時雨と紅葉。

十話 ウイスキーと建前

30

 チャーハンの一件以来あきには続けざまによいことがあった。

 

「あきー! 久しぶりだなあ……! 元気にしてたかあ?」

 

 玄関をドタバタと通ってくるなり、忙しない音にリョウタと確信してお迎えにあがると、当の本人はまるで魚を絡め取る網みたいに両手を広げてニコニコしている。たったった、と近づくと、がばっと捕まって、ぎゅむぎゅむ抱きしめられた。

 

 リョウタ、いたい。
 でも、うれしい。あきが最近うれしかったこと……リョウタが遊びに来たこと。

 

「んーおまえちょっと太ったねえ」

 

 ボディチェックするみたいにあきのからだを張っていた手が、脇腹の肉を掴んでそういった。あきはくすぐったくて身をよじる。もし声が出ていたら、あはは、と笑ってしまう。

 

「おまえはかわいいなあ。夜の街に慣れた心に沁みるなあー……」

 

 小さな肩口に、リョウタの派手な髪の毛ごと丸い額が乗ってくる。

 

「時雨さん、まだ寝てる? だったら一緒に買い物行こうぜ」

 

 こくりと頷いた。リョウタと買い物行きたい!

 

「起きてるよ」
「へ? わあ! 時雨さんはよっす!」
「おまえがうるさいから」

 

 リョウタの手が絡まったまま後ろを振り返ると、眠そうにあくびをする時雨の姿。仕事から帰ってきて、泥のように眠っていたから、まだ起きないかと思っていた。

 

(昨日、帰ってくるの遅かった)

 

 土日で学校が休みなあきは、朝一番から時雨を待っていたのに(たまごを食べさせたいという意味だけど)、全然帰ってこなくて心配になるほどだった。

 疲れた顔で帰ってきた時雨にたまごを食べさせた。時雨は半分眠っているみたいな顔でそれを咀嚼して、からっぽの皿を「洗え」とばかりにあきへ渡して寝室へ潜り込んでしまった。絶対にしばらく起きないだろうなあと思っていたのに。

 

「俺昨日アフターなかったから、時雨さん寝てる間に買い物行こうと思ったんすよ。時雨さん起きるの早いっすね」
「だからおめーがうるさいんだよ。俺もうひと眠りするし、行ってこいよ」

 

 時雨が踵を返して寝室へ帰っていく。あきは首を傾げた。

 

「あのー時雨さん。こいつバイク乗せていいっすか?」
「……なんで俺に聞く」

 

 ちょっとだけ振り返った時雨の横顔が、やや嫌そうにしている。
 ……バイク? 車と一緒に、走ってるやつ!

 

(ぼくも、バイク乗れるの?)

 

 なにそれ、という意味を込めて、リョウタのツルツルした黒いジャケットを引っ張った。

 

「いやだって時雨さんあきの保護者だし。……一応危ないからと思って。でも、俺あき後ろに乗せたらその他の女どもにするより安全運転で行きますから!」
「ドーゾ。死にゃしないし大丈夫でしょ。俺は寝る」
「やったー! おまえバイク乗ったことないでしょ、気持ちいいぞお」

 

 リョウタがくしゃくしゃの笑顔になってあきの頭を撫で回した。おかげでリョウタの顔だけでなく、あきの頭までくしゃくしゃになってしまう。そうしてすきなだけあきをもみくちゃにしたところで、満足したリョウタがからだを離した。
 おいで、といわれて靴を履く。

 

(ぼく、バイク乗れるの?)

 

 期待に胸を踊らせてリョウタの手を取って、靴を履いた。学校へ行き始めてから、あきにとって時雨のマンション周辺は慣れ親しんだものになってきた。外へ出ることにも、ようやく躊躇しなくなってきたところだ。

 

 遅れないようにしっかりとリョウタの手を握る。数少ない時雨との外出の中では、必ずこうして手をつないでいたから、そうするのは普通だと思ったけれど、てっきり外に出たら手を離すものだと思っていたらしいリョウタは、ぎゅうっと握りしめ続けるあきにちょっと驚いた。

 はじめてのバイクは、おどろきの連続だった。

 

「しっかり捕まっててね。おまえのこと殺しちゃったら、俺が時雨さんに殺されちゃう」

 

 あきのからだをひょいっと抱っこしてバイクにまたがらせたリョウタの、その忠告の意味を知ることができたのは、バイクが発射してからだった。

 

 頭にはまったいやに重いもの(“へるめっと”というらしい)のせいで、赤ちゃんみたいに首がぐわんぐわんするのをこらえている間に、リョウタがあきの前に乗り込んで、そういった。

 

 死ぬって、叩かれるのだろうか?
 その問いは、バイクが走り始めてから明確になった。

 

(ひとじゃなくて、地面に叩かれるんだ……)

 

 いつもマイペースに、ゆるやかに変化する景色が、瞬きをすれば見落としてしまうのではないかというくらい、急速に視界の右から左へと流れていく。風を切って進んでいくそれに、ぎゅうっとリョウタのおなかに回した手に力を込めた。そうしたら、すこしだけスピードが緩やかになった。

