おれたちには関係ないよっていってた。おまえみたいなモテなさそうなやつも関係ない、といいきられる。たしかに、学校で女の子たちと話したことはなかったから、了解といわんばかりに頷いた。城田は呆れたように「おまえ、そういうのなさそうだもんなあ」と苦笑いして、どことなくふてくされた様相から、いつもの態度に戻った。これは後からわかったことだが、城田もモテないんだって。あんなに料理ができるのに。

 ちなみに、なんでって聞いたら怒られた。コミュニケーションは難しいと、あきは思う。

 

(チョコレート、食べたいなあ)

 

 前に茉優がお土産に持ってきてくれたものを食べたことがあった。あきはバレンタインデーに対する浮ついた気持ちというより、チョコレートに対する物欲をにじませつつ、ぼんやりとマンションへの道を歩いている。

 

「ねえ、きみ」

 

 小さな部屋に、まるで宝石のように規則的に並べられているのに、その一つひとつが違った形をしていた。そんなアクセサリのような茉優のチョコレートに思いを馳せていたからだろうか、すぐ近くにあった人影にはすっかり気づかなかった。
 顔を上げると、そのひとは以前そうしてくれたようにやさしく笑った。

 

「時雨のところにいた、あの子よね。お名前は、聞きそびれてしまったのだけど……」

 

 ああ、あのきれいな女のひとだ。

 

 ――こんにちは。えーっと……きみはどこの子かしら? ここは、時雨の家だと思ったんだけど……。

 

 そのひとは、茉優よりもお母さんに近いような女のひとのかおりがして、すこしこわかった。しかし出会ったとき、戸惑ったような素振りをしつつも、やさしく気遣うようにしゃがんで、あきと視線を合わせてくれたのだった。
 年が明けるよりも前だったから、すっかり記憶が風化してしまっていた。

 

(こんなに、きれい、だったかな?)

 

 頷いて、足を止めた。そのひとは、小さなかばんを持ちながら、あきとの距離を縮めてきた。膝を折るようにあきと視線を合わせる(その人は五センチ以上のヒールを履いていたから、あきよりも背が高かった)。

 

「こんにちは」

 

 もう一度、うなずく。
 どうしたのだろう、時雨を探しているのだろうか。

 

 とりあえず話をしようと思ってスケッチブックの入ったリュックにかけようとしたのを制すように、そのひとのしなやかな手があきの腕を掴んだ。くらくらするような甘い匂いを、風があきのところに運んでくる。ふわふわとしたコートの袖口から覗く細い指先と、赤く塗られたマニキュアが、あきの細い手首に絡んだ。氷柱のようにつめたいそれに気づいて、このひとがずっと長い間外にいたことを知る。

 

 腕をはなさせようとしたけれど、振り払ったらびっくりするだろうか。
 スケッチブックがないと、時雨以外とは複雑なコミュニケーションが出来ない。だから、このままだとこのひと――ルリに、あきはなにも伝えられないのだ。

 

(えっと……どうしよう)

 

「ああ、そう。口が聞けないのよね」

 

 コクコクと頷いて、空いていた手で背中の方を指差す。

 

「私に何かを伝えようとしてくれているの?」

 

 また、深くうなずく。化粧を歪ませるみたいに、ルリが微笑する。そうして表情を崩すと、厚手のファンデーションに皺が入って、このひとがそんなに若くないことを知った。それに、黒いマスカラとブラウンに塗られた目元は、すこしも笑っていないような気がする。

 

「……」

 

 そうしてはじめて、このひとをこわいと感じた。
 どうしてだろう。ルリの物腰は柔らかいし、口調も語りかけるように丁寧だった。それなのに、あきを見下ろすその双眸のずっと奥には――お母さんのように澱んだ、どろどろしたものが見えた。

 

 腕を離してもらおうと引っ張りながら後ろに後退りして、リュックがなにか大きな壁にぶつかった。差していた影は壁――ではない、ひとだ。大柄なだれかにぶつかって、後ろを振り返ろうとしたとき、いつの間にやら真後ろに近づいてきていたそれが、急に動き出す。

 

「私、時雨にもう会わないっていわれたの。でも、どうしてももう一度会いたいのよ。ねえ」

 

 鼻と口元を、白いタオルが力ずくで覆う。まぎれもない男のひとの力に、手足をバタつかして抗った。それはあきをすっぽり包むほどに大きなおとなの影だったから、抵抗はほとんどなんの意味もなさない。

 

「……っ」

 

 ルリを映していた視界が、グラグラと歪んだ。

 

「でも、もう一度会いたいの。あなたと一緒にいれば、時雨は会いに来てくれるのかしら」

 

 気持ち悪い。出来る限りの抵抗をしたいのに、どうしてかあきのからだはビリビリと痺れていく。
 
 
 
 ――や、しぐれぇ……っ。もっと……っ。

 

 そうだ、あれは、ルリだった。ルリは時雨がすきなんだ。

 

 だからぼくが時雨と一緒にいることを知っていて、時雨ともう一度ああいうことがしたかったから、ぼくに会いに来たのかもしれない。

 

 時雨の背中とそこに長い腕が回されていた景色が、視界がかすれきってなにも見えなくなったあと、急にフラッシュバックした。気持ち悪い、吐きそうだ。艶めかしいその姿がお母さんのくたびれたむき出しの背中となぜか重なって、目の前の視界を閉ざして顔を覆いたくなる。

