時雨と紅葉。

八話 残熱と我が儘症候群

25

 次に目をさますと、ずっとそばにいるといってくれていたはずの時雨が忽然と姿を消していた。だだっ広いベッドにひとりで寝そべっているのがさみしくなったのは、確実に最近時雨とべったりになってしまったからだった。


 そんなことに気づくことなく、あきは本能的に(なんか、ぽっかりする)と胸をさすって、むくりと起き上がった。となりにあったはずの時雨のぬくもりは、すっかりどこかへ消えている。

 

 暗闇に目が慣れない。……どうやら夜中みたい。カーテンと、その向こうに透けている空が、同じ黒に染まっている。へんな時間に目をさましてしまった。

 ぐう、と伸びをする。体調は、すっかりよくなっている。

 

(前はぜんぜん治らなかったのに、ぼくからだ強くなったみたい)

 

 広い時雨のベッドを降りて、ペタペタと素足で歩く。なんだか、時雨がベッドから出してくれなかったり、出るときは抱っこしたりしてたから、地に足をつけて歩いているのがへんな感じ。

 

「……?」

 

 寝室の扉を開けると、リビングからひとの声が漏れてきた。物音と、なんだか今までどこかで聞いたことのあるようなそれ。
 時雨だろうか。

 

(いるなら、ぼくのところ、連れてこなきゃ)

 

 ずっと一緒にいるっていったから。
 そう決意して、ひたひたとリビングへ向かう。――けれど、聞いたことのある声がだれのものか、そしてどんなときに聞こえてきたのかを思い出した瞬間、足元を草が巻きついてきたみたいになって、動けなくなる。

 

 からだが、硬直していくのがわかった。

 

 ――しぐれ。

 

 男のひとを呼ぶ、女のひとの声。男のひとを呼んでいたのは、ぼくのおかあさんだった。ぼくは、それを、押し入れの中でからだを縮めながら、せいいっぱい息を殺して、耳をふさいでやり過ごしていた。男のひとに、ぼくがいるってバレたら、いけないと教わっていて。

 ひゅう、と、あきの喉が鳴った。平和な日常にすっかり麻痺していた恐怖が、恐ろしい速度で戻ってくる。

 

 ――や、しぐれぇ……っ。もっと……っ。

 

 否応なしに震えていくからだに鞭打って、一歩、また一歩と足を進める。
 あきはすでに、扉の向こうでなにが行われているのかを理解していた。踵を返して寝室へ戻れと心が警笛を鳴らしているというのに、その薄く開いたリビングの扉からそれを覗いてしまったのは、つまり――この目に映すまで、なにかの間違いだと思いたかったからだ。

 

 見てしまったら、うそだと思えたそれを、否定することができなくなることを、あきは判断することができなかった。

 

(やだ……っ)

 

 いつものあきの住居から覗く、細長くなまめかしい二本の脚と、見慣れた時雨のそれが絡まり合っている。ここから見えるのはそれまでだけど、フローリングに捨て去られた布切れと、ソファがこすれる音を、あきはどんな自分都合のことばでもごまかすことはできなかった。

 

 気持ちの悪い音が重なっていっそう大きくなる前に、あきはとうとう踵を返して寝室へ逃げ込んだ。ベッドにダイブするみたいに転がり込んで、かつておかあさんがそうしていたころに自分を守っていたみたいに、くるりと丸くなった。

 

 顔を埋めた膝小僧が、くしゃくしゃに濡れていく。

 

(きもちわるい、いたい)

 

 いつかの光景と重なった目の前の行為に、目の前が暗くなるような衝撃と、今すぐに吐いてしまいたくなるほどの気持ち悪さ。――それに、どこからともなくせり上がってくる、獰猛なまでの悲しみ。

 まるで裏切りにあったみたいに、胸が張り裂けそうだった。

 

(うらぎられてない。……時雨は、なにも約束してないのに……っ)

 

 勝手に安心して、勝手に身を寄せていただけだ。いたいのは、どうしてだろう。
 震えを助けようと、おふとんを頭までかぶって、ただひたすら気味の悪いその行為が終わるのを待つ。

 

(早く終わって。早く出ていって)

 

 目をつむって真っ暗にした向こうで、あのひとの高らかな嬌声と、汗ばんだ美しい肢体が浮かび上がる。何度も打ち消しているのに、それはことごとくあきを狙って襲ってきた。

 

「覗くなんて、きみも趣味が悪いね」

 

 地獄のように終わらない時間が経って、かぶったふとんの隙間から見えた窓の外がしらんできたとき、すこしだけ寝室の扉が開かれた。それがすぐに時雨の開け方じゃないと分かって、あきは疲弊したからだを縮めた。

 

「そうだ、きみにひとつ教えてあげる。……時雨はきみのお守りにすこし困っているみたい」

 

 さっきは声が違いすぎてすこしも気づかなかったけれど、このときはじめて、先ほどまで時雨と抱き合っていたそのひとが、――ルリという名前のひとだと知った。

 

『えーっと……きみはどこの子かしら? ここは、時雨の家だと思ったんだけど……』

 

 あのときの、時雨の女のひと。
 だけど、たった今あきに向けているその声は、あのときほどなめらかでやさしいものではなかった。それはたしかに甘いけれど、獲物を見つけた蛇みたいに、どこかこわくて。

 

 聞こえないふりをしていると、勝ち誇ったように颯爽と、そのひとの気配は遠くへ消えていった。
 あきは、まぶたを膝小僧にぐりぐりと押しつけて、胎児のように身を丸めた。顔中についた涙の跡が、ひどく乾いてきたなくなっている。それでも目をつむって、今は眠りたかった。

 

(こわい)

 

 あのひとも、時雨も、おかあさんのいる恐怖をすっかり忘れてしあわせに浸っていた自分も、すべてを真っ暗にして夢の中に溶け込んでしまいたかった。

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