時雨と紅葉。

十話 ウイスキーと建前

29

 たまごは、タンパク質。

 

 木枯らしに鼻水をすする季節。周囲の子たちがマフラーを首に巻きつけ始めた頃、あきはブレザーだけの薄着で学校へ復帰した。一ヶ月あれば身長は数センチ伸びるし、人間関係は変化しいじめのターゲットは変わる――ただでさえ移ろいやすい年頃の子どもの集まる中学校は、以前とまったく違った姿をしていた。と、中学二年生になったばかりの春に行っていこうたっぷり半年間を空けて登校したあきは考えた。

 

 季節が巡っているのだから花や草木がリニューアルされているのは当たり前なのだが、それよりもずっと気になるのは、

 

(みんな、大きくなっちゃった……)

 

 以前より、自分の身長が縮んだように感じること。さすがのあきでも、身長が縮むのはあと五十年以上先であることくらいは理解できるから、同級生がおとなびていっていることに気づくのはやぶさかではない。

 

 浦島太郎って、こんな気持ちだったのかな。と、浦島太郎というお話を知っている子どもだったら感慨深くなるものだが、あきはそんな物語聞いたこともないので、ただただ自分だけ妙に小さいのがちょっと不満だった。

 

 不可解なことは、景色の変化だけではなかった。数学の授業なのに、xやyなどの英語が登場すること。国語では古い日本語というもはや外国語みたいなことばが登場していたこと。歴史は春一番に受けたのが縄文時代だったのに、もう江戸時代まで進んでいること。――当たり前だが、なにひとつとして理解できない授業は退屈で仕方がない。

 

 クラスメイトが確実に自分より頭がよくなっている、ということに関してはあまり興味がわかなかったから、ただいつも時雨の部屋にいるときみたいにぼうっとしていた。ばかであることにはまったく危機感がないのである。

 時折、時雨が「シャーペンとノートくらい持ってかなきゃ、おまえさすがに怒られんだろ」とコンビニで買ってくれた文房具を、指先で弄ぶ。

 

 そんな、なにひとつとしてわからない授業の中で、

 

「たまごは、タンパク質」

 

 という新しいたまごに関する情報を教えてくれた家庭科を、あきはやがて熱心に聞くようになっていた。週に一度しか行われない家庭科の授業だけが、いつも上手に座らせた屍みたいなあきの、黒板の板書を追う手を生き生きさせた。

 

 そんな家庭科である日、調理実習というイベントが訪れた。チャーハンを作るんだって、あきはチャーハンがいまいちイメージできなくて、(チャーハンってなんだっけ。美味しかったっけ。授業がよかったなあ)と乗り気ではなかったが、たまごを使うとわかってから態度が一転した。作れるようになったら、きっと時雨や茉優をびっくりさせることができる。

 

(ふたりのびっくり見たい……!)

 

 周りの子は家から持ってくる手はずになっていたが、あきだけ先生に支給された紺色のエプロンを身につけて、あぶれもの同士の班になっていることなどおかまいなしに先生の説明に耳を寄せた。

 

(ほうちょうで、ねぎをきる……)
(フライパンでいためる……)
(しおこしょうをふる……)

 

 しかし、説明を聞いてわかったのは、“たまごを割る”“たまごをまぜる”“ごはんを炊く”だけである。調理場に用意されたものをぐるりと見渡して、ひとりでに首を傾げた。しばらくして、(僕、全然わからない?)という結論に達した。

 

「はい、それでは始めてください」

 

 ぱん、と先生が両手を叩いたのを合図に、のそのそと全員が立ち上がる。チームは自由に作ってよいという無慈悲なお達しの結果、友達のいないあきは同じように友達のいないらしいクラスメイト数人と一緒に余りチームを組んだ。

 

 違うチームのクラスメイトは、慣れ親しんだメンバーでなにやら楽しそうな話をしながら調理場に手を伸ばしていく。
 一方あきのチームはすでにだれもしゃべらない――お通夜の中、マイペースなあきが(ベーコン、あった)と食材を手に取ろうとしたとき、ブロックになっていたベーコンの塊が横から颯爽とさらわれた。

 

 連れ去られるそれを視線で追うと、それはひとりの男の子の手の中におさまっていた。てのひらから、腕、肩、首すじと伝っていき、あきの不躾な視線がじろじろとその子を見つめる。

 

 クラスメイトなはずなのに初めて見たような気がするのは、あきが普段ただ物体を目に映すという行動しか取っていないためだ。ひょろりと頼りないそれは、ひょろりとしているくせに意外と上背がある。頬に散るそばかすと黒いメガネが、素朴な印象だった。しかし気弱そうな見た目に反して、その子はあきの視線を華麗に無視して、ひとり包丁を握った。

 

 それからあきは、まるで魔法みたいなてのひらを見た。

 唖然とした。

 

 調理場はその子のソロコンサートといってもよかった。慣れたようにまな板の上を踊り、フライパンで香ばしい音を響かせる。周囲のチームメイトは、なにもやらなくてよいことにあからさまにほっとしていたけれど、あきはまるでおもちゃを見つけた子どもみたいに爛々とした目で彼が魔法みたいにチャーハンを完成させるのを追った。

 

「……なに」

 

 一度だけ、彼はそういってあきを一瞥した。あきがしゃべれないことは周知の事実だったから、ジロジロ見るなということだろうが、律儀にもあきはそばにおいてあったスケッチブックに自分の想いを走り書きした。字がいつもよりも汚い。

 

『チャーハン、すごい。名前は?』

 

 半年も一緒にいるはずのクラスメイトに今更名前を聞くことに違和感がないのはあきくらいである。その子は不審そうな目であきを見て、それから静かに「城田」とだけ短くいった。あきは始めて、クラスメイトの名前を脳内に、『チャーハン』と横並びでインプットした。

 

『チャーハン作るのすごいね』

 

 改めてスケッチブックのページをめくって書く必要はあったのかというくらい、一個前の会話と同じだった。あきにはまだ、少年に対しての情報が『城田』と『チャーハン』しかないのだから仕方ない。

 

 城田は面倒くさそうに見えていないふりをした。空気を読めないあきが、さっと城田の前にスケッチブックを突き出す。たとえどんなに視野が狭くともみえるようにだされたため、城田は仕方なさそうにため息を吐いた。

 

「ありがと。親、共働きだから」

(共働きだと、チャーハン作れるようになるんだあ)

 

 城田は居心地悪そうにあきから背を向けた。あきはスケッチブックを置いて、シンクに溜まっていた調理器具を洗った。いつも茉優に「洗剤、つけすぎないの。もったいない」といわれるから、ちゃんと控えめにしておいた。

 

 香ばしいチャーハンの匂いが、家庭科室に立ち込めている。洗い物を終わらせたトロいあきがチャーハンを手に取ると、それはちょっと冷めていた。最近美味しいものに意地汚くなっているあきは、ややうなだれて城田が盛りつけてくれていた最後のひとつを手に取った。他のメンバーはみんな、そそくさと食べ始めているらしい。

 

(城田くん。今度、チャーハン教えてもらいたい)

 

 絶対に名前を忘れないぞと、丁寧な字で「しろたくん」とスケッチブックにメモをした。

| »

スポンサードリンク