 

 夢から逃れるように、あきは無理やり目を開けた。身じろぎをしたのが夢のなかなのかうつつでのことなのか、判断がつかなかった。やがて溺れていた水底から顔を出すみたいに、あきの視界に薄暗いあたりが映る。

 

 話し声が聞こえる。男のひとだ。男のひとといえば、あきの世界には時雨かリョウタかしかいなかったけれど、そのどちらとも似つかない下品な笑い声だった。からだがうまく動かなかったので、寝返りを打つようにしてその方向へ目を向けると、コンクリート製の冷たくて固い床に、肩甲骨がごりっと当たった。

 

 自由にならないからだと鈍い痛みに顔をしかめたちょうどそのとき、奥の方で男のひとたちと何かを言い合っていたルリと目があった。

 

 ――ここ、どこ?

 

 口をパクパクさせながらルリへと問いかける。ルリはそのことばを理解しているのか、していなかったのか。あきを見下ろしながらくすっと笑って、周りの男のひとたちになにかいった。あきを失神させてからまた引き直したのであろうルージュが、三日月に歪む。

 からだに力が入らない。

 

「気づいた? 手荒なことしちゃったけど、からだ、大丈夫かな」

 

 わざと高いヒールを鳴らすようにして、ルリが歩いてくる。あきを心配しているかのような声色なのに、瞳の奥は氷のようにつめたい。あきは立ち上がろうとしたけれど、うまくいかなくて、手をついてからだを起こしては、からだを再び床に打ちつけた。様子を見ていたルリが、笑う。

 

「コンクリート、痛い? じゃ、あっちいこうか」

 

 どこから来たのだろう。後ろから伸びてきていた腕が、子どもにするみたいに、あきを引きずりあげる。からだは別のところに飛ばされて、打ちつけたそこはコンクリートほど固くはなかったけれど、いつも時雨と一緒に眠っているベッドよりもずっと居心地が悪かった。

 ルリを見上げたままのあきと、ルリの間を、何本もの腕が覆う。

 

「おまえ、声が出せないんだって? 残念。声聞きたかったなあ」
「おい。独り占めしてんな、こっちにもよこせよ」

 

 知らない声だ。埃っぽいベッドに乗り上げてきた何人かの男の顔を、交互に見る。そのうちのひとりが、あきの弛緩しきったからだを撫でながら、乱れた制服のボタンに手を掛けた。蛇が這い回るような、奇妙な違和感。なにがはじまるのか合点がいったのは、からだをわずかにくねらせるしか抵抗出来ずにいたあきの素肌に、複数の手がはっきりとした意図を持ってふれたからだった。

 

「ほっそいなあ。こんな細腰いけんのかな」
「俺はもうちょっと男っぽいのが好みなんだけどな。こんなんじゃ女ヤッてるときと変わらねえだろ」

 

 逃げようとしても、動きの鈍いからだは、体格差もあってあっという間に拘束された。

 

「じゃ、まあ、おまえも楽しもうぜ」

 

 あきは蹂躙しはじめる手の主が、そういった。愉悦の混じったその表情と視線が絡み合う。あきはとっさにルリの方へ腕を伸ばした。

 その手はあっさりと男たちに拘束される。その様子をベッド脇で仁王立ちになって眺めていたルリが、今度こそ嘲笑するような笑みで、いった。

 

「大丈夫よ? じきに気持ちよくなるから。……あんたのなかに水商売が大好きだった淫乱な母親の血が流れてるなら、ね」
「ルリ、心配すんなよ。たぶんこいつ素質あるよ」
「だって。良かったね」

 

 あきがくちびるを動かす。

 たすけて、と。

 

 ルリが「助けてほしいのは私よ。もう一度時雨に会いたいの」といって、踵を返した。それを最後に、あきの耳を支配するのは、男たちの動物のような息遣いと、服がこすれる音と、下品な話し声だけになる。

 

 一着しかないからときれいにしていた制服がくしゃくしゃにあたりへ投げ捨てられる頃にはすこしずつからだを支配していたけだるさがなくなってきていて、逃げようとしたら頬を張り飛ばされた。背後に回っていた男があきの両腕をとって、馬乗りになって、あきの視界いっぱいを支配した男の背中へと無理やり回させる。

 徐々に鈍感になっていく感情のなかで、はっきりとわかった。

 

 ――ぼく、いま、あのときのお母さんとおんなじだ。

 

 押入れの隙間から見えた、ベッドでひとつに混ざり合おうとするお母さんと知らない男のひとを思い出す。恍惚としたふたりの表情と、へんなにおいと、耳をつんざくような喘ぎ声のすべてが、あきにとってはひどく不気味で。
思考がぐちゃぐちゃになっている。かなしいのか、こわいのかわからなくて、あきは無表情のまま凍りついた。

 

 これ、いやだ。時雨のところに、帰りたい。

 

「おい。おまえ何やってんの?」
「だって、セックスにはキスがつきものだろ。じゃないと、なんかゴーカンみたいじゃん」
「うげえ……。そいつさっき俺の咥えたけど」
「いんだよ、んなのは。あとでおれのもやらせるから」

 

 くちびるに、時雨のくちびるがそうしたように、誰かのそれが貪るように触れてくる。あきはそのときはっきりと、時雨のくちびるの感触が消えていきそうになる感覚に、死にたくなった。

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