 

(時雨、バイク乗ったこと、あるかなあ)

 

 こんなすごい景色を知らなかったとしたら、時雨はすごく損をしているから、今度リョウタに時雨も乗せてもらえるか聞いてみよう。あきはそう意気込んだ。バイクに乗ることが珍しくて、だれにでも経験できるものではないと勘違いしての、大きなお世話だった。

 

 十一月の早い風が肌寒くて、すこしだけ身を縮こませる。

 

 ふいに、リョウタのおなかに回した腕を見つめた。……なんだか、不思議だ。時雨にさわられるのは怖いのに、リョウタにさっきぎゅうぎゅうされても怖くなかった。それどころか、ふれてくる温かい体温に包まれて、ずっとこうしていたいような気さえした。

 

(でも、時雨にさわられるのは、いやだ)

 

 いやだ、とは違う。さわりたいけれど、さわられるのはいやだ。

 

 ちょっと前まで、こんなんじゃなかった。時雨にふれてみたかった。ことばが通じない分、だれかとことばを交わすことは、そのままだれかと心をかよわしているような気分になる。だから熱に侵されていたとき、時雨にふれたくて、時雨のそばにいたくて仕方がなかった。

 

 どうしてだろう。

 

 ――や、しぐれぇ……っ。もっと……っ。

 

 あれはおかあさんの声だ。時雨はおかあさんがほぼ毎日のように連れ込んでいた男のひとと同じことをしていた。
 それを見た瞬間、気持ち悪くて仕方がなかったことがよみがえって、吐き気がした。だけど同時に、感じたことのない気持ちもせりあがってきた。なにかが、いたかった。だけどそれがなんなのか、ここずっと考えているのに答えはでなかった。
 時雨と一緒にいると、安心するだけじゃない、なにかが芽生えている。

 

(時雨と、いっしょにいたいのに)

 

 なにかがうまくいかないことが、あきを静かに焦らせている。

 ほんの十分でついたスーパーで、リョウタとあきはその晩の夕食(食材や材料でなく、多くが酒とつまみだった)を買い込んだ。リョウタが買い物かごにホイホイとものを入れていき、あきはリョウタに時折手を引かれながら物珍しそうにスーパーのあちこちをしげしげと見回している。買い物をしているのは、ほとんどリョウタだけである。

 

 夕方に差し掛かる時間、あたりにはちらほらと主婦が安い食材を求めて周囲を物色していたから、明らかに挙動不審な子どもと夜のにおいプンプンをさせているリョウタというふたりの取り合わせは、スーパー内で妙な異彩を放っていた。無神経なふたりは気にも留めていない。

 

 途中であきは、信じられないものを見た。たまごである。

 

 しかしそこにあったのは、コンビニで購入するいつもの六個入りパックだけではなかった。
 たまご、野菜、パックの惣菜……コンビニなら一面を彩る食材の中のひとつでしかないたまごが、あきの両手いっぱいくらいの棚すべてを支配していた。よく見ると、たまごは四個入り、六個入り、八個入り、茶色いの、白いの、大きいの、小さいの……おどろくほどバラエティに富んでいる。

 

 吸い寄せられるように歩こうとしたけれど、そばにいるリョウタに捕まった。はぐれたらどうすんのといわれた。たまごが買ってほしいという旨を、リョウタにてのひらに書いたけれど、首を傾げられた。

 

「なに? 手が、どうかしたか?」

 

 首を横に振る。

 

 何度てのひらに文字を書いても、リョウタは「ちょっと待って、どこからが次の字?」「今のところもう一回!」という応酬が数回あっただけで、結局伝わらなかった。

 

 あきはそこではじめて、自分が普段当たり前のように時雨に想いを伝えていたコミュニケーション方法が、そんなにかんたんなことでないことを知った。

 

 そんなこんなでマンションへ帰ると、時雨はすでに一度シャワーを浴びてリビングのソファにいた。買ってきた酒を冷蔵庫へ映すリョウタをよそに時雨のそばまで行くと、すうっと鼻に通るさわやかなボディソープのにおいが鼻をかすめた。

 

 時雨、いいにおい。

 

 ソファに座って、時雨のそばにすこしずつにじり寄る。時雨は動かず、されるがままになっていたから、からだの力を抜いてそのにおいを堪能した。

 

(ぼくも、おふろ入ろうかな。ごはん、食べる前に)

「……バイク、どうだった」

 

 ゆるりと開かれていたてのひらに、たのしかった、と書く。

 

「そ。あいつ、まじで安全運転だったんだな」
『ごはんたべる?』
「食うっていうか、飲むだろうなあれは」
『のむ』
「酒だよ。あいつ大量に買ってきやがったな。……おまえは風呂入ってきな」

 

 こくんと頷いて、ソファから降りた。ちょっとだけキッチンを覗くと、リョウタはすでに自分と時雨のビールを用意し始めているみたい。

 

(ぼくはリンゴジュース)

 

 あんまりジュースを飲んだことないから、楽しみ。あきは軽い足取りで、お風呂へと急いだ。早く、時雨と同じいいにおいになりたい。

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