時雨と紅葉。
十二話 キーホルダーと2回目のキス
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(城田と時雨、なんも、おなじじゃなかった)
――なにおまえ、ホモなの。気持ち悪い!
ホモとか気持ち悪いとか、そういう暴力よりも、やっとともだちになったはずだった彼からの突き刺すような叫び声があきの胸をえぐった。逃げるようにその場を去られたあと、グラウンドを走る生徒の声を耳の奥で聞きながら、あきはしばらく放心状態でその場に突っ立っていた。城田の行動の意味がわからなかったのだった。
しばらく考えて、わかったことといえば、やっぱり、自分にとって時雨がさわることは他のひとにさわられることと絶対的な違いがあって、ひどく特別であるということだけだ。そのあとに、友達同士でくちびるを合わせるのはいけないことなのかもしれないと思いついた。
城田に去られてからもしばらくその場を動けなかったあきは、ようやく重い足取りでトボトボと帰途についた。いつもよりも遅くなっていたから、短い日はあっという間に暮れようとしている。
時雨はきっと、今日も仕事だ。
そろそろ支度をしはじめる頃だと思いながら、マンションのエレベーターを使う。そういえば、最初はエレベーターの存在を知らなかったから、ビビっていつも階段を使っていたのを思い出した。
時雨といると、自分の知らないことが世の中には溢れていることを思い知らされる。
短くため息を吐いて、エレベーターから一番奥の玄関を開いた。もちろん、あきが返ってくるのをわかっているから、鍵はかかっていない。しっかりとした重い作りのそれを開いて、あ、と思う。――よりも先に、なぜか目の前の玄関を塞いでいた時雨の手に捕まって、ぐい、と引き寄せられる。
「遅い」
ばたん、と、制御の効かなくなっていた扉が締まった。後ろのけたたましい扉の音を聞きながら、肩口に押しつけられた額をずらして、時雨を見上げる。そうあるのが当たり前、というように、時雨はあきを見下ろしていた。先に目をそらしたのは、あきだった。
最近、ひとのことをじっとりと見つめるというあきの癖は、時雨だけに作用しなくなっている。それがなんでなのか、あきは知らない。
「どこでなにしてたんだおまえは」
両手ごと巻き込まれて抱きすくめられているからか、靴すら脱げないというあきの抗議を時雨は無視する。ふわりと抱き上げられて、脱ぐ、というよりは抜け落ちるように足から外れた靴が二足、玄関へ散らばる。時雨はそれを知らんぷりして、あきのからだを抱っこして運んだ。
あきはそうされながら、最近おかしくなってしまった心臓の音が時雨にバレやしないかと、ハラハラする。最近の時雨はすっかりおかしくなってしまった。
仕事着に着替えているものの、まだ出発までやや時間があるらしい時雨が、あきごとソファに腰を下ろす。必然的にあきは時雨の膝の上にきたので、いやだと思って逃げようとしたが後の祭りだった。最近の時雨はおかしい上に、あきの行動を予測するのが上手になってしまった。
あきのおなかをかっちりホールドしたまま、時雨がぎゅうぎゅう後ろから抱きしめてくる。
「おまえなかなか帰ってこなかったけど、今日はどこで油売ってた?」
ほら、といわんばかりにてのひらをパーにされて、文字を書く。今あきを捕まえているのは片腕だけだが、その片腕の力にすら勝てないことは実証されているので、余計なことはしない。
「ともだちができた? あーそう。やっとね。よかったじゃん。……でも怒られた?」
てのひらがあきの頬を撫でて、「もしかして、そいつに殴られた?」と聞かれる。その声はちょっとだけ怖かったので、一応全面的に自分が悪かったことを伝えておく。時雨のすべすべした指がいたわるようにぺたぺたさわってきた。さわられるほうがいたい。
「おまえコミュニケーションへたくそだからなあ。なにいったわけ?」
『いってない。おこることしちゃった』
「殴った?」
『キス』
「へえ。なるほど。……いやいやちょっと待て」
『しぐれもうしごと?』
「待てっていってんだろうが」
膝裏に手を回されて、くるりと方向転換される。急に目の前にきた時雨に、思い切り顔を覗き込まれて、慌てて下を向く。
あれ? ……時雨、怒った?
