時雨と紅葉。

八話 残熱と我が儘症候群

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 時雨は、仕事をやめたのだろうか。
 ここ二日、あきが思うところである。あまりにも時雨があきのそばにいるので、そんな疑惑が浮上した。

 

(どうして、仕事場いかなくなったのかな?)

 

 ついに、お客さんである女のひとに、飽きられてしまったのだろうか。時雨はおかあさんの周りにいた男のひとの仕事をしているはずだから、女のひとが周りからいなくなったらおしまいだ。

 

 それとも、友達にいじわるされて、いやになってしまったのだろうか。時雨は自分と同じで友達がいなさそうだから、なんて本人に心のうちを読まれたらさぞ「余計なお世話」と怒られそうなことを想像している。

 

 あまりにも時雨のことが気になってしまったので、じっと見つめすぎて「なんだよ」と逆にがんつけられた際に、ぽろっとスケッチブックで喋りかけてしまった。「仕事、いかないの?」と。

 

 時雨は面倒くさげに「帰ってきておまえ死んでたら、寝覚め悪いから」と。一見答えになっていないようなそのことばを分析して、ようやくあきは理解した。ここにいてほしいというあきの我が儘が、まだ有効であったことに。時雨は自ら仕事にいかないんじゃなくて、自分のために仕事を休んでしまっていることに。

 

 仕事いっていいよといったけれど、いかなくても変わんねーから、と一蹴された。

 お母さんが仕事にいかなくなると、あきのごはんはすぐになくなったのに、ここでは相変わらず温かいカップラーメンが少しずつ彼のおなかを満たしてくれた。カップラーメンを食べたいという欲求が日に日に募っていけばいくほど、あきのからだに棲みついていた頭痛とか、熱っぽさとかといったわるいものは、すこしずつ姿を消していった。

 

(カップラーメンのおかげ、だ)

 

 しかし依然として時雨は、あきがベッドから出ることを快く思っていない。長らくあきの住居であった、寝返りを打つと摩擦できゅうきゅういう光沢のある黒いソファは、時雨のものになって、あきにはこのだだっ広いベッドが与えられた。うれしくないのは、ベッド以外はすべて時雨の領域で、あきがそこから一歩でも外に出ようものなら、「面倒を増やすな」といわんばかりの睨みをきかされること。

 

(寝すぎて、からだ、だるい)

 

「おまえ、もう一個ひとりでいけるんじゃないの? 俺の取り分が確実に少なくなってんだけど」

 

 カップラーメンの汁をすすっているあきの横で、時雨は呆れ顔である。あきは文句垂れる時雨をいぶかしく思ったものの、

 

(時雨も飲みたいのかな)

 

 そんな風に思って、目の前のカップめんの残骸を時雨に差し出したけれど、「いらない」といやな顔をされた。ここ数日、時雨が気まぐれに与えれば与えられた分だけ、(もう食べたくない)と思えるようにならない限りカップめんを食べ続けている。あきはいったい、一日何食食べているのか、不思議に思う。

 

(毎回味が違う。お昼のは、ちょっと舌がぴりぴりした)

 

 陽が落ちようとしているこの夕方に与えられたのは、しょうゆの味がする、ややしょっぱいカップめんだった。しょっぱいのに、胃の許す限りは汁まで飲み干そうとするのは、昔いっぱい食べられなかった反動だから、と心の中でひとりいいわけをする。

 空っぽになった容器を、時雨は当たり前のようにあきの手からさらってベッド脇を立ち上がった。時雨の体重で沈んでいたところが、弾んで元に戻る。

 

 とっさに、立ち去ろうとする時雨の背中――にかかるシャツを引っつかんだ。黒いシンプルなシャツがぴんと張るほど歩いてはじめて、面倒くさげに振り返った時雨に「なに」と問われる。

 

(スケッチブック、片手じゃ書けない。……でも、時雨のてのひら、遠い)

 

 手を離せば、時雨はいともたやすく再び背を向けてリビングへ去っていくだろう。伝えるなら今であるはずなのに、手のひらコミュニケーションもスケッチブックを使うこともできずに、仕方なく現状のまま静止する。

 しばらくして、時雨があきの手を乱雑に振り払うと、どかっと元の椅子に腰かけた。

 

「はい。行かないから、いいたいことあるならドーゾ」

 

 時雨は時折、まるであきの心を読むかのような素振りを見せて、その上こうしていやみを返してくることがある。あきにとっては、そのいやみよりも、時雨が自分の心を分かるのが心底不思議に感じていた。

 

