時雨と紅葉。

七話 黒い瞳と素顔

22

 あきに抱えられている腕が、さすがに感覚を失ってきつくなってきたので、いったん抜いてみた。熱にやられて熟睡していたあきは、一瞬悩ましそうに眉を寄せたが、再び寝息を立て始める。長い間石像のように動かなかったからだを動かして、風呂に向かった。あきが目覚めたらなんか食べるものを作ったり、薬を飲ませたりと動かなくてはいけないのだから。

 

(あいつの着替えもさせなきゃか、汗でべたべただろうし)

 

 そんなことを考えながら時雨がバスルームに入り、タオルと下着の替えを準備しているときだった。床にべちゃ、と柔らかいものが勢いよく打ちつけられる音がして、――それがまぎれもなくあの幼いからだと分かり、寝室へ戻る。案の定、なぜかからだに布団を引っ掛けたまま、床にうつぶせで倒れているあきが、ぼんやりと時雨を見上げている。

 

 おおかた布団から起き上がって、歩こうとしたところ、眩暈にでもやられて足をもつれさせたのだろう。正常な体調のときでさえ、ぼうっとしているせいか、こけやすいというのに。

 

「なにやってんの、おまえは。世話焼けるね」

 

 床と抱擁したままのあきが、なぜか時雨を見て手足を緩く動かしている。まるで地上で泳ごうとする魚みたいにおかしなそれの前にしゃがみこんで、布団ごとあきの両脇に手を入れる。

 

 ――そのまま布団に戻そうとした熱いからだは、時雨の手を振り払って、まるで体当たりするように抱きついてきた。背中に回された両手が、シャツを引っ張るみたいに掴む。

 

(あちい)

 

 柔らかい頬が、首筋に当たる。一瞬眉をしかめるほど、自分の体温よりも高すぎるそれ。

 

「なに、どういうこと? ……てかおまえ、布団から出るなよ。疲弊して死にたいの?」

 

 なんでこう、意味わかんない行動するかね。

 くっつき虫になったそれは、絶対離されるもんか、といわんばかりにしがみついてくる。この状態になると、時雨には意味がわからなすぎてお手上げである。どうせ今スケッチブックに書かせても、余計な体力を使わせるだけなので、シャツを握り締めていた右手を離させて、手のひらを押しつける。

 

 すこしだけからだを離したあきが、時雨を不満そうに見上げる。そして、時雨の手をパーに開かせると、いつもよりも弱々しい力で文字を綴りはじめた。

 

「こ、こ、に……」

 

 ――ここにいる、時雨いった。

 

「はあ? 風呂入りにいっただけだよ。いるだろうが」

 

 その答えは、あきのお気に召さなかったらしい。グラグラしているだろう頭を精一杯振って、ここにいない、と手のひらに書きつける。

 要は、あきにとっての「ここにいる」は、ずっとあきの目の届く範囲にいるということを自然と約束していたことになっていたらしい。冗談じゃない、面倒すぎる。

 

「無理。俺風呂入りたい」

 

 ――ぼくも。

 

「おまえはだめ。あとでからだ拭いてやるから」

 

 ――いやだ。

 

 あーもう。なんなんだこの平行線すぎるいい合いは。しかも、あきはしゃべらないで手を通して伝えようとするから、テンポが遅くイライラするのだ。時雨は仕方なさそうにため息をつくと、あきのからだを持ち上げて、ベッドへ倒した。あきは離れるまいとジタバタもがいていたものの、しばらくすると時雨がその場を離れる様子のないことに気づいて、ようやく不思議そうに時雨を見上げた。

 

「なに、おまえが我が儘ばっかりいうからだろうが」

 

 む。我が儘じゃない、時雨が約束した。
 とでもいいたげなその額を、軽く小突いた。あまりのあきの強情っぷりに、折れたのは時雨の方だった。あきはようやく一息ついて、もぞもぞと時雨に近いベッド脇に移動してくる。不機嫌そうだが怒ってはいないことを知り、安心したようにベッドに身を任せた。

 

「おまえ、腹へらない? 俺はらへったけど、カップラーメン食う?」

 

 カップラーメン、ということばにしっくり来なかったのか、あきは首をかしげた。そういえば、こいつコンビニでいつも買ってくるのおにぎりだけだったか。

 

(食うようだったら、ちょっとやればいいか)

 

 食欲ありそうな感じでもないし。そう思いつつ、キッチンへと向かった。あきがベッドから手を伸ばして時雨を引きとめようとしたけれど、「俺はおまえと違って病人じゃねーの、腹へるの。これもだめだってんなら、風呂も入るし仕事も行くし、戻ってこねえから」と脅して黙らせた。

 

 カップラーメンができる三分も待てねえのかこいつは。――と思ったが、そもそもあいつはカップラーメンという存在も、それが三分で出来上がるということもそういえば知らなかった。

 

 お湯さえ沸けば三分でできるから、と今更寝室に戻っていってやるのは馬鹿らしい。まるで安心させてやるみたいなのは、得意ではない。甘やかすのも、なんだかへんなおとなになったようで居心地が悪い。

 

(こっちは散々振り回されてるんだから、これくらい我慢しろっつーの)

 

 三分以上お湯につけて、やや汁を吸ったカップラーメンと一膳の割り箸を片手に、寝室へ戻る。
少々ぶすくれていたあきは、はじめて見るカップラーメンにやや興味を示し、ねだった。あきの舌には熱すぎるそれを冷まし、鳥の子にするみたいに食べさせる。

 

「おまえ、茉優にカップラーメン食ったなんていうなよ」

 

 ――なんで?

 

「病人にインスタント食わせたっつったら、殺される」

 

 ――なんで?

 

「いいから寝ろって病人」

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