時雨と紅葉。

八話 残熱と我が儘症候群

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 何が起こったのか分からなかった。
 お湯が、いっそう大きな波を打ったのだけは、肌で感じた。さっきまで立ち上る湯気から壁に吸いついている水滴まではっきりと見えていた視界が、ぐにゃぐにゃと歪んだ。自分のからだがどんどん熱いお湯に侵食されていく。

 

 ――……き。

 

 つめたい手が、あきの濡れたからだを乱暴に引き上げた。赤ん坊のようにされるがままになっていたあきが、くねくねの視界の中で時雨を見上げる。

 

 ひゅ、とひどい喘息みたいに喉が鳴った。そこではじめて、あきは自分を持ち上げる時雨の名前を呼ぼうとした。たしかにはっきりと呼ぼうとして、唇を開いて、徒労に終わった。

 

「ったく、馬鹿だよほんとうおまえは」

 

 苛立ちを隠そうともしない声色。あきが数秒口を動かしたことに、時雨は注意を払っていなかったらしい。地球が高速回転をはじめたみたいな頭になっているあきを、いつの間にかくるんだバスタオルごとベッドに落とされる。スプリングがきしむ音と、素肌がシーツにくっつく不思議な感覚に驚いて、ぽかんと時雨を見上げた。

 

「馬鹿、馬鹿、馬鹿だと思ってたけど、風呂でのぼせるとか何歳児なんだおまえは」

 

 ……のぼせる?

 あきははじめて聞く単語に、寝そべったまま首をかしげる。

 

(のぼせるって、なんだろう。……そういえば、頭がぐらぐらしてた。今もちょっと)

 

 時雨はのぼせるの意味を教えてくれなかった。キッチンからコップ一杯のひんやりとした水を運んできた時雨が、問答無用といわんばかりにあきの小さな後頭部を引っつかんで喉に水を流し込んでくる。唇からこぼれ落ちそうになるのをこらえながら、ぎゅうっと目をつむって、冷えたそれを嚥下した。きっと、たとえむせたとしても時雨は水を口に突っ込んでくるにちがいないから、飲み込むしかない。

 

(喉、いたい)

 

 ひんやりしたそれは、火照るからだにとって刺さるみたいな刺激だった。ようやくあきの口元からコップを離されると、中の水は半分以上がなくなっていた。

 

 のぼせる。くらくら。水。
 普段ボケっとしていることが多いせいか、密度の濃い出来事が続きすぎて、すこしも状況についていけてない。

 

「……その顔は、なにが起こったかわかってないんだろう。馬鹿」

 

 時雨はあきのことを、ちょっと馬鹿っていいすぎではないだろうか。振動をきらってか、ゆっくりと枕に頭を倒されながら、あきは真上の時雨を睨めつける。知らんぷりをされた。

 せわしなく回っていた世界がだんだんと元通りになってきて、はあ、とため息をつく。なんだったんだろう。

 

「おまえもう面倒だから、しばらく寝てろよ」

 

 そういって、時雨はコップをつかんだまま立ち上がった。時雨のからだがそばを離れる――あきは時雨が踵を返そうとするのとほとんど同時に、袖をつかまえた。ぎゅう、と引っ張るけれど、腕はあきのてのひらを避けるみたいに、ぶん、と振られる。

 

 かみついたすっぽんみたいに、袖を握る指先に力を込めた。
 薄く握られていたこぶしの隙間から指をさしいれて、「ここにいて」とお願いする。

 

 おかあさんと薄暗いあの場所で暮らしていたころ、からだの寒気やだるさには、気づかないふりをするのが一番だった。だって、だれも助けてはくれなかったから。

 

 だけど今は、時雨が助けてくれる。
 そう思ったら、もうひとりで我慢していたあのときには、こわくて戻れない。

 

 ――ここにいて。

 

 中途半端に背を向けたままの時雨の手に、もう一度「ここにいて」と書く。そうして、様子をうかがうみたいに、ベッドを這って、前髪のかかった時雨の顔を見上げた。

 

 と、熱いお湯の中からあきを引っ張り出したあのときみたいに、早いスピードで近づいてきたからだが、あきの無防備なからだをつぶすみたいに、ベッドに乗り上げてくる。

 

 つぶそうとするみたいに覆ってきたからだに、一瞬の恐怖を感じて、目をきゅうっとつむった。

 

(……つぶさない?)

 

 横たわったあきのからだに影をさしたしぐれのからだは、あと10センチ距離を詰めればあきのからだを圧迫して苦しめるところで、ぴたりと止まっていた。

 

 頭の横に通せんぼするみたいに置かれた両手のせいで、身じろぎすらできない。
 なにが起こっているのかすこしもわからなくて、きょとんとしたまま、天井の床を大胆に遮った時雨を見上げる。時雨のやや長い黒髪が、あきの額に垂れた。

 

 時雨? どうしたの?

 そういいたいのに、スケッチブックも、時雨の手もつかまらない。

 

「おまえ」

 

 声色でわかる、時雨の苛立ち。

 

「ほんとう、我が儘すぎ」

 

 だって、時雨はここにいるっていった!

 

 朦朧とする意識の中で数日前時雨が約束してくれていたことを、あきはまだ忘れていない。時雨はひょっとして忘れてしまったのだろうか?

 

 むっとして、ベッド脇においてあるだろうスケッチブックに手を伸ばす。時雨の手が邪魔するせいで頭を動かせないけれど、だいたいの位置はわかっている。

 

 それなのに、時雨の手が邪魔をして、あきの手をべったりとシーツに縫いつけた。いやがって手を浮かそうとするけれど、のしかかってきたそれはピクリともしない。

 

「いい加減にしろよ、くそがき」

 

 時雨が大きな片手であきの手をひとまとめにして、空いたもう一方の手が額をかきあげる。お風呂上がりのせいで湿った髪の先からこぼれた雫をすくいあげた。冷やされて水になったそれごと額を、もっと冷たい時雨の手が覆う。

 

「ちょこまかするな。迷惑かけるな。じっとしてろ」
「……っ」

 

 抗議!
 といわんばかりに、両手にせいいっぱい力を入れたとき、天井を遮っていた時雨がゆっくりとあきの顔に自分のそれを近づけて、こつんと、額をぶつけてきた。ちょっと、いたい。ということは、これは時雨なりの、いいかげんにしろ、ということなのだろうか。

 

 額を合わせたまま、至近距離で時雨がため息をついた。

 

「勘弁しろ。……俺はおまえを放っておけないんだ」

 

 ことばどおりの、疲れ切ったような重みがのしかかってくる。
 ぽかんとして、秋は額を寄せてきたせいですこしもピントの合わない時雨を見上げる。ぱちぱち、とまばたきをしている間も、時雨は疲れたように目を伏せている。

 

 ため息は、迷惑のじゃなくて、心配の?
 怒ったのも、心配の?

 

 しっかりと聞いてみたいのに、時雨のせいで、てのひらを動かすことができない。乱雑に放り投げられたスケッチブックにもほど遠い。

 

(時雨、ぼくのこと心配した? どうして?)

 

 枕から後頭部をはなすと、お風呂での後遺症か、ちょっとだけくらくらした。けれど構わず、ぐいぐいと時雨の額に自分のそれをぐりぐりする。

 

 心配は、うれしい。

 

(時雨はぼくを、心配してる)

 

 ぎゅう、と目をつむって額を押しつけていたせいで、時雨がどんな表情をしているかなんてすこしもわからなかった。

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