時雨と紅葉。

十四話 仲直りと嵐の予兆

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 ――なんだよ、そのアホ面は。

 

 そのときあきは、自分の荷物がまとめられたソファで、荷物を引っくり返していた。水色のしゃらしゃら鳴るキーホルダーをどこにつけようかと思案していたのだった。ひとしきり少ない持ち物の探索をし終えて、(つけるところ、ない)としょぼくれていたあきの眼前に、突然それはぶら下げられた。

 

 状況が読み込めず、またそれにすこしも馴染みがなかったから、いつも以上に理解まで時間がかかる。仕方なさそうにため息を吐いた時雨が、鍵、と呟いた。

 

 ――入れなくて家の前で待たれるとか面倒くさいから。おまえ、トロいからやりそうだし。

 

 かぎ。小さく、くちびるを動かしてみる。お母さんとの暮らしの中でも、馴染みがなかったものだった。両手に取ってみると、冷たくて硬いギザギザの金属が手の中に収まって、見た目よりもずっと軽く感じた。

 

 ――来い。どうせ使ったことないだろう、開け方教えてやる。

 

 立ち上がった時雨の手を掴んで、くらげのキーホルダーを添えて渡す。受け取った時雨があっという間に鍵とくらげをくっつけた。そうして、鍵はあきのものになったのである。
 

 

 時雨から何度か教えてもらいやっとお墨付きをもらえていた鍵の開け方にも慣れた頃、あきは時雨がいっていた意味をやっと理解し始めていた。

 

 学校が終わった放課後、まっすぐに家に帰って重たい扉を開けて部屋を通る。迷わずに寝室を覗くけれど、そこは最近もぬけのからだった。時雨は仕事にいってしまい、帰ってこないのである。

 

 違和感がはっきりとわかると同時に、夜遅くに隠しきれない疲労とともに帰ってくる時雨から、女のひとの濃密な香りが消えていることに気づいた。時雨はどうやら、これまでの仕事を手放して新しいことを始めているみたいだ。

 

 元々これまで夜に時雨が不在だったことや、学校に行きはじめていたことから、早めに寝るようになっていたあきは、最近0時前の帰宅音に起こされることになっている。鍵を回す音とともに、既に重くなっている頭を持ち上げ、時雨を迎えた。

 

(今日も、お仕事……)

 

 時雨の生活は、目に見えてせわしなくなっている。そもそも家にいる時間が驚くほど少なくなった。あきは確かめるように温度の感じないベッドをさすり、そのままぽすんと横になった。

 

(今日も、いない……)

 

 うつぶせに横になって鼻先をシーツにこすりつけると、かすかに時雨のかおりがした。今朝も会っているというのに、なんとなく懐かしい気がして、もう一度深く吸い込む。

 時雨が新たにはじめた仕事は、朝がすこし遅いみたい。あきが学校のために家を出るのをベッドから見送っている。そうしてすこし遅めに仕事に向かえるが、その分夜は0時前まで帰らない。超えることだってあった。

 窓の外では、空の色が薄赤い夕焼け色に染まりはじめている。時雨が帰ってくるまで、あと6時間はあるだろう。あきは(ごはん、作っておこう)と思いながらも、そのままぎゅうっとまぶたを閉じた。

 

(どうして、時雨はお仕事を変えたんだろう)

 

 いつそばによっても時雨から知らないひとの香りがしないことは、あきにとってすこしの安心感となった。お母さんのようなことを思い出さなくなっていたから。しかししばらくして、生活スタイルをがらりと変えた時雨がすこしずつ疲弊していくのを見ていたら、疑問が生まれた。そうまでして新しい環境に身を乗り出す理由が、あきには理解できない。

 

 潰されそうな重みを感じて、伸びをするようにそれから無意識のうちに逃れようとしたら、いっそう強くそこに閉じ込められる。鍵を回す音は耳の奥で響いた気がしたけれど、もう一度眠ってしまったみたいだ。深い眠りの世界からずるずるとその重さに引き寄せられるようにして目を開いたら、ぼやぼやした視界から見えるのはいつもと同じベッドサイドの景色。温かいのは、後ろから時雨があきを羽交い締めにするような形で抱き込んでいるからである。

 

 真横に倒していた顔をすこしだけ上にあげて時計を見上げると、時刻は十二時を回ろうかというところだった。いつもよりすこし遅い時間だった。今日は金曜日だからかな。あきは時雨がひとりごとのように“金曜日は忙しい”といっていたことを思い出しながら、ずるずるとからだを回転させる。視界いっぱいを占拠する時雨の胸に、ひとさしゆびで文字を書いた。

 

「ただいま」

 