「あーもう、これから仕事だってのにめんどくさいな。……で、おまえ、そいつがすきなの?」
仕事ならもう行けばいいのに。そう言おうとしたけれど、時雨が手をくれないせいで、コミュニケーションが成立しない。そうなると、しゃべれないあきは時雨に対し首を横か縦に振るという意思表示しかできない。
あきは頷いた。城田はすきだ、どうやらきらわれてしまったみたいだけれど。あんなふうに手際よく、しゃかしゃかとチャーハンを作ってみたい。
「いや待て、質問の仕方を間違えた。おまえあれだもんな、すきの意味すらわかってないんだもんな。……そうだなあ、友達とはキスがしたかったのか?」
答えろおら、といいながら、両頬を挟み込んでぐいぐい揺さぶられる。脳がシェイクされるのを感じつつも考えて、首を横に振った。そもそも城田のくちびるが美味しそうで、ドキドキしてキスをしようと思ったわけではなくて、あきのなかで城田とキスすることを通して、ある実験をしようとしていた。仕掛けは最初からあった。なので、したかったわけではないのである。
時雨はなぜか、それを聞くと胡乱げにしていた眉間のしわがやや薄くなった。
「じゃ、なんでんなことしたの」
それは困る質問だ。
手を目の前に突き出される。回答権を与えられたあきは、時雨にその理由を伝えるわけにはいかなくて、困惑する。理由は、時雨にはいえないものだ。だんまりを決め込んで、ぎゅう、と時雨に抱きついた。許してほしい、というサインである。
「おまえそれで許されると思ってんのか」
だめであった。
「……」
「いいか、あき。……そのお花畑すぎる頭ん中がどうなってんのか、正直知りたくもないけど、これだけは教えてやる」
時雨の手が、あきのやわらかい髪の毛を弄んだ。
「おまえが城田とか俺としてるキスってのは、すきなひととしか自分からしちゃいけないの。わかった? もーなんで俺こんなことおまえに教えなけりゃならんの」
「……」
「今度茉優に少女漫画でも持ってきてもらうか。……あいつ持ってんのかな」
すきなひと?
あきは、茉優もリョウタも城田も、時雨もみんなすきだ。そのひとたちに、キスをするということだろうか。
「その顔、意味わかってないだろ」
あきに見上げられた時雨はげんなりした様子で、それでもキスについて説明をしようと、なにやら考えているようだ。しかし物知りの時雨でもそれを説明するのは至難の業らしく、しばらくあーだこーだいいながら、八つ当たりのようにあきの髪の毛をくしゃくしゃにかき混ぜた。そのうちに、面倒くさくなったのか、吐き捨てるようにいった。
「つまりだな、キスしたいと思ったときしかしちゃだめなわけ。わかる?」
キスしたいと、思うのはどんなときなんだろう。そのときが一度も来たことないみたい、と、あきは首をぐいーと傾げながら頷いた。へんな体制になる。でも、今日城田にしたのがだめだったってことはわかった。……そういうこともあって、城田も怒ってしまったのかもしれない。
もしかしたら城田には他にキスをしたいひとがいたのに、あきとしてしまったから、いやになったのかもしれない。あるいはあきが自分とキスしたいわけじゃないのに実験みたいにしてきたから、きらいになったのかも。
あきはどうしたって情報の足りていない頭で一生懸命考える。そうやって城田のことに頭をくるくる回していたら、いつの間にか近づいてきた時雨のくちびるが、引っ叩かれた頬に降ってくる。ちゅう、と吸われて、慌てて逃げた。
追われて、今度はおでこに吸いついてくる。忘れていた動悸が思い直したようにドキドキと音を立てた。うう、と思いながら膝から降りようとしたけれど、こういうとき一枚も二枚もうわてな時雨が、逃げられないようにしてくる。
ぎゅう、と目をつむったら、そのすきにくちびるを奪われた。
「……なに」
『だめ』
「なんで」
『しぐれがさっきいった。キスはすきなひとしかしない』
「だーかーらー。今、してんだろ」
そろそろわかれ。
そういわれて、抗議しようとした手と時雨の手とが重なり合った。呼吸さえも閉じ込めるように、深い口づけをされる。
「……っ」
最近の時雨はすっかりおかしくなってしまった。あの、水族館の帰りをさかいめにして。
あきのことなど知らん顔で毎日を過ごしていた時雨はどこかへ消えてしまった。今では暇さえあればしつこく自分を追い回して、ひどく困らせる。何度もふれてくるそれに、溶けるチョコレートのように力が抜けていくからだを、時雨がぎゅう、と抱きとめる。
「いっとくけど、これでも我慢してるから」
どこが我慢なんだろう、と、もっと深いキスもその先も知らないあきは、息を切らせながら思う。
――今、してんだろ。
時雨は自分が、すき、なのだろうか。謎かけみたいに確信をついてくれないことばの端を、懸命に掛け合わせながら、あきは思う。それはあきにとってひどく不思議な気がした。
どうして、ぼくを、すきなんだろう。
時雨がぼくをすきで、何度も困らせるみたいにふれてくるから、ぼくも心臓がおかしくなったり、からだが熱くなったりしてしまうのだろうか。これは時雨のせいなのだろうか。
答えは、まだ出そうになかった。