 あきはちらりとカーテンの隙間から覗く窓の外を盗み見た。さっき夕暮れに差し掛かったばかりだと思っていたのに、冬にかかろうとする秋の短い昼は、あっという間に暗闇に染まるようだ。

 

 いやみをいいつつもこうしてマイペースなあきに“とりあえずは合わせる方針”という姿勢は、今日も時雨が仕事へ行かない証拠である。

 

 飾り気のないシンプルな壁時計が針を打つ音を聞きながら、あきは枕元に放置してあったスケッチブックに手をかける。昨日からいおうと思い、とうとういえていなかったことばを書きつける。退屈そうにこちらを見下ろしている時雨に、お願い、とばかりに差し出した。

 

「……あー、風呂か。そういやおまえ、入ってないね」

 

 そう、お風呂に入っていない。発熱しているときから今日まで、時雨が服を替えてくれたり、濡れたタオルを渡してくれたりはしたけれど、お湯に使っていないし、シャワーさえ浴びていない。
 だんだんと、昔みたいに小汚くなっていくようで、気持ちわるかった。

 

(前はすこしも気にならなかったのに、今はきれいがすきだ)

 

 時雨はあきの額に無造作に手を伸ばす。大きな手のひらに額どころか、目元まで覆われる。

 

「ま、熱はなさそうだから、いっか。さすがにきたねえし、入ってきな」

 

 汚いって、時雨がベッドから出ちゃだめっていったのに!
 自分勝手な言い草にふて腐れて、時雨の手を無理やり通り抜けるみたいにして、ベッドを出た。これまで一歩でも時雨のベッドを出ようものなら、首っ玉つかまれてでも無理やり戻されたのに、「走るな」としかいわれなかった。

 

(おふろ、久しぶり。いっぱい入ろう)

 

 人知れず心を踊らすあきの背中を、時雨がのんびりと追ってきていた。脱衣所に駆け込むあきとは違い、時雨はキッチンへ洗い物をしに行ってしまった。じゃ、と勢いよく蛇口の水をひねる音を聞きながら、バスタオルとリョウタのくれたパンツ、パジャマを発掘する。時雨は洗濯も、たたむのも、しまうのも適当だから、バスタオル以外はいつも違うところに入っていた。

 

 あきはおそらく二日前に着たまま酷使していたパジャマを勢いよく脱ぎ、洗濯機に放り込み、お風呂へ入った。頭やからだを洗うのもそこそこに、時雨が入るつもりだったのか、たっぷりとお湯の張られたバスタブに手をかけ、そろそろと体を入れていく。熱いお湯に、からだが歓喜しているのがわかる。

 

 むくむくとしあわせな気持ちが押し寄せてきて、はあ、とため息が出た。

 

 お湯のせいで浴室内を覆う、たっぷりと湿気を含んだ湯気が、あきの顔や髪の毛に染み込んでいく。おかあさんと暮らしていたときにはどうして何日も入らなくても平気だったのかと訝しむほど、あきはお風呂がすきだった。

 

(ぽかぽか、おふろ)

 

 水面を浅くたたいて、跳ね返る水の音を聞いたり、足を上下にしてざばざばと波を作ったりと、とにかくお湯を堪能する。

 ふいに、湿ってきた前髪をかき分けて、自分の左手をおでこに当てた。乱暴に伸びてきたのに、ふれるときは思ったよりもやさしかった時雨のてのひらを思い出して、心がへんな感じになる。

 

(時雨の、手、ぼくのよりも大きかった。指も、ぼくより長くて骨っぽかった。ぼくも、大きくなったら時雨みたいになるのかな)

 

 額が、熱くなる。

 

(熱い)

 

 ――入ってきな。

 

 手がはなれたとき、感じた一抹のさみしさはなんだろう。あきは自分が反射的に持ったあの気持ちに、首を傾げた。

 

「あき、おまえ病み上がりだからあんま入るな。とっとときれいなって出てきな」

 

(そんなにたくさん入ってないのに!)

 

 扉ごしに聞こえるくぐもった声に、考えごとがシャボン玉のように弾けて消える。あきは、わかった、といわんばかりに勢いよく立ち上がる。水が打つ音を聞けば、時雨はあきが風呂から出ることに気づくからだ。

 

 ざぱん、という音が、お風呂の中にこだまする。あきはいつものようにバスタブの向こうに棒切れみたいな細い足を引っかけようとした。

 

 ――その試みが失敗に終わったことに気づいたのは、視界がゆがんで、いつの間にか真後ろに迫っていた壁に後頭部を追突させたときである。

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