 時雨が答えた。
 そして、あきが起きていることを知ると、自分のためにそうするかのようにあきの髪の毛をやわらかい手つきで梳いた。見上げると、時雨の顔にはすこし前には見られなかった疲労の跡が見え隠れしている。髪の毛はやや乱れていて、くちびるがかさついていた。それに、ひどく眠そう。

 

「閉店までこき使われるとか聞いてねえっつーの」

 

 愚痴をこぼしてあきに巻きつく時雨のからだが疲れを隠しきれないながらも、そういうふうにいう時雨からはほんの小さなエネルギーを感じる。仕事というものにひどく無気力だったホストの頃とは、別の人間になったみたいだ。

 

 人間観察なんて不得手のはずなのに、ずっと一緒にいるからか、なんとなくあきはそう感じていた。だから、仕事やめる?そんなふうに聞くこともしない。時雨は新しい仕事にどことなく充実感を得始めている。あきは抱き枕のように黙って時雨の胸の中で、変わった暮らしについて知るために話しかけた。時雨がまだ眠りそうにないことに安堵して、指を動かす。

 

「今日のまかないについて? おまえ……ほんとうに最近意地汚くなったな。コメに味つけたやつ。名前とかないよ、まかないだから。でも美味いよ、食うとおまえの料理がどんだけ下手かわかるっつーか」

 

 むっとして、じゃあつくらない、と背中を向けようとしたけれど、許されない。時雨はいじめっこのように、膨らんだあきの頬をやさしくつねって、口端を上げた。さらに距離を詰めるみたいに足をぐるりと絡まされる。

 

「うそ。おまえの作ったもんも悪くない。おまえ以外が作ったあのクオリティのもんだったら無理だけど」

 

 どういう意味だ。

 ということは、結局下手ということじゃないか。からだはすっかり拘束されているから、あきは抗議の意味を込めて頭突きをしてみる。そういたら、そのまま後頭部をぐいっと掴んで押しつけられて、ただ額が時雨の胸にぴたりとくっついただけだった。ぐりぐりいたずらされて、ベッドを蹴るようにして暴れる。足は時雨の足に絡め取られているからそれほど満足には動かせず、胴体をくねくねさせた。時雨はいもむしのようだと意地悪く笑う。

 

「なんでか、何を食ってもおまえのたまご思い出す。すごい効果だな」
「……」
「褒めてんだけど」
「……」
「褒めてないって顔してる」

 

 当たり前だよ。そんなふうにすねていたら、時雨がからだをかがめるようにして、あきの頭にキスをした。時雨のくちびるが当たったことに気づいて、次の攻撃に備えるためにからだを硬くしたけれど、結局それ以上なにかをすることなく、時雨のからだはだんだんと弛緩していく。

 穏やかな呼吸が聞こえて、時雨があっという間に眠りについたことを知った。

 

(今日のこと、いわないほうが、いいかな)

 

 女のひとの香水の匂いがひどくきつくかおっていた頃の時雨は、夕方から朝方までをこの家でないどこかで過ごしていた。けれど今は、昼前から真夜中までであって、生活は見事に逆転している。そんな生活にからだが追いつこうとしているのか抵抗しているのか、ベッドに入った時雨が眠りにつくのは早くなっていた。

 

 時雨が一日中家にいる日も減った。一週間に一度か二度、しかもあきが学校に出ている平日なのだ。時雨の新しいお仕事をあきはよく知らないけれど、金曜日と休日に忙しいことは、時雨の疲弊具合を見るとなんとなくわかっている。

 

(時雨は、だいじな時期なんだ)

 

 ――街のちっちゃい食いもん屋だよ。茉優はレストランとかカフェとかそういえっていってたけど。

 

 それって、どんなお店なんだろう。時雨はどんなことをしているんだろう。楽しいのかな、疲れないのかな。茉優とリョウタ以外にはどんなひとがいるんだろう。

 

 知りたい。時雨はなにか、新しいことをはじめているから。

 

 あきもまた、最近はほぼ毎日学校へ向かうようになっている。時雨がおやすみと知ると自分も家にとどまることがまれにあるが、それ以外はだれもいない家にいても意味がないと、外へ出る。よくわからないいたずらをされたり、クスクス笑われたりすることはあるけれど、それはあきにとって不思議とあまり気になるものではなかった。

 

 なにかが、すこしずつうつろっていく。

 

 時雨の拘束がゆるくなっていって、思わずぎゅう、とはなれないように抱きついた。夢うつつの時雨が、気づいておぼつかない手つきであきを抱きしめ直してくれる。

 

 廃墟のような公園でゲロまみれの時雨と出会ったのは、まだ紅葉が赤く染まる前だった。季節はめぐって、もうあと一ヶ月もすぎれば冬の終わりが見えてくる。あきはそれが、なぜだかとても不安だった。

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